翼は丹に濡れている
「……天使さんの仕事は、人間の願いを叶える事、だったよね?」
数秒後。
彼女が起こした空白は、彼女の手を以て還って行った。
何を誤魔化す為なのか、誰を誤魔化す為なのか、微塵も至らない儘、僕は答える。
「えっと────まぁ、概ねその認識で大丈夫だよ」
「……ならさ」
彼女はほんの少し顔を落とし、僕を見詰めた。
若しこの上目遣いを故意にしているのだとしたら、彼女は小聡明い事この上無い。
そう思い始める程、如何やら僕は記憶の容量の底が酷く浅い様で、この時僅かに、然れど確かに興が乗っていた。
「夢みたいなお願いも、叶えられるの?」
「勿論。叶えられる、って言うより、叶えて来たよ」
「どんなに現実的に無茶でも?」
「それが仕事だから、余程じゃなきゃ大丈夫」
「今直ぐ叶えてくれるの?」
「物に依るけどね」
彼女は矢継ぎ早に連ね、そして少し間を置いた。
「……ねぇ────」
何か重大な秘密でも打ち明ける様に、静寂に揺蕩う様に、自分を待った。
「────私、外に行きたいの」
その科白は、飽くまで予期していた物だった。
彼女に会いに来れば、彼女は何時でも迎えてくれる、それは真逆、偶然ではなかっただろう。
「別に会いたい人が居る、とかじゃないけど、でもずっとこの部屋の住人で本の虫になるのも飽きたから。だからさ────」
そして、それが偶然でないのと同様、これも矢張り知っていた。
正確には、僕が起因した結果だった。
「……御免ね。今は無理なんだ。期待させちゃって本当に御免」
心の内では、失敗した、と思っていた。
僕は調子に乗り、如何にも仕様が在った筈なのに余りに語るに落ち、今は見窄らしくも肩の付け根を擦りながら、可能な限りの平静を装っている。
何か跡を探しても、其処には稍骨の弱そうな、所謂正常を示す印だけが異常に残っている。
何か袖さえ触れたら、いとも容易く折られて仕舞いそうだけれど、それは一箇月の長い眠りの所為で、そしてそれも含めて、哀惜を覚えた。
想起を試みる。
『翼を失う前』の僕。
『天使の証を剥奪される前』の僕。
でも、その存在が非現実的になった時点で、僕は想像の羽が萎れて行くのを自覚した。
────僕の羽をこれ以上奪われる前に、早く現実に戻ろう。
僕には、天使と言えば、という印象も強いだろうけれど例に漏れず、肩甲骨の辺りから純白の翼が生えていた。
でも、これも矢っ張り過去の話で、今はもう無い。
固より非存在であったかの様に、影も形も残らない。
寧ろ自己否定的な、非存在的存在に成り下がっているかもしれないけれど、僕は此処暫くは認める心算は無い。
僕が初めて自身の羽が捥がれている事に気付いたのは、この病室で目覚めた後暫くしてだった。
当時の僕は、それはそれは慌てたものだったけれど、恐らく、天界から追放され物理的に落ちる拍子に何処かに掠めたのだろう、長期の昏睡に陥っていたのはきっとこの所為だ、と、そう結論した。
そして、それだけではなかった。
今まで持っていた筈の超常的な力が共に失われていると気付くのも、その直ぐだった。
今度は、何も驚かない。
と言うより、最早驚けない。
どれだけ放心しようと、背中の羽が源だったのか、その力は二度と戻る素振りを見せなかった。
「……叶えられないの?」
「都合としか言えないんだ」
つまり僕は、天界に帰る事も能わない、下界で暮らすだけの、言うなれば只の人間になった。
勿論それは知られていない。
だから彼女は僕を見詰める。
だから彼女は疑い無く僕を思う。
だから彼女は未だその眼差しで僕に希う。
「何時なら叶えてくれるの?」
だから僕は────────
「……何時か、相応しい時なら。その時になっても未だ僕が傍に居たら、叶えてあげる」
復た、嘘を吐くしか、ないじゃないか。
「『相応しい時』、って?」
「……君が本当に困って、他の全てを擲っても良い、って思った時、かな」
そんな時は、来ない。
来たとして、それは僕ではない。
その時には既に、この嘘で接ぎ合わせた傾城も到頭崩れ堕ちているだろうから。
「……そう。私別に、今でも良いんだよ?」
「今は駄目。でもその代わり────」
「?」
思った事も有り、多少強引に話を逸らす。
「────君が此処で普段何してるのか、知りたいな」
「普段、此処で?……代わりになってなくない?」
「大丈夫、なってるから良いんだよ」
彼女は暫し考え込む素振りを見せたかと思えば、案の外直ぐ此方を向き直った。
「……そう言えば、本を読む事しかしてなかった」
「あぁ、先そんな事言ってたね。なら、如何しようか────」
「……急に如何したの?」
「いや、君の暇を紛らわす方法は無いかな、って。君の願いは叶えられないれど、責めてそれ位はしたいからさ」
生憎僕は今何の力も持ち合わせが無いけれど、それでもきっと何か彼女への仕様は有る。
でも僕はそれを、言葉と裏腹、彼女の暇を紛らわす事ではなく、願いを忘れ去って仕舞う事に見出した。
何か都合の良い物は無いものだろうか。
願いを思い返せない程度には彼女が夢中になれる事で、加えて早々と済まされたら困るからそう簡単に終われない事で……一層の事僕に依存させてみようか、この際一つの手だから、と一瞬、本当に一瞬だけ思ってみたけれど、余りに酷過ぎる為に急いで掻き消す。
堕天使にも幾らか誇りというものは残っているらしいけれど、如何してか、そんな下卑た考えが頭を擡げる時点で大差は無いのかもしれない。
ならば肯定するかと言われれば、僕は勿論首を振るのだけれど、僕は空恐ろしくなった。
「っそうだ────」
彼女は本の虫だ、と、先彼女自身が言っていた筈だ、考えた末そう思い出す。
でも、ユリーカ、とでも言いたくなる様な閃きに陶酔する暇は無く。
その時、猛烈に知りたくなった。
彼女は何を考え、何を感じ、何を好き、何を嫌い、そして何を残すのか。
純白の紙を与えたとして、それを何で汚すのか。
血濡れた激情の赤なのか、初々しい声援の黄なのか、澱んだ憂鬱の青なのか、将又、そして或いは────途端、零れた。
「小説を書く、とか────」
「御免、もう────」
奇しくもその時、彼女も物を言った。
「あっ……御免、もう一回……」
「……いや、良いよ、忘れて欲しい」
彼女は怪訝気な顔をした様に思う。
それか、顔を顰めていたか。
けれど、実はそれは気の所為で、何処か喜ばし気な顔をしていた、と、そう言われても、僕は疑わなかっただろう。
何方共だったのかもしれない。
「……御免ね、そろそろお医者さんに呼ばれてるから、今日はお終い」
「……そっか、分かった」
「ふふ、残念なの?」
「仕方無いよ」
「……ふふ」
確かに、もう良い時間だろう。
何かが可笑しかった様で、僕の言葉に彼女は微笑み、そして思い出した様に切り出す。
「なら代わりに、これ、持っててくれる?」
「……?」
そう言って彼女から手渡された物は、何やら本だった。
何の代わりなのかだとか、これを如何して欲しいのかだとか、依然知らない儘に彼女は言った。
「じゃあね、天使さん」
「……分かった、なら復た」
扉を開けながら、僕は言う。
「神の御加護が有らん事を」
「待って、その言葉────」
「?」
「────いや、御免、何でもない。じゃあね」
そして、僕は一人になった。
片手には彼女の本と、其処に残る温もりを携えている。
僕の心は、彼女が僕を狼少年の様な者だと思っていないか、そんな憂慮で一杯だった。




