藍より出で藍を蝕む
「今日一寸だけ、天使さん待たせちゃったよね。御免ね、折角来てくれたのに────あの時、お医者さんとお話してたの」
「あぁ、らしいね。受付で聞いたよ」
不可避とはいえ不慣れな雰囲気に当惑したか、将又逆因果か、躊躇い勝ちに、殊しめやかに、彼女は語り出した。
その声色は酷く静謐、寧ろ窓の外を音も無く降り頻る白雪に似て、青天の霹靂とは露も感じさせない。
「ぇ、っと……先ず、何から説明すれば良いのかな、色々言わなきゃならないし────」
「話せる所からで大丈夫だよ。如何しても難しいなら、そしたら先ずは、今日の事情からで」
「……分かった」
我ながら、僕も中々非道な男だ。
彼女は医師から制止された話を態々僕にしようとしてくれているのに、こんな結論を急かす言い方をせずとも良いじゃないか、とは、思っても自分に言う事は無い。
こんな思索が渦を巻く。
彼女は不審を抱いていないだろうか、という思考と、真逆抱いてはいまい、という思考とが相半ばする。
僕と同じ神妙な面持ちにその跡を捜そうとしても、下を向いて合わない眼は何も言う筈が有り得ない。
彼女は口を開いた。
「……ねぇ」
「?」
口を開いて一度閉じ、再び開いた。
「私、心臓の病気で此処に居るんだけど────今日、お医者さんに言われたの。私、もう長くは生きられないんだって」
『長くは生きられない』。
それは病院という語に付いて回る、動もすれば在り来りな結果だった。
惨たらしく予測可能な、観測の堆積、その範疇だった。
孅く儚い彼女に相応しい、愛でて手折って永遠に胸に秘め込みたくなる様、彼女の下ならば、その罪も色付く花になる。
でも、それには未だ尚早。
だから、僕は冷静で居なくてはならなかった。
そして、『天使さん』、純情で無垢な、彼女に相応しい『天使さん』、を遂行しなくてはならなかった。
生憎にも、相も変わらず、それは得意だった。
「……寿命が────」
「お医者さんは、持って後一月だ、って」
彼女は顔を上げず、言葉を進める。
余命が、一月。
その言葉、眼前に突き付けられた事実は、何だ彼だ今でさえ確かな重みを以て受け止められた。
幾度と無い旅立ちを看取って遍歴してこの地に来た以上、多少は見慣れたかな、と浅ましくも思っていた自分が馬鹿らしい。
覚悟はしていた筈だったのに、何と無様な。
「一月、か。それは…………」
『それは』、果たして何なのか。
知らず喋るのは止めた方が良い。
「……それでさ、余命の話をした時に、お医者さんが言ってたんだけど。私もう少しで、手術なんだって。多分一週間位かな」
「手術────それは、如何な感じの」
「お医者さんも看護師さんもあんまり教えてくれないから、詳しい事は全く分かんないの。でも、若しその手術が成功すれば、絶対一月以上は生きられる、って」
僅かに拍子抜けした。
てっきり、これ程沈んだ声をしているのだから、確定した死を恐れているのかと思っていたのに、こうなっては、余り直截は言わないけれど、正直何を怯える必要が有るのか。
僕がそれ程心配する事は無いのかもしれない。
それでも矢っ張り、そうし続けるのが心地良いとは思うのだけれど。
僕の知らない僕が、心の奥へ退いて行く感覚。
「……聴いた分には、そんなに不安がる要素は無い気がするけど。何で怖がってるの?例えば、その手術が途轍も無く痛いから、とか?」
「確かに、前に看護師さん達が話してるの聞いちゃったけど、若しかしたら成功したとしても後遺症が残るかもしれない、って」
「それは確かに、怖いかもね」
「それに────いや、今は良いかな」
これは少々骨の折れる仕事かもしれない、彼女は、臆病を患って側耳をくれないらしい。
そして、僕にも口を噤んで仕舞う。
それが酷くゆかしく、如何にも掻き乱されて仕方無くなるのは、天使の心理か、或いは僕の心理か、何方にせよ僕は、如何せん粗雑になる。
「……なら良いじゃん、別に。手術を受けるだけで生き存える事が出来るんだから、僕を頼むまでも無いでしょ。君の病気が何なのか具体的に知ってる訳じゃないけどさ、でも果たして何であれ基本的に、現代医学の発展振りからしたら、恐れるに足らないと思うんだけど────」
此処まで一息に喋り尽くす。
実際、手術を受ける『だけ』、幾ら怖いとしてもそれだけで彼女の悩みが解決されるというならば、それこそ天から降って来た僥倖だろう。
僕の手を借りず、言うなれば卑怯な手段に訴えず、人間の手だけで事が済む、例えば雪山の遭難、例えば大海の難破、それらの致命に比べれば、これは僕が救って来た中では有数で穏便な状況。
天使として長らく生き、主観的事実の絶対価値を失いつつあるけれど、この判断は客観的にも事実なのだろう、と暫定してみる。
その時、僕は只の一般人、特殊を備えない非超常で、現実そうである事を隠し天使を騙る存在が其処に流れ着くという、批判的な正直者に転落する。
端から見れば、それで良い。
彼女を救いたいと、彼女に幸せになって欲しいと、それを願って止まない僕が、彼女の傍に寄り添って彼女に安心を与えられる。
ならば、或いはなれば、僕は聴き手に徹するのみ。
それが全て。
分かっている。
得心している。
先僕は、そう自分に言い聞かせた。
合理的で倫理的で、僕を管理するその理。
「……ねぇ、『天使さん』」
なのに彼女は、僕を呼ぶ。
柔い声で、清冽な音色で、漣に身を任せ揺蕩う様に、僕の『名前』を呼ぶ。
如何か、切に、止めて欲しい。
醜い自分を曝け出したくないのに。
それは、最早、鬱陶しいとすら思って仕舞った。
「『天使さん』────」
「っ、と、取り敢えず!」
直視に堪え兼ね眼を逸らす。
変に強張って発した声、寧ろ雑音、は、立方から人間の体積一人を除いた空間に、無闇に、妄りに、冬らしく乾いて響いた。
目線の先、雪はそろそろ止んで仕舞いそうだった。
二枚、一枚、と、白い葉が雲居の木から翻り落ちる。
何とも通念だけれど、余命の暗示に思われて仕方無い。
「取り敢えず、一週間後、だっけ?手術、別に怖がらなくても大丈夫だと思うよ。岡目八目、って言うじゃん。濫用、って思うかもしれないけど、天使の僕が言ってるんだから。だからさ、その時────」
その時、僕は何をするのだろう。
彼女の病の快復を手放しで喜ぶのだろうか。
それとも、彼女の下を発つ為に荷造りでもして、寧ろ夜逃げの様に餞別の言葉も無しでその行方を眩ますのだろうか。
そう考えてはみても、未来は誰にも、それでこそ何かしらの力を以てしても、既定出来る物ではないと知っているのだから、想像するだけ無駄なのだろう。
「────手術を乗り超えて、その上で、蓬ちゃんには笑ってて欲しいな」
だから僕は、予測も推量もせず、只管望む事にした。
濾過された科白の源流が如何な歪んだ思いだとしても、祈りとする行為がそれを綺麗にしてくれる。
汚い僕には丁度良い、都合の良い原理。
或いは、卑しい僕を無理にでも肯んずる為の、見窄らしくも強かな真理。
何方が僕に於いての真実なのかは心底如何でも良く、只一つ、此処に存在する明確な事実は、最も重要な事は、僕がそれを、『心底如何でも良い』、と思える事。
そう思うなら、そう思うから、僕は心置き無く、気が置けなく、彼女の隣で微笑んでいられる。
彼女に何を感じ、何をしようとも、笑顔が彼女への感情を保障してくれる。
「先ずは、『手術は別に怖くない』、って思ってみる所からだね。って言うか、それさえ出来れば解決するんだけど、でも、それなら況して────」
「………………はぁ」
でも、彼女の返事は、明ら様に期待外れの溜息だった。
僕を散々疎外する、その息遣いだった。
如何して、と、その理由を探す理性も機能を止め、僕は酷く無様に其処で声を失っている。
「……天使さんも、そう言うの?」
何だか、がっかりだな。
その言葉を幻聴したのは、僕が矢張り可怪しくなって仕舞ったからなのか。
そんな事は無い。
有り得てはならない。
でも、実際、彼女が少し踏み出せばきっとそれはいとも容易く実現して仕舞う。
漸く築き上げた牙城を、こんなにも刹那に滅ぼされる。
「……如何して」
窓の外の白は、それ以上を求めなくなった。




