変嬰緑児
「────私、自分の事を誰かに決められるのが嫌いなの。誰かの言い成りに何て、なりたくない」
酷く沈黙に支配された空間を、彼女の揺らぐ声が劈く。
何を唐突に言い出したのか、と思うも、直にその言葉は、僕の科白、『如何して』、に答える物だと気付く。
気付く、と言うべきか、そうと解釈するしか無い上、只そうすれば比較的意味が通るだけなのだけれど。
兎に角それは必至、僕を困惑させた。
「だから、皆が『手術を受けて』、って言ってくれるけど、何でかそんな気になれないの。皆、勿論天使さんだって、私に指図する心算じゃない、とは知ってるんだけどね。でも私、凡庸な物語に終わりたくない」
僕は進まず、然れど科白は躍る。
華々しくも独擅場の上で舞っている。
確かに、先僕は『手術を乗り超えて────』、とは言ったけれど、彼女にはそれが命令の味を帯びて聞こえていたのか────否、そうではないと、正に当の彼女が言った。
ならば、僕の何が彼女のお気に召さないのか。
それが何だとしても直そうと思えるのに、それはきっと彼女にも分からないのだろう、だから遣る瀬が無い。
「一寸、自分語りしても良い?」
「……お願い」
彼女はそう口にし、裏腹暫く黙った儘で居た。
如何にも突然だとは思っても、止める気は更々無い。
彼女の匂いが染み付いた話を聴く事さえ出来れば、如何やら失望の肢体らしい今の僕には御の字だった。
「……私、お母さんが居るの────それは人間、誰でも何時かは居るんだけど、そういう事じゃなくて」
「蓬ちゃんの、お母さん……?」
僕は歴々如何にも怪訝そうな顔をしていたと思う。
それは或る程度は宜なる事なのだろう、理解してか彼女にも気分を害した気配は露も無かった。
何故なら、只の一度も認めていない。
彼女の肉親ならば、彼女の病室で、とまではならずとも、病院の受付や入口辺りで出会しても不自然な事はないのに、一目も合わない所か、彼女の口端に上がらないとは、成程僕の不審も不審ではない。
「────余り聞かない人だけど、その人が?」
「……まぁ確かに、話していて楽しくなる人じゃないからね。私もあんまり話した覚え無いし」
其処は彼と無く辺りが昏くなったのはきっと気の所為でなく、多少なりとも所有者の内面を投射していたからなのだろう、と、そう映る。
その機微を悟ればこそ、僕は果敢にも明るい何かを引き出そうと努めなければならなかったのかもしれない。
如何やってそれを為すのか微塵も至らぬ儘、或いはその必要も覚えぬ儘、何方にせよ僕は、それが最善と彼女にその続きを促した。
「────お母さん、厳しい人でね。門限とかも結構早かったり、お洒落もあんまりさせて貰えなかったり、そんな感じ。でも、お父さんは真逆で、緩い人だったの。少しおどおどした、見るからに気の優しそうな人」
何だか以外だ、僕は呑気にもそう思った。
彼女の父親については其処まで、問題は母親、余り他人の親について『問題』、だなんて失礼無礼極まりない形容をするのは、それこそ問題なのだけれど、其方が如何にも想像にそぐわなかった。
僕は彼女の幸せ一辺倒な様子から勝手に、彼女の家庭は順風満帆、円満な団欒なのだと思っていた。
これは身勝手な願望だったのかもしれないけれど、そう思って仕舞うという事は即ち、言葉にするまでもない。
「お母さんは分かんないんだけどね、お父さん、お医者さんだったの。予想外、って感じでしょ?」
「……確かに」
「それも、相当敏腕だったんだって。誰彼が匙を投げた患者さんも、お父さんに掛かれば完治しちゃったんだ。だからお父さん、神様が味方してるんじゃないか、って噂されてたんだよ」
此処までの会話で一つ知った事が有って、それは彼女が父親について語る時は類無く活き活きしているという事だった。
彼は相当愛されていたのだろう。
何とも微笑ましい限りで、そう思えるのは彼女の色が全く違って見えたからだった。
「そう、お父さんは本当に凄くて眩しかったの。皆が家の誇りだ、って持て囃して、本人も満更じゃなさそうだった。だから────」
「?如何か……」
「────だからお母さん、私にとんでもなく期待してた。小さい頃から、私もお医者さんになってね、って、沢山勉強させられてた」
でも、一挙に空気が変わった気がした。
あれ程にも和やかだった部屋が、僕には未知の感情で塗りたくられて行く。
「先言った、門限とか、お洒落とか、それも全部勉強の為だったの。ほら、私の肌、多分普通じゃない位色白でしょ?これも、あんまりお外で遊ばせて貰えなかったから。で、それもこれも、私の将来の為の必要な犠牲、なんだって」
「…………」
「お母さん、よく言ってた。こんな良い暮らしが出来るのも全部、お父さんのお陰なんだ、って。だから貴方もそんな素晴らしい人間になりなさい、って」
期待。
そんな二文字で、片付けられる代物なのか。
その『未知の感情』、とやらは、本当にその言葉で押し殺しても構わないのか。
考えたって或る程度仕方無いのに、止めるという行動を起こすのは躊躇われ、漠然と桎梏に繋いでおいた。
「でも、確かにお母さん、私の為を思ってくれてるの。だって、毎日そう言ってくれるんだもん。毎日お母さんだって頑張ってる筈なのに、それでも私にこんなに世話を焼いてくれるのは、本当に愛情が無かったら出来ないでしょ?」
「……蓬ちゃん」
暫定、期待。
それは時に人を殺し、発端が善意、今は慈愛、であるだけに常に厄介な代物で、抑が理不尽な物だろう。
毛色が違うものの、僕達天使だって期待に応えられない時は有るし、その度に僕は圧し潰されそうな罪悪感に苛まれるのに、それを年端も行かない彼女が背負って来たとすれば、その労はきっと、途方も無い。
彼女の語りも愈変局を始めた。
「────でも、それも三箇月前まで。お母さん、もう随分変わっちゃった」
「……君の、お母さんが?」
「そう。天使さんと初めて会う、本当に数日前」
話に依れば、多少過保護と言うべきか、まぁその節は有れど普通の家庭だと感じるのに、此処から如何変わって仕舞うと言うのか。
僕はそう疑念を呈しておいて、聞かなければ未確定、それは存在しないも同じだ、と、心の何処かで考えている。
所で、『普通』、から変貌を遂げる先は、全く『特別』、と名が付きはせず、精々『特殊』、が関の山だ、とは、僕は知っていないではなかった。
只、眼を逸らしていたいだけだった。
それはきっと、天使としての本能、幸福の象徴としての好悪に従っていたに過ぎず、介在する余地も無いのだ、と、そう信じる。
先までの全て擲つ覚悟の望みは何なのか、それは立派な自家撞着、とも、心の何処かが叫んでいる。
そして如何信じようと、彼女の口を抑える術を、唇や手で始まり夥しくも持っている僕は、それを行使するには踏ん切れずに居た。
「……三箇月前、お父さん、死んじゃったんだ」
その言葉はやけに平坦で、平坦過ぎる程には平坦だった。
その口調も、起伏に欠けるこの部屋の内なのだから、寧ろそれが相応しいのかもしれない。
加え、仮に隆興でも有れば心を痛めるのは他でも無い僕なのだった。
「丁度その前、凄く偉い人がお父さんに掛かりに来たらしいの。前代未聞の難病だから、相当の腕利きじゃないと治せない、って。お父さんも恐縮してたけど、結局引き受けちゃった」
「結果は……?」
「……前から思ってたけど、一寸天使さんはせっかちな所有るよね。急がなくても良いんだよ?」
それは本来、僕の口から出る科白だったろう。
勿論実際にぼやくのは控えたけれど、明確な僕の失態だった。
端から理解していた事、逡巡とは、げにげに迷惑する物で、誰にも利さないのだけれど、意識が有れば快刀乱麻を断つ、ともならないのが葛藤だった。
「……じゃあ結果から言っちゃうけど」
一転、柔和な笑みを目元から落とし、彼女はその行方でも後を追う様に眼を伏せる。
残るのはその事実、残らないのはその願い。
「大成功だった────」
「っ、なら……!」
「────一人の犠牲、お父さんが死んじゃった事さえ除けば、ね」
『なら』────その言葉に僕が何を乗せる心算だったのかは、何か言う強迫観念に駆られ夢中になっていた余りに最早憶えていない。
決論が明示された物語の何を、僕は錯視していたのか。
「その手術を終えた夜、お父さん、家に帰って来て言ったの。『明日は久し振りにお出掛けしような』、って。確かに暫くはお父さんと二人切りで何処か行ってなかったから凄い楽しみで、興奮して中々眠れなかった事を憶えてる」
「…………」
「でも結局睡魔に負けちゃって、朝起きたら────お父さんは、二度と目醒めなかった。心臓発作だって」
徒然に、彼女の目許を眺める。
曇り空が陰を落とし、俯いて良くは見られなかったけれど、其処には何も無い。
それに服し疾うに涸れ尽くして仕舞ったのだろうか、何も無かった。
それにこんな話、言って仕舞えば有り触れている。
僕だって聞き馴染みがするのも、考える必要も無く何処かで携わっていたからだろう。
「お母さんが変わったの、その日からだったと思う────嘘、発端がそれだった、ってだけ。でも確かに、その日から過保護の性が増して来た感じ。決定的だったのは、その暫く後、この病気に罹った時」
そして報復と言わん許りに、次は彼女が僕を一瞥した。
魔が差した僕はそれには気付かない振りをしておく。
歎息の一つ無く、彼女は切なそうな眼で手許を見た。
思えばそれが契機だったのかもしれない。
「……お母さん、私が心臓を患った、って知った時、突然可怪しくなっちゃった。『折角』、とか、『台無し』、とか、そんな事を言って。それが如何いう意味か、私は一寸だけ分かっちゃうけどね」
丸で元からは可怪しくなかった、とでも言う口吻だ。
如何せ、濁さずに衒らかして仕舞えば、教育論の一つや二つが飛ぶのだろう、その数だけ御仁は螺子が外れていた、という事だ。
充分彼女には理解する機は与えられていただろうに、それを始終悟らずに居るのは、彼女なりの自我の防衛機制なのだろうか。
ならばこう眼が醒めて仕舞うのも共倒れ、身相応なのだろう。
「だから、暫くお母さんには会えてない。病室で籠り切りだからお母さんから来るのを待つしかないのに、結局未だ来てくれないの。お金だけは支援してくれてるみたいだけどね」
幾ら強がっていても、片隅で理解しているらしい。
齢幾許、彼女は実の母親から見捨てられたのだ。
善意に発端する全ての重荷を、これ亦善意で背負い込むだけ背負い込まされ、己の生を身勝手にその望みに見做され、そしていざ彼女が崩れた途端、礑と烙印を押された。
或いは僕以上、酷い落魄れ様。
そして彼女も無意識下か、母親という寄す処をその手に失った今、代わりは誰なのか。
誰も居ないとしたら────それは好機か、幸喜か、将又高貴なのか。
誰も居ないし、誰も知らない。
でも恐らく、知る由は如何様にでも僕の掌に有る。
今更何か言う必要も無い。
「私、もう縛られたくない。指図されたくない。もう人形遊びの年でもなくなったんだから」
彼女は、確かに母親の操り人形だった。
それが術師の手許を発った時、行く末は二つに一つ、別の持ち主に愛玩されるか、処分の所となるか。
その人形は、屑箱がお嫌いらしい。
「だからさ────助けて。天使さんは、願いを叶えるのがお仕事なんでしょ?」
「……別に僕は居らないでしょ?僕じゃなくても、君のお医者さんが、君を治してくれる。君がどれだけ本意じゃないとしてもね」
「────ぇ」
「そうでしょ?」
「……っ、そんな事────」
「それに君は、実に我儘じゃない。君が君である様に、僕は僕だよ。僕は決して、『「私の」天使さん』、じゃない。君以外にも助けなきゃならない人何て他にも大勢居るし、君より一刻を争う人だって、中には居るだろうね。それ位、賢い君なら知らない筈は無いのに」
「っでも今、目の前に居るのは────」
「あはは。君は、酷く可笑しい人だよね。なら君は、『誰の』、君なんだい?少し僕が優しくしてあげただけで、思い上がっちゃったのかな?」
先述した通り、最近僕の髪が黒に変色した。
そして亦先述した通り、白は高遠な色だ。
両方僕の思考なのだから当然導かれる結論を、今まで僕は信じたくはなかったけれど、今ならきっと信じられる────ずっと頷き続けていた僕に正念場で裏切られ、過去に無い絶望の淵に陥れられ、尚僕の同情を買おうと必死になる彼女の表情が、酷く惨めで可愛い。




