第十章① それぞれの場所で
朝の霧は濃く、ブレスト城を覆い尽くしていた。
視界は数メートル先すらおぼろげで、白い壁がゆっくりと空間を侵食していく。
潮の香りが湿った空気に混じり、冷たく鋭い塩の匂いが鼻腔を突いた。重い湿気が兵士たちの衣服を肌に貼りつかせる。
見張り小屋の中で、二人の兵士が交代しながら海を見据えていた。
「まるで世界が溶けて消えそうだ……」
若い見張りは声を潜めた。手は震え、目は霧の彼方を必死に探っている。
「確かに見通しは最悪だが、逆にこの静寂は恐ろしい」
老練な兵士は鋭い目を細め、舌打ちした。長年の戦場経験が言葉に重みを与える。耳を澄ますと、遠く波が岩に砕ける音、そして潮風に乗って木の軋む音がわずかに聞こえる。だが、その中に何か違和感が混じっていた。規則的な音が突然途切れ、不自然な静寂が押し寄せる。
「霧が厚すぎて敵の気配もつかめん……」
若い兵士は焦りを隠せず、拳を強く握りしめる。
「安心するな。向こうもこっちのことは見えぬからな」
老兵は背中に冷たい汗を感じながらも冷静を装う。
突如、霧の中で赤い閃光が一瞬走った。
火花のように揺れる炎の輝きは、まるで死神の目のように禍々しかった。
「火砲だ!」
二人の声が重なり合い、警鐘の音が要塞内に轟いた。
砲弾が石壁を叩く瞬間、激しい衝撃波が小屋を震わせた。硝煙の匂いが一気に鼻を突き、目に痛みを感じる。兵士たちは一瞬息を呑み、耳鳴りに耐えながら即座に防御態勢に入った。黒焦げの火薬と焦げた木の臭いが漂い、焦燥感が辺りを包む。
「敵はこの霧を利用して奇襲を仕掛けてくる……!」
若い見張りの声に、老兵の瞳は鋭く光った。砲台では兵士たちが慌ただしく動き回り、火薬袋を運ぶ音、鎖が軋む音、そして火縄銃の火打ち石が火花を散らす音が入り混じった。緊張のあまり汗は冷たく、呼吸は速くなる。
「全砲門、射撃準備! 狙いを定めろ!」
指揮官の声は鋭く、まるで静かな嵐のように兵士たちを奮い立たせる。
彼らの心は一つ、刻一刻と迫る死の危機に張り詰めていた。
「俺たちはこの砦を守り抜く」
誰かの低い呟きが砲煙の中に消えていった。
霧は深く、敵も味方も見えぬまま、戦いは確実に始まっていた。
厚い霧が立ち込める中、ブレスト城の屋上では厳粛な空気が漂っていた。
霧の彼方を見据える司令官たちの顔には、焦燥と緊張が刻まれている。
足音を立ててエリオット、イザベル、ルソー、そして伝令係のアルフォンスが屋上に姿を現すと、既に他の司令官と参謀官たちが集結し、凍りついたように霧の向こうを睨んでいた。
「火急の要件か! 状況を報告せよ!」
エリオットの鋭い声が天守の石壁に響く。一人の若い司令官が慌てふためきながら口を開く。
「大元帥、霧の中にもかかわらず敵の砲撃が容赦なく続いております! 南東の防衛線に大きな損害が出ており、兵士たちの士気も動揺しています!」
ルソーは怒りを押し殺しながら歯を食いしばり、そして吐き捨てる。
「奴ら、霧なんてお構いなしで攻めてきやがったか」
イザベルは冷たい声で呟く。
「卑怯にもほどがあるわ。……霧に隠れての攻撃なんて正々堂々とは程遠い」
アルフォンスは眉をひそめ、遠く砲撃音が響く中で呟く。
「ついに来ましたね。……かつてない嵐が、我々に降りかかっています」
エリオットは無言のまま拳を固く握り締め、あたり一面に広がる濃霧の中に潜む敵の影を見据えた。城の石壁が響く砲撃音は、まるで死神の足音のように響き渡っている。
エリオットは鋭い目つきで前線を睨みつけながら声を強めた。
「前線には、このまま砲撃を続けろと伝えよ。決して弾を惜しむな! 霧に紛れる敵の発火元を見逃すな。的確に狙い撃て!」
その声に、周囲の参謀官たちも引き締まった表情で頷いた。白く濃密な霧が全てを覆い隠し、視界はほとんどゼロ。甲板も大砲の砲台も、その向こうも、何も見えない。だが、兵士たちは訓練通り、手探りで動く。火薬の匂いと火花、砲撃の轟音が繰り返され、緊張が肌を刺す。
「砲撃、次の目標に合わせて!」
声はかろうじて霧を越え、兵士たちは互いの息遣いを感じながら動く。大砲の揺れ、火蓋の重み、そして一発一発が命を賭けた合図だ。
メリッサが冷静に指揮を執る。
「風向きが変わった。角度を三度修正! 確実に狙え!」
メリッサを中心にマクシミリアン・ブーケ隊もその中に混じり、彼女は険しい表情で砲撃を指示し続ける。
身体の芯が震えるほどの轟音が連続する中、誰もが切迫した戦いの渦中にいることを痛感していた。だが、霧の先に敵の姿は見えない。それでも誰も目を逸らさない。これが命の駆け引きだ。
ジョルジュの声が霧の中で響いた。
「メリッサさん! 砲撃はいいけど、こんな視界じゃ弾が当たってるかどうかも分かりゃしませんよ!」
メリッサは眉をしかめながらも強い口調で返す。
「黙って! 言ったでしょ、私の指示に従っていればいつか当たるの! グウェナエルさん、早く弾を運んでください!」
グウェナエルは舌打ちをしながら苛立ち混じりに返す。
「ちっ、なんで俺がこんな役割を……」
だが彼も分かっている。今は誰もが役目を全うするしかないのだと。
メリッサの鋭い声が霧に響き渡る。
「発射用意、よーし……撃てー!」
轟音とともに砲弾が白い霧へと飛び込む。一瞬の静寂のあと、空気が震えるような「ボッ」という火花。霧の中、ほのかな炎が一瞬灯り、次の瞬間。
——ドォォン!
木々が裂け散り、煙が空へ舞い上がる。爆発の轟音が耳を突き、重厚な衝撃が体を揺らす。
メリッサは叫んだ。
「やった! 当たったのよ、見た? あの火! あれが命中の証拠よ!」
息をのむ仲間たちの顔にわずかな希望の光が差し込む中、ダヴィットが眉をひそめて言う。
「今の距離感、けっこう近くないか?」
マクシムは鋭く目を光らせ、決意を込めて言った。
「敵はもうすぐそこまで迫っています。ですが、これで形勢は変わるかもしれません。油断せず、続けましょう!」
シャルルは苦笑交じりに呟く。
「こうして命のやり取りをするのだ。……外から見たら、まるで愚かな戦いのように映るでしょうな」
霧の中、周囲の部隊から次々と歓声が響き渡る。
「やったぞ! 当たった!」
「このまま押せ! 遠慮はいらん!」
砲撃の轟音に混じって、喜びと士気を高める叫びが波のように押し寄せてきた。耳に届くその声は、熱を帯びた鉄のように、心の奥を燃え立たせる。
マクシムも仲間もその勢いに乗るように次弾を込めた。だが、その瞬間。
「来るぞ!」
視界の先で、霧の奥に赤く瞬く光。続けざまに、空気を裂く甲高い唸り。その直後。
ドガァァァン! ドォン! バリバリバリッ!
地面が跳ね上がるほどの衝撃。砲弾は容赦なくマクシム隊の陣地を直撃した。爆風が耳を突き破り、焦げた硝煙の匂いと、飛び散った砂利と石が顔を叩く。
「うわっ!」
「ぎゃあっ!」
誰もが吹き飛ばされ、重い壁や石造りの柱に叩きつけられる。瓦礫が崩れ落ち、服を裂き、腕や頬を切り裂く鋭い痛みが走るその中で。
「……ッ!」
シャルルが背後の壁に後頭部を激しく打ちつけ、目の焦点が一瞬で揺らぐ。体が崩れ落ち、意識が遠のくように力が抜けた。
「シャルル!」
サミュエルが大股で駆け寄り、しゃがみ込むとすぐにその体を抱き上げた。海風に立つ帆柱のような長身が、均整の取れた長身の仲間を軽々と腕に抱える。
「意識が飛んでる……! くそ、医務室まで持っていく!」
爆撃音の中、サミュエルは周囲の瓦礫を蹴散らしながら仲間を胸に抱えて走った。耳の奥でまだ爆風の余韻が唸っている。背中に舞い落ちる石片と煙の熱さをものともせず、サミュエルは一直線に医務室の扉へ向かった。
医務室の壁がびり、と震えた。腹の底まで響く衝撃音が立て続けに鳴り響く。
「いまの音……すごく大きい!」
思わずソフィーが顔を上げると、アニータも包帯を持つ手を止めて緊張の色を宿した。
その直後、勢いよく扉が開く。
帆柱のように高い影——サミュエルが両腕にぐったりとしたシャルルを抱えて立っていた。汚れた軍服と火薬の匂いが一気に医務室へ流れ込む。
「脳をやられてるかもしれない、すぐ診てやってくれ!」
低く荒い声に促され、ソフィーとアニータは慌てて空いてる寝台を探した。
シャルルの顔色は青白く、目は虚ろだ。「中背より少し高いのに、軽く見えるわ……」とソフィーは一瞬思ったが、それは目の前の大男が桁外れに大きいからだ。
「こちらへ!」
ソフィーは即座に寝台を指さし、アニータに視線で合図を送った。
「アニータ、枕を外して。首は動かさないように」
「わかった!」
アニータは手早く台を整え、サミュエルがシャルルを横たえると同時に濡れた布を差し出した。
ソフィーは瞳孔の反応を素早く確認し、脈を測る。
「左右差なし。後頭部に腫れ……骨は割れていない。意識は……シャルルさん、聞こえますか?」
シャルルの瞼がかすかに動いたが、返事はなかった。
「吐き気は? ……無反応ね。しばらくこのまま横向きにして安静。頭は高くしないで」
指示を出しながらソフィーは腫れた部分に冷えた布をあてがう。
アニータが追加の水を汲みに走る間、サミュエルは黙って寝台が揺れないよう支えた。
砲撃の振動が石床を震わせ、医務室のランプの炎が揺れる。
それでもソフィーの手は迷いなく動き続けていた。
軍医として、目の前の命を守るために。
砲声はまだ遠くで鳴りやまず、医務室の空気を震わせていた。
「外の様子はどうですか? 他の人たちは?」
ソフィーは手を止めず、視線だけをサミュエルに向けた。
「……みんな、砲撃を食らって吹っ飛ばされた」
低く押し殺した声だった。
「負傷者は、まだ運ばれてきますね」
ソフィーは短く息を吸い、アニータに指示を飛ばす。
「担架を追加で。水も氷も足りなくなるわ」
アニータが頷き、駆け出す。
サミュエルは片手で壁を押さえ、ぐらつく部屋に体を預けながら外を振り返った。霧の向こうからは、怒号と爆音、火薬の焦げた匂いが入り込んでくる。
「……ここも長くはもたないぞ」
そう吐き捨てるように言うと、彼はまた医務室を飛び出していった。
残されたソフィーは冷やす布を替えながら小さく呟いた。
「せめて、ここだけは守らないと」
砲声が再び壁を震わせた。医務室の狭い空気は、血と薬草の匂いで満たされていく。




