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第九章② ソフィーとエリオット 続き

「……初めて仲間ができたのは、まだ幼い頃だった。場所はパリ。名家の跡取りとして、孤独を強いられていた私にとって、それは衝撃的な出来事だったよ」

 エリオットはゆっくりと視線を落とし、記憶を辿るように続けた。

「ゼフィランサス。名の通り、風のような男だった。どこにでも行けて、どこにも留まらない。気分屋で、予測不能で、それでいて妙に人を惹きつけるところがあった。そして、もう一人いた。ミレーユ。後に私の妻になる女性だ。……知的で、心優しくて、強い人だった。私などよりもよほど肝が据わっていた。三人でよく街に繰り出しては、くだらない冒険ごっこに興じたものだ。貴族の子息も、放浪者も、女の子も……関係なく、ただ仲間だった。あの頃の私たちは」

 懐かしむような笑みがエリオットの口元に浮かぶ。

「ゼフィールは、多民族の集団とともに暮らしていた。国を追われ、定まる居場所のない人々だ。音楽と笑いと、喧騒に包まれた世界だったな。……だが、彼らは間もなくパリを追われた。『秩序を乱す異分子』として、追い立てられたんだ」

 ソフィーは息を呑んだ。エリオットの目が少しだけ曇ったように見えた。

「……十八の時だった。場所はサン・マロ。まだあの港町が軍の支配下にあった頃だ」

 エリオットは机の端に手を添え、まるで遠い港の潮風を思い出すかのように目を細めた。

「私はその頃、斥候として動いていてね。士官候補生の肩書はありながら、各地の暴動の芽を摘むために裏通りを這いずり回っていた。地図にすら記されないような通りで、あの男に出会った」

 静かに笑みが漏れる。

「『また会ったな、エリオット』……まるで昨日の続きでも話すみたいに、そう言って笑った。私の顔を見た第一声がそれだったよ。……彼は仲間たちのために盗みをしていた。港湾の倉庫から物資を運び出しては、それを売って生活費にしていたらしい。法では裁かれるべき立場だった。私は軍人として彼を追い詰める側で、彼は『追われる者』になっていた」

 しばし沈黙。重く、感情を押し殺すような声でエリオットは続けた。

「だが、捕まえなかった。いや……捕まえられなかった。私は軍人だったが、それ以上にかつての仲間だったからだ。……彼の言葉に、どうしても刃を向けられなかったんだ」

 そのときだった。ソフィーはふと彼の表情の奥にあるものに気づいた。

 ……この目だ。ごく稀に見せる、深い悲しみを湛えたような瞳。

 まるで記憶のどこか触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な過去に、心だけが戻ってしまっているような目。——きっと今、彼は遠い昔を旅していたのだ。少年だった頃の誰にも言えない痛みと、まだ傷になりきらない喪失の匂いを抱えて。

 エリオットはふと窓の方へ視線を向けた。声を落とし、まるで独り言のように呟く。

「……君は、考えたことはないのかい。信頼していた人がある日、敵として目の前に現れる可能性を」

 ソフィーは少しだけ目を見張った。彼の言葉が、ただの一般論として語られたものではないことにすぐ気づいた。

「海賊と海軍。海にいる限り、巡り合い続ける。どんなに楽しかった記憶があっても、それは立場とは無関係だ。剣を向け合わなければならない瞬間はやがて来るかもしれない」

 そこで彼はゆっくりとソフィーの方を向いた。

「……君は、それでも怖くはないのか?」

 ソフィーは一呼吸置いてから、ぽつりと口を開いた。

「……以前、同じことを言った海賊がいました」

 ふと脳裏に浮かんだのは、あの夕陽の中の光景。

 剣を舞うように振るった、あの男の姿だった。

 くすっと、ソフィーは微笑を浮かべた。

「私が海軍に戻るって告げてからは、なんとなく……お互い、覚悟はしていました。いずれ敵同士になるかもしれないって」

 彼女は机の端を指先でなぞるようにしながら少しだけ視線を落とした。

「でも、私は最後に彼らに伝えたんです。『もし誰かが傷ついたら、必ず助けに行く。軍医としてじゃなく、一人の医者として』って」

 そこまで話してソフィーはようやくエリオットの方を見た。どこかはにかんだような、でも凛とした目だった。

「……これが、過去をなかったことにしたくない私なりの、一つの答えです」

 言い終えたあとでソフィーは小さく肩をすくめる。

「まあ、ちゃんとした回答にはなってませんけどね」

 エリオットはしばらく何も言わなかった。部屋の中に静けさが満ちる。医務室の白い壁と、かすかな薬品の匂いと、昼の気配だけがそこにあった。窓の外で、どこか遠くの帆の軋む音が聞こえる。

 彼の瞳は宙を見ていた。かつて見た、あの夏の海。あの風のような男が去っていった背中。

 もう戻らぬ日々を想起するように、ふと微笑んだ。ひどく静かで苦味を含んだ大人の笑みだった。

「……立派だよ。立場を越えて、覚悟を持ってる者の言葉だ」

 その声はどこか寂しげだったが、否定も批判もなかった。

「私にはあの時、ゼフィールに対してそう言ってやれる余地はなかった。どちらかが裁かねばならぬと勝手に思い込んでいた。あれが国家の意志だと信じることでしか、私には立っていられなかった」

 彼の声は淡々としていたが、その目だけはどこまでも深かった。

「それでも、私が信じたものを否定する気はない。後悔と信念は共に生きていけるものだと、ようやく思えるようになった」

 そして、ソフィーの方をしっかりと見つめる。

「君の言葉を聞けてよかった。……もし、ゼフィールが今もどこかで生きているのなら、君のような医者に出会ってほしいときっと私は願うだろう」

 そこまで語ってからエリオットはふっと目を細めた。

「君がその選択を貫く限り、私は何も言わない。……ただし、それは本当に覚悟を持って、すべてを背負うということだ。味方からも、敵からも、信じてもらえなくなる時が来るかもしれない」

 その言葉にソフィーは軽くうなずいた。まっすぐに、迷いなく。

 エリオットは最後に一言だけ、微笑を浮かべて言った。

「——怖いかね?」

 ふっとその表情が、変わった。微笑はそのままに。だが、口元の線が僅かに冷たく歪む。次の瞬間、エリオットの声はまるで別人のように冷ややかだった。

「そうそう、あの五人組の海賊たち。君がいろいろと報告してくれたおかげでね、ようやく参謀本部も動いたよ」

 ソフィーが言葉を呑む。何かがおかしい。空気の密度が変わった。医務室というはずのこの部屋が、まるで冷房の効いた地下牢のように、凍りついたかのようだった。エリオットは続けた。声は穏やかだが、その内容は鋭利な刃のように冷たかった。

「先週、ようやく指名手配書が出来上がった。君の供述と照合された複数の海軍報告書をもとに、正式に危険人物としてリスト入りしたよ。……まあ、当たり前の話だ。これだけ堂々と軍艦を襲って、堂々と名乗ってるんだ。ようやく、というべきか」

 ソフィーの唇が微かに動いた。

「……え?」

 聞こえなかったふりもできた。けれど、エリオットは容赦しない。

「この間、国王の御前会議で目を通されたと聞いている。名前こそ伏せられていたが、五人組のならず者たちは今や国家の監視対象だ。……たぶん、今頃は一部の軍港や役所でも報告書が回覧されてるんじゃないかな?」

 彼の言葉は淡々としていた。だが、その言葉の一つ一つがソフィーの心を針のように刺し貫いていく。

「ただ……『五人組』では不便だ、という声があってね。参謀本部でコードネームが付けられた。『五鬼衆』だよ。なかなか秀逸だと思わないか? 人ならぬ、鬼の集団。統率された動きと、非人道的な行動。軍の規範から外れたものにふさわしい名称だ」

 エリオットの目が笑った。だが、それはまったく優しさを伴わない笑みだった。

「どうしてその名前になったか、知りたいかい?」

 ソフィーは答えられなかった。口を開けば、何かが崩れてしまいそうだった。医務室の白い壁が突然牢獄のように見える。

「この名が正式に出回れば、もう逃げ場はない。五鬼衆、『鬼』として認識された者たちは正規の裁判手続きを踏む必要すらないと見なされることもある。……君も軍に属している以上、それは理解しているだろう?」

 まさしく死の宣告だった。海軍大元帥としての言葉。

 いかなる個人的な感情も迷いも、例外も排除された、国家の意志そのもの。

 エリオットは立ち上がる。ベッドの脚がわずかに軋んだ。

「君が誰を庇おうと、誰の名を呼ぼうと。海軍は関係なく動く」

 その背中はまっすぐだった。巨大な組織の最上に立つ男の、逃げも逸れもない背中だった。

 沈黙を破ったのはソフィーの方だ。声はかすれていたが、確かな怒気を帯びていた。

「なんなんですか……その、鬼って」

 問いかけというより、噛みつくような一言だった。

 エリオットは振り返らない。だが、その背にわずかに微笑が宿った気がした。

「鬼とは、この国の言葉ではない。東洋に伝わる伝承の怪物だ。もっとも、悪魔と訳すのは簡単すぎるな。あれはもっと……形容しがたい存在だ」

 エリオットは歩を止める。窓際に立ち、こちらに背を向けて光を浴びているしているから、表情は読めなかった。

「鬼は、人の心が変異したものとされる。情や愛や誇りがどうしようもなく歪んだとき、人は鬼になる。そんな伝承もある。……見た目は人と同じでも、もはや人として扱ってはならぬと」

 声は静かだった。だが、言葉には確かな重みがあった。

「君の五人の友人はそう見なされた。名も知られず、素性も不明なまま軍艦を襲撃し、捕虜を奪い、身元を偽り、消息を絶った。国家の目から見れば、それは人の理から逸脱した行為。だから、鬼と呼ぶことにしたのだ」

 ソフィーは息を詰める。胸の奥が焼けるように痛んだ。エリオットはなおも続ける。

「君は彼らを助けに行くと言った。それは医師としての矜持だろう。だが、医師とは人を助ける者だ。果たして、鬼を相手にしてもその矜持は通用するかな?」

 彼は振り返った。逆光の中、茶色の瞳だけが光を帯びていた。

「五鬼衆。それは、名もなき鬼たちに与えられた仮の名だ。だが、仮の名には意味がある。仮面を被った存在という意味では、彼らにふさわしいだろう? 人のようでいて、人でない。何かを守るために、あえて外道に堕ちた者たち。そんな者たちを、我々は鬼と呼ぶ」

 そして、ほんのわずかにエリオットの目が細められた。

「あるいは……君もいずれその一人になるかもしれない。彼らを庇い続ける限りは、ね」

 エリオットはふと懐かしむような笑みを浮かべた。

「……そういえば、五人のうち、最も鬼に近い者がいるそうだな」

 ソフィーの背筋がわずかに硬直する。彼はそんなソフィーの様子など構わずにゆっくりと太陽を見上げた。

「報告によれば、常軌を逸した戦闘能力。陰気で、まるで獣のような気配。そして何より……顔中に走る深い傷痕。なるほど、人ではないと判断されるには十分だ。名は……ルキフェル、だったか?」

 その名を口にした時、エリオットの声色が少しだけ変わった。興味というより、懐疑と——警告。

「実に興味深い名前だ。ルキフェル。ラテン語では『明けの明星』を意味する。天を目指し、光を纏い、そして堕ちた者。堕天使ルシファーの別名でもある」

 ソフィーが息を呑むのがわかった。

「ある神学者はこう解釈した。『ルキフェルとは己の罪を知りながら、それでも光を求めた哀れな者である』と。あるいは、『人に似て非なる者が、地に堕ちる過程で最も人間的になる』とも」

 エリオットは一歩だけ近づく。その瞳に、どこか遠いものを見るような翳りが浮かぶ。

「君の鬼たちの中でも最も深く、最も激しく、何かを背負っている者だろう。だが、同時に最も脆い。だからこそ危険だ。鬼とは、孤独を糧に育つものだよ」

 そして、ふと肩をすくめ、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

「名前には、力がある。時に、名はその者の運命を語る。さて、ルキフェルという名が彼に何を与えたか……それは君が一番、知っているんじゃないか?」

 エリオットの静かな問いかけの余韻が、部屋の空気をひやりと支配していた。けれどその沈黙を断ち切るように。ソフィーはまっすぐに顔を上げた。その瞳には滾るように熱が灯っていた。

「……いえ」

 言い切った声は、はっきりとしていた。

「彼は、彼らは人間です」

 エリオットの目が細められる。ソフィーは怯まなかった。

「たしかに罪を犯した者たちです。法に背き、時に暴力に手を染めた……でも、それでも私は知っています。彼らは、血の通った人間です」

 言葉に熱が宿る。記憶の中で笑い合う五人の姿が、彼女の背を押していた。

「情に厚く、仲間を思い、誇りを持って自由に生きている。誰よりも人間らしい、そんな生き方をしている人たちです」

 エリオットは何も言わなかった。だが、その沈黙は聞く姿勢だった。

 ソフィーは息を吸い、もう一歩、言葉を前へ踏み出した。

「ルキフェルだって、そうです」

 名前を口にした瞬間、わずかに空気が張り詰めた。けれど彼女は続けた。迷いはなかった。

「たしかに、彼の本当の心までは分かりませんでした。でも……それでも私は、彼が忠義に生きる人間だと信じています。不器用で、言葉少なで、誰よりも孤独を抱えていて——でも、だからこそ、誰よりも強く、優しかった」

 静かに彼女は言い切った。

「彼は人です。私の知る限り、間違いなく人間でした」

 ソフィーの声はなおも揺るがなかった。

「……それに、鬼って、人の心が変異して生まれるものなんですよね?」

 その一言にエリオットの瞳が僅かに動いた。気づいたのだ。これはただの反論ではない、と。

 ソフィーは歩を進めた。一歩、また一歩。もはや少女のような幼さはそこにはない。

「なら、あなたこそ——鬼です、大元帥」

 ピクリとエリオットの指が動いた。何も言わない。だがその沈黙こそが感情の揺らぎを物語っていた。

「あなたは、親友を殺した。今もその罪を悔いているのでしょう? ずっと、引きずっているんでしょう?」

 言葉は柔らかく、それでいて鋭かった。責めるのではない。真実を突いたのだ。

「あなたが背負った後悔は、鬼そのものです。理性と忠義が心を食らい尽くしてしまった……。でも、それでも私は思うんです。あなたが人間であるように、彼らだって人間なんです。たとえどんな名を着せられようと」

 息を吸って、ソフィーは静かに言った。

「鬼は、他人のことを鬼と決めつけた瞬間に生まれるものです。私は、そんなふうにはなりたくない」

 張り詰めた沈黙が、室内に長く長く垂れこめていた。まるで言葉ひとつで、何かが決壊しそうな、そんな気配。やがてエリオットが困ったように目を細め、唇をわずかに引き結んだ。

「……天晴れだ」

 それは称賛とも、皮肉とも取れる微笑だった。だがその笑みには、どこか優しさが滲んでいた。

「もしここにイザベルやユルリッシュがいたら大変なことになっていた。君の言う通りだな、ソフィー・ド・ルノアール」

 彼はゆっくりとコートの裾を払う。そしてドアへと向かいかけて、ふと振り返った。

「また近いうち議論をしよう。……今度は争いのない時、それも穏やかな話題でね」

 その声は静かで、どこか寂しげだった。

 医務室の扉が音を立てて閉まると、ソフィーは一気に緊張を手放してバッタリとベッドに倒れ込んだ。

「や、やってしまったぁ……!」

 枕を抱えてうずくまり、足をじたばたさせながら身悶える。

「言った……! 言ったよ、あんなこと! よりにもよって、大元帥に……!」

 顔を真っ赤にしながらも、彼女の瞳には後悔の色はなかった。むしろ、どこかすっきりとした、確かな光があった。

 ──そして、そんな二人のやりとりを、ひとり密かに聞いていた者がいた。


 医務室の扉の陰、廊下に立ち尽くしていたのは、マクシミリアン・ブーケだった。

 エリオットが医務室から出てきたのを目で追い、その背中を黙って見送る。目を伏せ、ひと呼吸。

「……鬼、か」

 静かに、彼はそう呟いた。なぜか胸の内がざわついていた。

 ソフィーが語った言葉、それを受けたエリオットの横顔、そして自分自身の過去。

「鬼」という言葉が、妙に心の奥で引っかかって離れなかった。

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