空ろい
その日、僕は何時もの仕事へ出向く前に彼女の病室へ顔を出そうと、病院の受付に足を運んだ。
その日は普段より雪が強い日だった様で、僕は身体の芯から凍り付き、末梢に至るまで悴んでは仕方が無かった。
寒さは苦手だ。
個人的意見、暑さよりも気が滅入る。
幾ら暑いとて身体が震えて不自由する事は無い上、冬の辛さは屢痛みを伴う。
それに、この世界では何をするにせよ、熱を入れる事が美徳と、冷めた眼で見る事が不義とされるのだから、この論の隨に冬は大層な不義理なのだ。
故に冬を憎めど、真逆冬にも悪気は有るまい。
勿論、誰に有るとも無いのだけれど。
────そんな旨を、雪山で遭難した人間を救った時に聴いた覚えが有る。
確かにその時、ならば貴方も相当な不義なのではないか、とぼやかずに居られなかった記憶。
でも残っているのはそれだけだった。
責めてもう一点補足するとするなら、今はこれ程寒がりな僕とは一転、当時天使だった僕も体温を持ち、体温を持つという事は調整器官を持ち、即ち天使にとっても冬は快いものではないのだけれど、その時は超常的な力が有ったから問題は無かった。
こう思うと中々贅沢な使い方で、完璧な保温性能、と書くと、丸で炊飯器の販促だけれど、実際人智を超えた能力なのだから仕方が無い。
その原理は僕も分からないのだから、考えるだけ野暮、という物だ。
久し振りに思い出して、彼は今如何しているだろう。
再び凍えてはいないだろうか。
彼も天使ではないから、動もすれば冷たくなっているのかもしれない。
冗談にしては不謹慎も不謹慎だけれど。
事実は如何であれ、責めて僕の中では彼は無事に生き存えている事にして、一方僕は、そんな肢体も不充分な状態で仕事に行ったって完全万全な成果を挙げられる訳が無い、ならば身体を温めなければならない、と、無用な言い訳を蓑にしている。
天使であった過去の、襤褸襤褸で穴だらけ、無体な笠に着ている。
それは自分でも分かっているのだけれど。
でも、こんな口実にして仕舞うならば相応に冬が好きなのか、そう問われれば、矢張りその不要さに於いて冬は嫌いだった。
「────どうも。今日も蓬ちゃん、会えます?」
「今日は、今日もいらっしゃったんですね。今確認しますから、其方でお待ちになって下さい────『天使さん』」
「……その、錯綜した老婆心は何なんですか」
「私達だって淑女ですから」
「……じゃあ、座ってますね」
冬の好む唯一の所は、偏にその色だった。
冬が呈する色彩、と言えば、『彩』、ではないのだけれど、僕は白を想像する。
枯木や落葉の茶色を映えさせるのは、誰しもが未踏の雪景色だと思うだろう。
僕が好きだったのは、深々と降り積もる雪が世界を覆い尽くし、音を奪うその様子だった。
遍き集く猥雑をその下に呑み、天使の安寧に約款を印す玉響の休息だった。
相対速度に覚える、無論有り得ない物理的且つ精神的浮遊感だった。
そして、如何しようも無く白色が好きで、それもこれも悉く、その根底に在った。
「……矢っ張り、寒い────」
「あら、寒いですか?なら暖房強めますけど」
独り言が聞かれていた。
「あぁ────いえ、大丈夫です」
「気軽に言って下さいね」
所で、それに関して、僕は此処最近、自分の思わぬ変化に頻りに驚かされている。
天使に於ける『此処最近』、と、人間に於ける『此処最近』、とでは、寿命の長短等から解釈も十色なのだろうけれど、今回は僕が目覚めてから今日までを指す。
と言うか、もしかしたら『此処最近』では済まなくなって行くのかもしれない。
此処最近に感じるからそう言っただけであって、言い換えて仕舞えば、『僕が堕天してから、少なくとも意識が覚醒している間はずっと』、なのだから、僕が死ぬまでこれは続く可能性も有る。
それが、潜伏した自身を発見している行為なのか、変貌した自身を直視している行為なのか、それは全く分からない。
後者ならば、少し悲しい。
否が応にも身体が環境に適応しようとしているのだとしたら、それは現実を受け容れ始めているという事だから、確かにこれは僕の責務とはいえ少し嫌かもしれない。
だから如何した、天使の翼を失った今、現状を変える力はもう無いぞ、という話ではあるのだけれど。
変わって仕舞った事の一つ、例えば、少しだけ性格が悪くなったり。
天界に居た時は、僕も一介の天使として平等な慈愛を与えていたものだったけれど、今ではそう、言うなれば人に迷惑する人間には一種の天罰として多少の不幸を願う時も有る。
勿論普通に生きている人間には依然幸福を祈っているし、何も不幸の快楽に堕ちた訳ではない。
堕天はしたと雖も、境界は守る。
こうなったのはきっと、暫く人間界の波に揉まれたからだろう。
今更望む気は無いけれど、もう天使に戻れる性格ではなくなって仕舞ったらしい。
見る影は未だ残っているのだろうか?
稍、怪しい。
後、他に思い当たるのは、時間感覚を奪還したり。
天使として、即ち老衰の無い存在として、悠久とも表し得る金烏玉兎を逃がして来て、そしていさ知らず僕はそれを失っていたけれど、人間界での忙しない生活が思い出させたらしい。
いや、寧ろそれは倒錯で、失うべくして失っていたその感覚を取り戻せずにいたながら、次第に相応しい形に適応しているだけなのかもしれない。
でも、少なくとも差し当たりは、仕事に遅刻する事が減って来た。
天使が叱られる何て全く体が無いから、それは自分事ながら僅か安心だ。
今や僕は堕天使なのだから、堕落したとてそれは無理も無いのかもしれないけれど、責めてもの矜持。
「あれ?天使さん────」
「如何かしました?」
そして、最も強く思われる事。
最も重く、且つ尤もな事。
「黒い髪の毛、有りません?」
「……ばれました?」
僕の髪が、黒く染まり始めている。




