常磐を劈く
「あれ?天使さん────黒い髪の毛、有りません?」
「……ばれました?」
「結構はっきり黒いですからね。大分眼を惹く、って言うか、鬣みたいな感じで」
それは至極尤もで、『ばれる』も何も、後ろ髪の一部が丸々その補色になっていたらどんな鈍感でも気付く。
寧ろそれを隠そうとする手立ても施していないのだから、確かに正面からは見え辛い部分とはいえ、漸く言及されたのが不思議な位だ。
「何で態々其処だけ染めたんですか?前までの真っ白な髪の毛も凄い綺麗でしたよ?」
「いや、『何で』、と訊かれても────」
「若しかして、失恋とかですか?蓬ちゃんに振られちゃいました?」
「真逆。冗談止して下さいよ」
「……あらあら」
受付嬢は少し面食らった様だった。
そして悪戯めいて笑った。
蓋し、僕の周囲の女性は皆、僕に対してこんな不敵な笑みを浮かべた事が有るのでは。
「ふふ、自分は絶対振られない、って、すっかり自信満々ですね。あの子、そんなに天使さんに好き好き言ってましたっけ────言ってたか、而も結構頻繁に」
「別に、そういう事じゃないですけど────」
「なら、如何いう事なんですか?」
「…………」
「そうそう、それで思いだしたんですけど。あの子、天使さんに何か渡せた、って喜んで────」
沈黙を好機と見たのか傾れ込んで来たけれど、これ以上深掘りされると、僕が窮地に陥る気がする。
何が窮まるのかも摑めないという、最も分が悪い地に縺れて仕舞うのは、それは何か嫌だ。
「あぁあぁ、分かりました、何でも無いですから。全部忘れて下さい」
「……あら」
微妙な空気と共に、己の選択の所産ながら得も言われぬ敗北感がした。
受付嬢も、先までの嗜虐を超え、最早若干ばつが悪そうに目線を逸らしている。
罪悪感を覚える位なら最初からしないで欲しい。
今更言ったとてそれは仕方が無い事だったから、無言を貫き戦況を窺う。
如何してだろう、悩ますだけ悩ませた結果、此処から何を言っても状況は悪化の一途を辿る気しかしないけれど、でもこの儘此処で彽って囃されて続けられては全く敵わない。
此処の女性陣は気を抜いたら隙を狙うかの様に僕達を茶化して来るから、落ち着いた会話も儘ならないのが数箇月の常だった。
それを含め此処の病院は居心地が良いのだけれど、隙を見せる訳にはいかない。
僕が呼んだ状況なら、僕が動かさなければ道理が通らないだろう。
「────それに、実はこれ地毛なんですよ。染めてないんです」
「え……黒髪が、って事ですか?」
「はい」
彼女は愈、泡を食った様だった。
「えぇ?って事は、今までの髪が全部染めてあった、って事ですか?白色に?…………だとしたら、何だか、夢が無いですね」
「……別に僕が夢見てこの色になった訳ではないんですけどね。何でこの色なのかは、神様に訊いて下さい」
久しく会っていない神様の全容はもうはっきりしないから、今想像すると気さくで矍鑠な好々爺に見えて来た。
「後、白色も染めてた訳じゃないんです。何方も地毛なんですよ」
但し、生来ではなく最近変色した物だ、という事は、その理由は、少なくとも僕が騙っている皆には誰にも語れないから、此処では伏せておこう。
「白の方が面積が多いので、今までは其方に揃えてただけです。別にそんなに面白い事じゃないですよ」
「あら、なら何で今日は?」
「……一寸、忘れてました」
本当は染める気は無い、という事は隠し、苦しい言い訳だ、とは自分でも犇々感じるけれど、受付嬢は一つの不審も其処に見なかった様だった。
「それは良くないですよ。折角あの子に会える日に、万全のお洒落を整えなくて如何するんですか。あの子も落胆しちゃいますよ?」
「う……止めて下さい、それは効きます」
「次からはちゃんとして下さいね?」
「……はい」
丸め込まれた。
天使も気の強い女性には弱い。
と言うか、僕が女性に弱い。
不甲斐無い、なよなよしい男の姿が、其処には在った。
僕だった。
「────あ、それであの子の話ですけど」
「先話そうとしてた下りですか?だったら僕は勝手にあの席に戻ってますけど」
「いや、今日の面会の可否についてで────暫く待って欲しいそうです」
突然真面目な顔になり仕事上の関係になった受付嬢から戻って来た返答は、今日は珍しく異なっていて、そして受付嬢がそんな雰囲気になる事が抑、珍しい事だった。
何時もならこれは儀礼でしかなかったのに、今日は何処か、何処か可怪しく、其処に得体の知れない不安が有った。
「今までも待ってたには待ってたんですけど、それとは亦違うんですか?」
「はい。先までは連絡待ちの状態で、お待ち頂いてたんです。でも今、漸く連絡が届きました」
「それで、『暫く待って欲しい』、と」
「はい」
「何か有ったんですか?」
受付嬢は、少し眼を落とした。
「あの子が、先生とお話し中だそうです」
「……そうですか」
「十五分で終わるらしいので、それまでは病室には入れないんです。何度も何度も申し訳無いですけど、もう暫くは────」
「……分かりました」
悄々と戻り、僕は何故か溜息を吐く。
『先生』、という事は、此処のお医者さんだろう。
そんな事も有る。
僕が訪れ、毎度の如く会える、という傲慢は確かに端から持ってはいなかった。
僕は忘れ勝ちだけれど彼女は病室住みなのだから、良く考えれば自身の病状に就いての診療は欠かさず定期的にしているに決まっている。
今までは、偶然その時間に被っていないだけ、彼女もそれを噯気にも出さずに明るく振舞っているだけだった。
きっとそうだったのだ。
それは僕には如何ともし難い、僕が付き添いをさせて下さい、と言った所で易々と許される物ではない事。
それは彼女の個人領域であり、僕は一人の部外者。
そう、所詮僕は部外者に過ぎないのだ。
何処まで進んだ関係だとて、彼女を侵犯する事は誰にも許されない。
それは僕とて例外ではない。
天使であった時にその力を以てしても、倫理に外れた事をすれば堕天させられて仕舞う、という事は、内容は違えど経験から身に染みて理解している。
其処に僕が立ち入り口を挟む余地は無い。
そう、今の僕の感情を敢えて言葉に起こすならば、相応しい語彙は、『無力感』、なのかもしれない。
僕が未だ天使であれば。
そう願った所で何が出来るとでもない、それを心得ている、と先言ったのは正しく僕でしかなく、畢竟無駄な思索に潰えるとこれ亦得心していようとも、止める事を思えないのが又無く虚しい心だった。
それは偏にそれでしかなく、若しそうでないとしたら僕の全てが意味を為せない程、心は一律酷く蝕まれて止まなかった。
僕がもう天使でなければ。
これが確定条件であるとする事は察々と容易いのだけれど、ならば僕は何を出来るのだろう。
一体全体何をすべきなのだろう。
それは責めて、彼女の病を超常的に癒してあげる事ではなく、彼女の傍に寄り添い、彼女の要素要素全てを肯い、彼女の笑顔を絶やさない事ではないか。
鳳字としての精一杯の行動は、その身分を超える鳳に至らない。
それは僭越で、横暴で、余りにも度し難い行為。
悉皆、理解していた。
「……蓬ちゃん────」
言葉はその端を摑めない。
「…………」
なのに、如何も違和を感じる。
遊泳する言の端を一片握れば、対が手から解け落ちる堂々巡りに陥る心地が、握る事も未だ叶わない儘にする。
或いは両端を握っている。
動もすれば寧ろ、結われ蟠る糸屑を蜘蛛の糸に錯覚して倉皇する有り体な無体を野晒している。
幽霊の正体を見て枯れ尾花さえ其処に無い。
それは幽霊でもない、何の錯視でもない、暁の夢。
朧に覚えた記憶。
確かに存在した筈の、鈍く同衾した自分自身だった。
その感情は果たして本当に僕の物なのか、僕は絶対に信じない事にした。
自己不信ではなく、それは最早他人の空似に近い、歪んだ厭悪だった。
そう感じているのが亦自己不信の一環だと思いつつ、それを否定し生きる他無いとも同時思っていた。
果敢なく消える矮小さが自分を強調した。
ならばその縁を取る言葉を、とはなる筈も無く、愈此処で躑躅するのは僕で、行きつ戻りつして矢張り巡り巡っていた。
僕の手を焼く事ではない?
それを否む義務は僕には無い。
ならば、僕は彼女を犯しても良いのか?
分からない。
此処で単純に定まる項ではない。
反面、唯一分かって仕舞う事は只、再起だった。
僕の知らない彼女を、僕は────────
「────天使さん?」
冷水を浴びせられた様に、僕は飛び跳ねた。
心臓が変拍子を乱打している。
「そんなに物思いに耽って、如何かしました?返事も無かったですし────」
「……あぁ、ぇ、っと……大丈夫です。特に何も考えてませんでしたよ、ぼーっとしてただけです」
今日は僕の挙動が次第に不審さを増して行っている様な気がする。
この心配振りは、何回か呼び掛けて応答が無かったのだろうから、本当に何も考えていない訳が無い。
受付嬢は知ってか知らずか、言葉を続けた。
「お話、もう終わったそうですよ。あの子に会いに行ってあげて下さい」
「……分かりました」
少し不思議だった。
今までは僕から会いに来ていた、勿論今日もそうではあるのだけれど、余り『会いに行ってあげて』、という言い方をされた事が無い。
それでも僕は、些事は閑却し、何時の間にやら脚が彼女の病室を向いていた。




