モノローグ
或る冬の一日の、時刻は知れず、凡そ暮れ。
空も漸く赤みを帯び始め、僕を囲み聳える建造物の垂幕を燃え上がらせている。
それ程熱くなる必要も無いのに、と、寒空の下、如何してかそう思う。
そして僕は、少しの悪戯、其処に水を差そうと青を落とし、然し焼け石に弾かれ、却って独り陰差していた。
「……はぁ」
此処はあの病室じゃない。
「疲れた……」
即ち僕は、呟いても一人、誰の耳朶にでもなく、帰途の上に青い息を吐息していた。
「神様、居るなら助けてみても。此処に困ってる輩が居ますよ────」
序でに、弱音と、世迷言と。
そしてその悉くが、虚空に、空虚に、消失する。
でも、自分で認めるのも如何かと思うけれど、僕はそれ位の充分な境遇じゃないか。
客観的判断基準の一つも無い境遇でもあるのだけれど、或いはだからこそ、僕の好きにさせて欲しい。
誰が聞くでもない言葉。
勿論三々五々、或いは一の群は区々に映る。
それは全く重要ではなかった。
「……今頃こうなってる何て、暫く前までは考えてもなかったよなぁ」
理解はしている筈なのだけれど、一度堰を切って仕舞えば、その愚痴は暫く止まる事を知らなかった。
畢竟、漸く流量に底が見え始めた時に、益々心は沈むとも同様に知っていたし、そして事実だったのだけれど、後先を考える事はなく、亦その価値も無かった。
「────はぁ、一人で何言ってるんだろう……」
僅か嫌気が顔を出し、口を噤む。
そして現実逃避に回想した。
天界で行って来た某、人界で為して来た数々、懐かしんで仕舞うのは過去の遺物になって仕舞ったからで、然し僕は選択がこの上無く不得手な様、必然思い出す。
今日では頻りに思い出す事は無くなったと雖も、矢っ張りその時には如何すれば良いか分からなくなって踞る。
僕が此処に、人世に堕ちて来て、暫く経った。
数箇月前まで僕は確かに天使という超常的存在であった筈なのに、神の断罪に因って天界を追放され、更にそれを証す天使の翼も失って仕舞い、今では人間を救う等は夢の亦夢、生き存える事さえ苦労している。
勿論、僕如きの苦境で『苦労している』何て言い放って仕舞っては、多大なる反感を買いそうな物だけれど、大丈夫、如何せ誰も聞いていない。
それに声にも出していない。
最近精神的に参り勝ちであるという事は扨置くとして、具体的には現実問題、火の車なのだ。
『天使』、という単語とは如何にも反りが合わず、ずっと共に暮らしているけれど、諍い塗れだ。
あの日、病室で目覚め彼女の下を発った後、僕は中々格好が付いたと思っていたけれど、その直ぐに或る事実に思い至った。
それは明々白々。
病室を出たは良いものの、帰る場所が、無かった。
余りに決まらない。
考えれば当然、僕は此処に出現したのだから、僕宛ての住処何て存在しない。
と言うより抑、戸籍が無い。
決定的に決まらない。
決まったとて、その後生きる手立てが無いから、所謂万事休す。
そして結局、何だ彼だでそれらの問題を如何にかして、今正に目の上の瘤になっているのが最後だった。
本当に、以前天使として人間界に居た時に聞いた言葉、それは正鵠を射ていて、此処での生活は金銭有りきなのだと痛感する。
まぁ実際僕の心を苛むのは専ら、『痛み』、よりかは、『疲労』、それも主に精神的な物が大きかった。
天界ではこんな仕事は滅多な事だった上に、選択の自由が有ったから、これ程心を滅ぼす経験は初めてで、それ故先は柄にもない愚痴を零して仕舞った。
言うのは憚られる兎角も、別に僕に責任の所在が有る訳が無いだろうに、如何して僕が叱られなくてはならなかったのか、丸で分からない。
これが、ずっと続く?
考えたくもない。
それにしても、未だこの生活を始めて四半年も経ていないのに既に堪えて来ているのだから、人間が天使に願いたくなる理由も理解が及ぶ。
最近は仕事に追われ、彼女と会う時間も減りつつあるから尚更で、若し僕があの病室に入り浸る事を望む様にでもなったら、と、仮定してみる。
若しその時は、彼女の願いを聴く立場から彼女にお願いして入れて貰う立場に、それこそ文字通り主客転倒になって仕舞うだろうな。
其処に天使の俤はすっかり失せているけれど。
……考えてみれば、現状がそれじゃないか?
実際僕は、願いを叶える力を把持し損ねているのだし、それに、その上に、現状も現状だ。
有り得ない程に、考えられない程に、抒事的な事実。
仮に定め置くまでもない明白。
変えられるのは、自身の檻に囚われた僕だけ。
早く、其処から抜け出さなければ、何れ後悔するのは僕なのだから。
マリヤとマリタの逸話が、脳内に現れる。
繁務に追われ、結局彼女には言えず終いでいる。
何時か言おう、何時か言おうとは思っているけれど、何時言うかは肝心にも決められていない。
後回しにすればする程苦しくなる、それでも変えられない、未来で何か変わるかもしれないならば今変える必要等無いのではないか。
今程こそ逃避心理という物を恨む時は無い。
何をするでもない時に思索に逃げるのは、僕の悪い癖だ。
そしてずっと耽っていれば良いものを、僅かと経たず我に返って仕舞うのも亦そうだった。
「……何してるんだろ。早く帰らないと────」
その時、耳馴染んだ声がした。
「あれ、奇遇じゃん。仕事の帰り?」
俯いていた顔を上げる。
其処には、矢っ張り見慣れた長年の知音の顔が有った。
僕と同じ白髪で、その存在に不似合いな黒系統に揃えられた服、それも俗に言う『地雷系』、を着熟している。
服も黒ければ靴も黒い、肌面積も割と多く装飾の施しも中々華美で、その癖彼女の髪だけは真白に映える。
僕が古めかしい男なのかは知らないけれど、僕はこれを、『個人の好み』、という言葉で押し留めている。
勿論それを含めて、僕達は友人でいた。
「────ぁ、っと……久し振り」
「いやいや、二月前でしょ?最後にあたしと会ったの。『久し振り』、って言う程でも無いから」
彼女は如何にも楽しそうにカラカラ笑った。
それが彼女の代名詞だった。
今の僕からすれば、彼女を識別する要素はもっと別に有るのだけれど。
「多分、僕が人間になっちゃったからだよ。人間の二箇月って、最早一つの歴史書が書けると思う。過言だけど」
「……何か、お疲れ」
「そんな憐憫の情を向けないでよ、何か悲しくなって来るから…………」
僕はこの世に生を享けて初めて、憐れまれた。
こんな実績、出来る事なら得たくなかった。
「人間の生活って大分しんどいんだ、って、初めて知ったよ。口に糊するのが結構やっとだし、而も僕はこれでも優遇されてる方でしょ?」
「あはは、だから言ったじゃん。あたしの力で、不自由無い生活も出来たのに。再三言ったよ?戸籍とか住所とかだけじゃなくて、お金もたんまり頂いちゃえば、って。あんたは断ったけどさ」
彼女の科白から推察される通り、昔から僕を知る彼女も亦、天使だった。
今真逆、僕は僕を彼女と並列して仕舞ったけれど、戸籍も住所も、今僕が持っている物は、只一つ、お金だけを除いて、全てが彼女のお陰だった。
……矢っ張り、こんな自己主張の強い服装をした天使が存在する何て、未だ目を疑う時も有るけれど。
「お金まで貰っちゃう訳には行かないよ。申し訳無いし、それに────」
「『それに』?」
「それが報いになるかな、って。僕の過ちに対する報いは、責めて受けなきゃいけないから」
「……格好良いじゃん」
「全然。それにしては、手を借りて許りだし」
「……あはは、それもそうかもね」
彼女は再び、カラカラ笑った。
「それにしても、その時は何で助けてくれたの?」
「ほら、あたしは困ってる人間を助けるのが仕事だから。あんたはもう、人間でしょ」
「はは、其方も素敵じゃん」
以外にも、空白。
少し虚を衝かれ、余所に在った視線を戻す。
「……あはは」
彼女は瞳を逸らし、耳の辺りを指で掻いていた。
少し気には掛かったけれど、彼女はその儘口を閉ざした。
僕はその追及はせず、訊きたい事も有った為に、代わりに口を開く。
「そう言えば────」
「……?」
彼女は躊躇いつつも横目で僕を見詰めている様だった。
態々顔を背けているのなら、僕を見なければ良いのに。
僕の視線に気付いたのか、彼女は小さく息を吸う。
そしてもっと外方を向こうとする、その時。
「────あいつは?」
刹那。
如何してか、世界は静まり返る。
鴉達は今日は珍しい事に、早いお帰りの様。
僕達に一片の興味も寄越さない雑踏も、反作用の様に今は立ち止まっているのだろうか。
理由は直ぐに知れた。
彼女が、息を呑んでいた。
そして僕も、彼女の吐息に心奪われていたらしい。
「……『あいつ』、ね」
「そんな親の仇みたいな眼をしなくても……三人で天界に居た時は、凄い仲良かったじゃん」
予測可能ながら、彼女の言葉には明ら様に棘が生え、僕と話していた口調とは打って変わった。
昔は僕達三人で仲が良かったのに、彼女は今それ程までにあいつの事を嫌っているのだろうか。
だったらあいつには、少し悪い事をした。
「今はもう、あんたの仇よ」
「……僕は未だ死んでないよ」
「知ってる。そういう話じゃないでしょ」
「言いたい事は分かるけどさ」
無い袖は振れないし、無い仇は、長崎は愚か、江戸でさえ討てない。
打ち出の小槌を振り続ける仕事をしている存在が言っても、説得力だけは出て来ないみたいだ。
「……それにさ、あたし知らないよ。別にあいつとは、もう連絡付かないし」
手持ち不沙汰と言っているかの様に、彼女は毛先を弄び口を尖らせてそう言う。
そして、『良い加減この話、終わらない?』、と言う様な眼をして僕を幾度か瞥する。
でも、待って欲しい。
余りに流れた科白に、一瞬僕も流されそうになったけれど、今彼女は、凄まじい事を言わなかったか。
未だ暫くこの話は終われそうにない。
「えっと、連絡が付かない、って?」
「うん。そりゃ、当然でしょ────って、そう言えばあんた、ずっと寝てたんだっけ」
彼女は少し苦い顔をした。
『ずっと』、とは、恐らくあの頃、僕が天界を追放された直後に、一月昏睡していた事を指すのだろう。
「実はあいつ、その間に消息不明になったんだよね。今も未だ、具体的な所在は分かってなくて。言ってなかったかもね」
消息が、不明に。
それはつまり足跡を絶つという事で、若しくは行方を眩ませると言い換えても良い。
そして如何言おうと、事実は既定の所産。
中心は只一点、一転もしない。
「……そうなんだ」
「本当もう、許せないよね。折角あんたが身を削ったのに、全部丸々無駄にしやがってさ、本当有り得ない」
「一寸、口が悪いよ……」
彼女は如何やら、あいつの事になると目に見えて怒りを露わにするらしい。
科白を聴いた感じだと、僕を気に掛けてくれている。
別に僕は、心配する程の事じゃないのだけれど。
「それに、あれは僕が悪いと思ったからやったんだよ。別にあいつを庇ったから、って訳じゃない」
「……そういう所だよ」
彼女は再び、目線を外した。
如何いう所なんだろう。
彼女は一つ切り替える様に咳払いをした。
「────それにしても、あいつの事ならあんたの方が知ってると思ってたんだけど」
「僕の方が?」
「そ。先、『具体的は所在は分かってなくて』、って言ったけど、あたし一つ思ってる事が有ってさ。確証は無いよ?」
少し不安気な瞼をしながら、彼女は囁いた。
口ではこうも言いつつ心の何処かで心配そうなのが、彼女の優しい所だ。
別に誰が聞いているでもないだろうに、彼女は息を殺すかの様に声を潜めた。
「天界に居たら、流石に誰か見てると思うんだよね」
「つまり────あいつは天界に居ない、って事?」
「飽くまで可能性ね」
僕も不安そうに映ったのだろうか、彼女は突然、不自然な程に悪戯めいて笑った。
「若しかしたら、あんたと同じなんじゃない?何処かで堕天使になってたりして」
「笑えないよ……」
「あはは、本当にね」
本当に、冗談なら良いのだけれど。
何時かあいつに会えたとして、答え合わせはその時か。
丸で洒落込むといった雰囲気じゃない、もし冗談で済まないならばその場合はお通夜だ。
「────扨、と。話も過ぎたかもね」
不意に、彼女がそう呟いた。
あれ程燃えていた空も何時の間にか燃え尽きている。
鴉の鳴く声は遂ぞ聞かなかった。
久し振りに友人と会えたのに、と、こういう時間に限っての時の速さが恨まれた。
「……もう今日はお別れなの?」
目を瞠る、という表現が最も近いのだろう。
彼女は暫く固まり、そして溜息を吐いた。
「……本当にあんた、狡いよね」
「…………」
意図を摑み兼ね、何も言えない。
思えば彼女は以前から、時折僕には分からないこんな事を呟く質ではあった。
「それって、如何いう────」
「────何でもないから」
そして決まって、誤魔化すのだった。
何れはそれも理解出来る様になった時、その時僕達はより親しくなれる気がするけれど、彼女は少しも教えようとしてくれない。
僕が詮索して良い事なのか、図ろうにも図れない。
僕が引き下がるのも亦、常だった。
「────あはは、ごめんね。何かあたしに付き合って貰っちゃって」
「そんな、僕だって楽しかったから────」
「……そ。なら嬉しい」
そして彼女は、自身の手許から何か取り出した。
「……ねぇ、これ」
掌の上、姿は可憐。
それは、白く煌めく、小さな欠片。
冬の夜空に光る星を二つ捕まえ、それを手の内に閉じ籠めた光に見えた。
「これって?」
「これ、イヤリング。あんたに渡そうと思ってたの」
「……僕に?」
「あんた以外、誰が居るってのよ」
確かに取っ付き辛いは辛い身包みをしているのだけれど、気さくな彼女なら案外、誰でも居るんじゃないか。
今居なくとも、動もすれば、彼女は天界で別の友達を作り、僕と疎遠になるだろう。
寂しい気もするけれど、それは必然。
ならば────僕と彼女との証として貰っておくのも、亦一つか。
星を堕として象った、証なら。
「因みに、何でイヤリングを?」
「ほら、あんた、折角素材が良いんだから、あたしはもっとお洒落して欲しいの。あんたは自分を顧みない節が有るからね。分かった?」
「……肝に銘じます」
イヤリングのみならず、助言も貰った。
何だか頼りない友達でごめん。
「次会う時は着けて来てよ?」
「……分かったよ、有難う」
「あはは、良かった」
彼女は空を短く一瞥し、僕も追従する。
黄昏は瞬く間に褪せて仕舞ったらしい。
「……ごめんね、本当に引き止め過ぎちゃった」
「止めてよ、そんな事言うの。別に大丈夫だから、特に帰ってもやる事無いんだし……疲れも取れた感じ。お陰で明日からも頑張れそうだよ」
「……そう」
彼女は口元を手で抑え、静かに呟いた。
冬の所為で手が悴みでもしたのだろう。
「じゃあさ、最後に一つだけ────」
突如、彼女はそう言った。
垂々と語らい、愈の別れの時かと思った瞬間。
彼女は僕に抱き付いて来た。
「えっ────」
「…………」
…………如何しよう。
何か言った方が、何かした方が良いんじゃないか。
何を言った方が、何をした方が良いのかは全く悟られないのだけれど、それだけは分かる。
彼女を満足させる言動とすれば果たして、と言うより抑、彼女は僕に何を求めているのだろう。
求めていないとしたら本当に僕は分からない。
求めていたとして、現に僕は分かっていないけれど。
天使として願いを叶えて来た筈なのに、今度は僕が願いたくなる番で、誰か教えて欲しい。
それにしても、女の子に抱き付かれただけで、いや勿論、『だけ』の二文字に収まる程の易しい状況ではないけれど、友人にそうされただけでこうも狼狽えるとは、僕はそんなに初心だったっけ…………?
兎に角、求めているかいないか何方にせよ、人目は少ないとはいえ公衆の場でこれは不味い。
でも本当に如何しよう、こんな時女の子に対してすべき事を、僕は知らないぞ。
堂々巡りに頭を抱えたくなる。
考えてみるけれど、一向に何処にも至らない。
そんな言葉は永遠に浮かんで消えるのみだった。
「……ね、ねぇ?」
僕は突然の事にこれしか言えず、彼女も亦如何してか口を開かず僕の胸に顔を埋めて呼吸する。
「ぁ、ぇ、っと────」
千切れた言葉を為すに連れ、僕の背に回されている彼女の手に力が込められて行く。
でも、どれだけ強くなろうとも、全く痛みはない。
只感じるのは、彼女の体温。
冬の寒さに冷え切った身体に温む、彼女の実在。
彼女は、此処に居る。
如何しようもなく、此処に居てくれる。
感じる。
これは何なのだろう。
天使としての慈愛とも亦毛色の違う、彼女の愛は。
僕は未だそれを正確には知らないらしい。
責めて、理解するならば。
責めて、名を与えるならば。
ならば僕は、『友愛』、だと、それを定義する。
「…………」
僕は言葉を貼り付ける事を止めて、僕より背の低い彼女の旋毛を見詰める。
胸元に収まって仕舞う彼女の頭を見守る。
整った流れる白髪が目の前に在る。
本当に華奢で、神聖な美しさを持つ彼女。
鼻腔に懐かしさが込み上げる。
遂ぞ覚えるとは思わず。
「…………」
見詰める。
天使の証が其処に在る。
彼女の手は益々僕を抱き締める。
「…………」
見詰める。
只、其処に引き込まれる。
僕の赤手は所在を求めている。
「…………」
見詰める。
左手が自然と彼女の背へと伸びる。
彼女に、何処にも行って欲しくなくて。
「…………」
「……!?」
そして。
僕は何も言わず、彼女の頭を撫でてみた。
彼女の『友愛』に対する、最大限の返答として。
長年連れ立って来た彼女に対する、親愛の表現として。
彼女がそれを如何思ったのか、僕には知る由も無い。
事実には、彼女は跳び退った。
「……吃驚した」
「……此方の科白だよ。如何したの、急に────」
如何してか、今日は彼女が一段と違って映っている。
何が違うのか、何て分からない。
彼女の髪は柔らかい手触りがした。
「……あはは。良いじゃん、別に。先さ、あんたの心臓、とんでもない事になってたよ?」
彼女は僕にカラカラ笑い掛けた。
それは正しく平生の彼女そのもので、或いはそのものであり過ぎる程、先までの行動から分離している様だった。
「────後さ」
そして直ぐに目を細める。
「あんた、あの子の所ばっかり行くんじゃなくて、偶にはあたしにも会いに来てよ?」
「……何で此処で蓬ちゃんが?」
『蓬ちゃん』、その名を聞いた一瞬、彼女は顰蹙した気がした。
それは余りに刹那で、動もすれば錯覚だった。
「……あんた、消毒液の匂いがするのよ。肌に染み付いて、二度と消えない匂いが。天使は生命じゃないから新陳代謝は無い、詰まり体臭は無い筈なのに、なのにあんたは────」
彼女はその先を模索する様に、其処で言葉を止めた。
そして立ち尽くした様だった。
「────良いや。まぁ兎に角、通い過ぎるのは毒だよ。あんたにも、あの子にもね」
如何して其処まで彼女がこれに拘るのかは分からない。
でも、それと同様に、こんなにも彼女に引き止められても尚僕が蓬ちゃんに会いたくなる理由も、矢っ張り分からなかった。
「……でも、蓬ちゃんは僕が助けてあげないと」
「……なら、それも乙かな」
彼女は含み笑いをした儘、突然僕に背を向けた。
「じゃ、復たね。次会う時着けて来てね、それ」
「……分かった」
「あはは、素直で宜しい」
彼女特有のカラカラとした笑いを残し、嵐の様に去って行った彼女だった。
硬い靴の足音が闇に響いて消えて行く。
そして台風一過、静寂が身に還った。
或いは寧ろ、日が堕ちる前の何倍にも増幅して戻って来ている気がした。
矢っ張り、彼女ともう少し話していたかったかもしれない。
取り残され、一人思う。
「……帰ろ」
帰って、そして明日は蓬ちゃんに会いに行こう。
久し振りに人肌を感じられて、僕も眠っていたその飢えを思い出したらしい。
そして不図、感触を思い出した。
それは彼女から預かっている一冊の本だった。
結局未だ手を付けられていないから、展開も登場人物も何も知らない、其処に在るのは『彼女の本』という情報だけ。
今日、読んでみよう。
彼女の思惑を其処に見よう。
あわよくば、彼女を其処に見よう。
明日、彼女の下を訪った時、其処に僕の中の彼女が居るかどうか確かめる為に。
折角貰ったんだ、その時は精一杯の装いとして、このイヤリングを着けて行ってみようか。
良し、そうしよう。
早速活用出来る事を彼女も喜んでいるだろう。
本当に、彼女には感謝しか無い。
昔の誼で、堕天した僕の生活を色々と整えてくれたり、それに、先までの僕では丸で想像も及ばない程に今は明るい気分で居られたり、悉くが彼女のお陰。
全く、彼女には済われて許りだ。
何時か恩返しをしなければなぁ────と、その時。
「自惚れるんじゃない」
振り返る。
視界が突然回り、三半規管が悲鳴を上げる。
眼前には、自然な景色。
此処最近歩き通して飽いて来た、今日も踏み均して来た、無味の景色。
今は黒く染まっている。
心臓が跳ねている。
何も、見えない。
「……気の所為か」
振り返る。
視界が緩やかに回り、何処か心地良さを覚える。
眼前には、自然な景色。
此処最近歩き通して飽いて来た、今日も踏み均して行く、無臭の景色。
今は黒く染まっている。
心臓が早鐘を打つ。
何か、見える。
「────誰?」
黒く昏く塗り潰された中、少し遠く、背が見える。
気の所為か?
否、そんな筈は、無い。
暗闇の彼は、歩き去ろうとしている。
「────ねぇ、待っ」
「自惚れるな、って言ってんだよ」
地の底から響く様な声。
強い口調に、僕は僅か怯む。
彼は知ってか知らずか、此方に一瞥もくれずに歩を進める。
静寂に足音が響き、次第に消える。
其処には、何も残らない。
「…………今の」
鴉が一羽、漸く鳴いた。




