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第十章② それぞれの場所で 続き

 ブレスト城の屋上ではエリオットを中心に将官たちが地図と報告書を囲み、次なる一手を探っていた。砲声が遠く響く中、誰もが一瞬の隙を見せぬよう言葉を交わす。

 やがてルソーが耳を澄まし、僅かに眉を動かした。

「……妙だな。砲撃音が、静まってきやがる」

 イザベルも外の光景を見渡しながら頷く。

「霧も……薄くなってきました」

 薄灰色の帳が少しずつ引いていき、海面が現れる。

 そして完全に晴れたとき、そこにあったはずの海賊船は、影も形もなかった。

「まさか……亡霊でも相手にしていたのか?」

 誰かが小声でつぶやく。だが、望遠鏡を手にした参謀官が首を振った。

「違います。……見えます、あちらに。船の破片が、あちこちに漂っています」

 エリオットは短く息を吐き、低く告げた。

「……退けたようだ。だが油断はするな。すぐに城と陣地の修復にかかれ。それと負傷者の確認も怠るな」

 その声に司令官たちは一斉に階段を駆け下り、それぞれの部署へと散っていった。


 戦の余韻と火薬の匂いが、まだ城内を包んでいた。

 外では既に破れた旗を降ろし、崩れかけた石垣を補強する兵たちの怒号が響き始めている。

 担架を抱えた衛生兵が何人も駆け抜け、血の跡が続く廊下は重苦しい空気に包まれていた。

 その先、臨時の医務室では叫び声と呻き声が交錯し、火薬と血の匂いが混じった濃い空気が漂っている。臨時に設けられた医務室は廊下から続く大広間をそのまま使っていた。窓は板で塞がれ、薄暗い中でランプの明かりだけが揺れている。その光の中、包帯や止血布、手術道具が無造作に並べられ、床は血で黒ずみ、あちこちに破れた軍服が放り出されていた。

「次、こっちだ! 担架を急げ!」

「おい、しっかりしろ、まだ終わっちゃいない!」

 怒号と悲鳴が入り交じり、焼けた鉄と血の匂いが鼻を刺す。

 傷ついた兵たちの呻き声はまるで海戦の余韻がまだ続いているかのようだった。

 その一角、軍服を翻しながら治療にあたる女性士官がいた。

 アニータだ。額には汗が滲み、指先は血に染まっても、彼女の視線は一瞬たりとも患者から逸れない。周囲では数人の助手が必死に傷口を押さえ、包帯を差し出していた。

 その背後、入り口近くの陰からアルフォンスはじっとその光景を見つめていた。手にした書類がわずかに震えているのは、戦場の凄まじさを真正面から受け止めてしまったせいかもしれない。

 ここには銃声も砲声もない。それでも、目の前には別の戦いがあった。

 アルフォンスはひとり静かにその場の空気を見守っていた。窓は板で塞がれ、薄暗い灯りが揺れる中、慌ただしく行き交う医療スタッフや兵士たちの足音が響く。彼の視線は奥の方にいるアニータへと向けられ、傷ついた兵士たちを救う彼女の真剣な表情を捉えていた。口元にわずかに苦い笑みを浮かべながらも、声をかけることなくその場の緊張感を共有していた。


 一方、ソフィーは医務室に残って運び込まれた負傷兵たちの治療にあたっていた。

 声を殺して呻く者、歯を食いしばる者、痛みに耐える者。

 彼女はひとりひとりの傷を見極め、可能な限りの手当てを施している。

 戦火の中、命と命の狭間で揺れる光景。

 ソフィーの集中力は、今ここで命を救うことだけに向けられていた。

 医務室の薄暗い空間に、かすかな呼吸音が戻り始めた。

 シャルルがゆっくりと瞼を上げる。隼の目のように鋭く、光を逃さぬ瞳がぼんやりと光を捉えたが、その表情はいつもの薄味であっさりとしたものとは違い、どこか疲れ切っている。彼の顔には爆風で吹き飛ばされた片眼鏡の痕跡もなく、素顔のままでいつもとは少し違う無防備さが漂っていた。

 ソフィーは慌てて近寄り、優しく声をかけた。

「シャルルさん、目が覚めましたか? あなたが無事で何よりです」

 シャルルは息も絶え絶えに、薄くかすれた声で言葉を絞り出す。

「君に……謝らなければならない……」

 ソフィーは一瞬戸惑いながらも、すぐに毅然とした声で返した。

「今は休んでください。謝るのは後で構いません。まずは体を休めることが大切です」

 その言葉にシャルルは小さくうなずき、か細い呼吸がまた静かに戻っていく。

 ソフィーはシャルルを見つめながら、重苦しい空気の中でもここから先に彼が回復していくことを願い、懸命に治療に取りかかるのだった。


 霧が晴れ、砲撃の喧騒が一時の静寂に変わった陣地。

 マクシムはゆっくりと意識を取り戻し、重い頭を振りながら辺りを見回す。

 仲間たちの呻き声や、壊れた陣地の修復作業の音が混ざり合い、緊迫した空気が漂っていた。

「ん、……どれほど気を失っていたんだ……」

 焦燥を押し殺しながらマクシムは自分の部下の様子を探す。

 リラとグウェナエルが辛うじて目を開け、ジョルジュやペネロペ、メリッサ、ロザリー、ダヴィットもそれぞれ傷を負いながらもなんとか立っているのが見えた。

 そこへサミュエル、リゼーヌ、スザンヌが駆けつける。三人の顔は険しく、声には焦りが滲んでいた。

「みんな大丈夫か? 負傷者は?」

 サミュエルが声を張り上げる。

「シャルルが衝撃で頭を打って倒れた。すぐにソフィーのもとに連れて行った」

 スザンヌが険しい表情のまま続けた。

「海賊は撤退しましたが……本当に、今後も防衛に徹するだけでいいのか、疑問が残ります」

 その空気を察したかのようにジョルジュが静かに口を開く。

「大丈夫ですよ……! 海の神は正しい人に安らぎを与え、風は必ず導いてくれるんです!」」

 だがすぐにグウェナエルが冷ややかに返す。

「正しい人、か。ここではそんな単純な二元論は通用しない」

 グウェナエルは険しい顔で周囲を見渡し、低く言った。

「戦争とは、そういうものだ。正しさも悪もなく、ただ生き残るために、己の意思で戦場を渡り歩く者だけが勝者になる」

 その言葉は、まるで長年戦いの渦中を生き抜いてきた者の実感を帯びていた。

 不安と疑念が渦巻く中、それでも彼らは静かに身構え、次の瞬間に備えた。

 マクシムは冷静な口調で声をかけた。

「ひとまず、無傷の皆さんはここで待機してください。怪我をした者は、僕と共に医務室へ向かいましょう。シャルルの様子を確認しなければならない」

 ペネロペ、ダヴィット、ロザリー、メリッサがそれぞれ顔を引き締め、マクシムに続いて歩き出す。戦いの疲労と緊張が背中にずっしりと重くのしかかっていた。

 一方、リゼーヌはその場に残り、ふと足元に目を落とした。

 そこには、砕けてひしゃげたシャルルの片眼鏡が転がっている。ヒビだらけのレンズと曲がったフレームが、痛ましいまでに彼の激しい戦闘の痕跡を物語っていた。

 リゼーヌは手に取ると、そっと声をあげた。

「これ、どなたか届けていただけますか?」

 その声に気づいたマクシムが振り返り、静かに応じる。

「では、僕が預かります」

 そう言うとマクシムは片眼鏡を丁寧に懐にしまい込み、再び足早に医務室へと向かっていった。背後には依然として不安と緊迫が漂っていたが、彼らは一歩ずつ未来へ向けて動き出していた。


 一同は急ぎ医務室に到着した。室内は慌ただしく動き回る声と足音に満ちていた。けれど、その中にもしっかりと秩序があり、重症者が優先的に処置を受けている様子が伺えた。

 マクシムたちはすぐにソフィーの元へ駆け寄る。ソフィーは落ち着いた声で言った。

「皆さん、ご無事で何よりです。でも、ここは重症者を優先しています。あちらに私の鞄がありますから、包帯など必要なら使ってくださいね」

 ペネロペやメリッサ、ダヴィットらは一様に感謝の表情を返す。

 マクシムが静かに尋ねた。

「シャルルはどこですか?」

 ソフィーは目線を少しベッドの方へ向ける。

「あちらのベッドにいます。先ほど意識を取り戻しましたが、今は安静にして眠っています」

 マクシムはシャルルの顔を一瞥し、険しい表情でつぶやいた。

「よかった……無事で」

 ダヴィットが少し声を落として言う。

「あの霧、まるで悪夢みたいだったな。一体、俺たちはどこへ向かっているのやら。今も霧の中を迷っているような気分だ」

 メリッサも腕を組みながらつぶやく。

「防衛だけじゃ、この緊張感は消せないよ。何か手を打たなきゃ、ずっとこうなんじゃないかと思うわ」

 ペネロペはどこか遠くを見つめていた

「でも、焦って動けばまた傷つく人が増える。難しいところね」

 マクシムはそんな皆の言葉を受けて深く息をついた。

「焦りは禁物です。しかし、動かなければ何も変わりません。今はとにかく冷静に、次の一手を考えましょう」

 ソフィーは静かに皆の目を見渡し、自分の決意を音色にしていく。

「私も全力を尽くします。皆さんの無事を祈りながら、今できることを」

 空気は依然として張り詰めているが、その中に確かな決意の火が灯った。


 ブレスト城の屋上。

 澄み切った青空の下、眼下に広がるラド・ド・ブレストの海原は戦火の跡をかすかに残しながらも静かに息づいていた。戦いの霧は晴れ、風が穏やかに吹き抜けている。

 その場所に立つエリオットの背中には重責の影が濃く落ちていた。彼の瞳は遠くの景色を捉えつつも、心はまだ戦いの余韻に囚われているようだった。

 そこへイザベルが静かに歩み寄る。

「大元帥。先ほど増援要請をトゥーロン司令部へ通達しました。パリでも、休暇中の部隊に声をかけていると聞いています。……大元帥?」

 エリオットはゆっくりと肩を震わせるように息を吐き出し、険しい顔を伏せたまま呟く。

「私の指揮官としての腕も、もはや衰えたのかもしれないな」

 言葉に込められたのは、自身の限界と責任の重さに押しつぶされそうな絶望だった。

 イザベルは彼の肩に手を置き、静かに語りかける。

「でも、あなたはまだここにいる。街を守り切った。あの嵐の第一波を食い止めた。それは紛れもない事実よ」

 エリオットは一瞬目を閉じて息を呑み、ゆっくりと目を開けた。

「絶望の淵にいる者ほど、もがき続けるものだな。私も、まだ戦い続ける」

 その言葉は凍てつく空気の中、凛と響いた。イザベルは力強く頷いた。

「ええ、その通り。絶望は終わりではない。新たな試練の始まり……」

 彼の瞳にはまだ闇が宿りつつも、その奥底に燃える小さな炎が確かに見えた。

 冷たい風が吹き抜けるラド・ド・ブレストを前に。

 エリオットはひとり孤独な戦いへの決意を胸に抱いていた。



     ——中巻後篇「終幕と開幕の調べ」へ続く

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