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第九章① ソフィーとエリオット

 朝霧の向こうにうっすらと輪郭を見せるブレスト城は、いつになく騒がしかった。

 静けさを破るのは兵たちのかけ声、物資の木箱を下ろす軋んだ音、どこか遠くで響く訓練の銃声だった。

「右舷、照準合わせ、もう一度! この距離で外すな!」

「待機砲台、弾薬よし! 次、搬入は三番倉庫!」

 岸壁沿いには艦艇部隊と陸上部隊が入り乱れて動いていた。

 濃い灰色の制服に身を包んだ兵士たちは各自の役割に従って船体の補修、砲台の設置、装備の積み込みに没頭している。周囲には金属と汗の匂いが充満しており、冬の空気に混ざって重くのしかかっていた。

 丘の上のブレスト要塞では、より高所の防衛に備えて砲座の調整が続けられていた。

 そこからやや離れた演習場では、ユルリッシュ・ルソー准将監修のもと各部隊合同による訓練が早朝から行われている。銃声と怒号が断続的に響き、地響きのように港へ伝わってきた。

「左から回り込まれる想定だ、弾幕を張れ! 気を抜くな、これは訓練でも——」

 訓練場の土煙の中、ルソーの太い声が響くたび、ソフィーの背筋に冷たい緊張が走った。

 そんな騒然とした現場を一望する位置に、エリオット・ド・レオパード大元帥の姿があった。深い藍色の軍服に身を包んだ彼は、広げられた地図の上に視線を走らせながら、静かに威厳を込めて指示を下していく。

 その傍らでは副司令官イザベル・ド・ボナパルトと伝令係のアルフォンス・シャトレが常に動き続けていた。次々と飛び込む連絡を処理し、必要な命令を他の部隊へと送り届けている。

「西側砲座の照準、調整済みと報告が。あとは——」

「ここの港の備蓄倉庫、四番から五番に移動させます。接岸予定の増援艦と接続が重なりますので」

 イザベルとアルフォンスの声はどこか張り詰めていた。

 それもそのはずだった。先ほど、サン・マロに出向いた調査隊がもぬけの殻となった海賊拠点の報告を持ち帰ったことで状況は一変していた。

 エリオットの表情に浮かぶのは静かな怒りと深い警戒。そして、その報告を受けた各部隊の兵士たちも例外ではなかった。

「奴らが逃げていた? まさか……」

「もうどこか近くに潜んでるかもしれん……」

 ざわつく声は港のあちこちで交差し、不安は音もなく拡がっていた。

 全員が「次は自分たちが狙われる」という意識の中で、かつてない緊張感に飲み込まれていた。


 そんな空気の中、ソフィー・ド・ルノアールは医務室の整備と支給された医療物資の運搬に追われていた。包帯や消毒薬、止血道具、薬瓶。その一つ一つに触れるたびに胸の奥で不安が膨らんでいく。

「誰かがこれを使う時が来るということよね……それも、すぐに」

 彼女は木箱を抱えながら丘の上から全体を見渡すように指揮を執るエリオットの姿をふと仰ぎ見た。

 威風堂々。あの背中には、揺るぎなさがあった。

 たとえどんな戦いが迫っていようと、あの人がいる限りきっと戦列は崩れない。

 エリオットの声がまた響いた。

「南西風に備えて、港の砲台配置を再検討する。海からの陽動にも注意を」

 その指示は、海の彼方にいるであろう敵にまで届くような力を帯びていた。そしてその背に従う者たちの動きに、ほんの一瞬だけソフィーの胸に静かな安心が灯る。だがその灯火もすぐにかき消された。空が少しずつ白み始めると共に、ブレスト城全体がまるで火の手を待つ砦のように、張り詰めた沈黙に包まれていった。

 「——よし、ひとまず休憩にしようか」

 冗談めかした声が飛ぶと軍医たちのあいだにさざ波のような笑い声が広がった。

 声の主は、臨時の衛生班をまとめることになった中年の軍医——通称・主任先生だった。

 几帳面な性格と、時折こぼすユーモアで班の雰囲気を和らげてくれる存在だ。

 医務室の中で作業していた衛生兵たちも一斉に道具を置き、ストレッチャーを壁際に押しやり、ふぅと汗をぬぐいながら出入り口へと向かう。

 誰からともなく、「水場まで行こう」「パンの残りがあるよ」などと声が上がり、廊下には柔らかな足音が連なっていった。

 アニータも軍服をぱたぱたとはためかせながら「水筒、忘れないでね!」と声をかけると、ソフィーの反応を待たずに仲間の後を追っていった。やがて部屋に残るのはソフィーひとりだけとなった。静かだった。

 ——そうか、もう昼か。

 先ほどまで交わされていた談笑や物資の確認の声が遠くの扉の向こうで薄まっていく。

 外では合同訓練の号令がひときわ高く響いた。掛け声の合間には、足並みを揃えた軍靴の音と砲車を押すきしみが聞こえてくる。それらすべてが、戦支度の音だった。

 ソフィーは自分の手元を見つめる。木製の机の上には、帳簿の端に挟んでいた黒革の日記帳がある。綴じ紐をそっとほどくと、ややくたびれたページがふわりとめくれた。

 いつからだったろうか。ほんの出来心のように書きつけはじめたこの日記が、今や彼女自身の鼓動を映す鏡のようになっていた。インク壺にペン先を浸し、静かに綴り始める。



《対エドガー海賊団率いる海賊同盟に向けた防衛戦の記録 十一月二十二日》


 海は穏やかで、空気は湿っていた。

 けれど今このブレストにはひとりひとりの動きに張りつめたような緊張があって、その静けさがかえって街全体をざわつかせているように思える。

 季節は確かに冬へ向かっているはずなのに、心だけが取り残されたままだ。

 何かを祝う気にもなれず、ただ近づいてくる冷たい風の気配だけを感じている。


 大元帥エリオット・ド・レオパード閣下がこの地に到着したのは、ほんの数日前のことだった。

 彼は何もかも見通しているような目をして、まっすぐ司令部へ入っていった。

 それだけで、この地の空気が変わった。何かが「始まった」とみんなが無言で理解した。

 私もたぶん、そうだった。


 あの人は英雄と呼ばれるには静かすぎて、威厳というには優しすぎて。

 でも、だからこそ人を動かす力がある。

 けど、あの瞳の奥で時折なぜあのような悲しさを湛えるのだろうか。

 ルソー准将も、ボナパルト副司令官も、伝令係のシャトレ司令官もどこか顔つきが変わって見えた。

 そして、隊長も。

 ……私はまだ、隊長のことをちゃんと理解していないかもしれない。

 けれどあの作戦会議の場で、彼がフェルナンド氏の言葉に目を細めたとき、ふと迷いのない人の横顔に見えたのを思い出す。怖くなかったんだろうか。海賊が「戦争を仕掛ける」とまで言っているのに。


 サン・マロに調査隊が向かったのも、ほんのつい最近のことだった。

 フェルナンドの証言を頼りに、隊は即座に動いた。

 私は同行していないけれど、報告は医務室にも届いた。

「……船影も人影もなかった」

 それが皆をいっそう黙らせた。


 あの海賊たちは、ただ逃げたんじゃない。

 見られていたことに気づいていて、おそらく次の一手をすでに握っている。

 そのことに皆、気づいているからこうして今日も港では砲台が運ばれ、補給が積まれ、要塞が少しずつ戦の姿へと変わっていく。

 私はまだ怖い。でも同時に、それでも逃げたくないと思っている。

 こんなふうに日記に書いておかないと、自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだから。

 たぶん、これが私のやり方なんだと思う。

 ……あの人たちのようにはなれないけれど、それでもこの場所で自分にできることをやりたい。

 だから、私は書く。たとえそれが、ほんのかすかな声でも。


 カリカリ……とペンの音だけが響く静かな空間だった。

 誰もいない医務室はまるで時が止まったように思えるほど静かで、白いカーテンの裾がわずかに揺れるその気配さえソフィーにとっては心を落ち着ける「音」だ。

 そのときだった。ノックの音もなしに医務室の扉がそっと開かれる。

「失礼するよ」

 思わず振り返ったソフィーは目を見開いた。そこに立っていたのは、あの大元帥——エリオット・ド・レオパードだった。

 ——戦場の総指揮を執る立場にある人間が、どうしてこんな場所に? しかもひとりで。

「大元帥……?」

「ああ、君だけか。助かる」

 エリオットはまるで来客ではなく自室に入るような自然さで扉を閉め、ソフィーの前に進み出た。

「申し訳ないが、しばらくここに匿ってくれないか」

 エリオットの唐突すぎる申し出にソフィーはペンを落としかけた。けれど、エリオットの表情には笑みこそ浮かんでいたが、どこか疲れているようにも見えた。さっきまで全体に的確な指示を飛ばし、誰よりも冷静に動いていたはずの人なのに。

「はい、もちろん、あの……でも……」

 何かを尋ねようとして、ソフィーは口ごもった。「匿う」という言葉に含まれる意味を、どう受け止めてよいか分からなかったのだ。

「ほんの十分もあればいい」

 そう言いながら、エリオットは医務室のベッドのひとつに腰を下ろした。コートの裾を払うしぐさも、どこか少しだけ乱れているようだった。

「副司令官に書類を押しつけられそうになってね」

 冗談めかした声だったが、どこか本気にも聞こえる。ソフィーはなんとなく笑ってしまった。

「……では、ここは臨時避難所ということで」

「ありがたい。軍医殿のご厚意に感謝するよ」

 そう言ってエリオットはようやく深く息を吐いた。彼の姿は、あの壮麗な戦略家の姿とは少し違っていた。

 ほんの短い間だったが、ふたりきりの医務室には不思議な静けさが戻ってきていた。しかし、ソフィーの中ではその静けさが以前とは違う色をしているように感じられた。

 ソフィーは黙ってエリオットの座るベッドの隣に立ったまま、ちらりと彼の横顔を見た。

 いつものように微笑を浮かべているのに、その表情は少しだけ遠くを見ていた。静かな間が流れた。廊下の遠くで、誰かの足音と訓練の掛け声が響いている。

「……怖くなかったかい?」

 ふいにエリオットが問いかけた。その声はひどく穏やかだった。けれど、沈黙を裂くように深く響いた。ソフィーは少しだけ眉をひそめて、「何がですか」と尋ねた。

「海賊と過ごした時のことだよ」

 エリオットが返した答えにソフィーは目を見開きかけた。けれど、驚きよりも先に彼の声の温度に戸惑った。ただ好奇心から訊いているのではなかった。まるで、自分自身に問いかけるような声音だった。

「……怖くなかったわけではありません」

 ソフィーは少し考えてからそう答えた。

「でも、怖かったという言葉だけでは……たぶん、足りません」

 エリオットは少しだけ微笑んだ。その目はたしかにソフィーを見ていたが、同時に彼自身の過去も見ているようだった。

「それでも、生きて帰ってきた」

「はい。でも……私が何かをしたからではなくて、助けてもらったからです。いろんな人に」

「……そのいろんな人の中には、海賊も?」

 ソフィーはうなずきかけて、ふと口を閉じた。何か言葉を選んでいるような間があったあと小さくうなずいた。

「ええ。……だから、あの時のことを、まだうまく説明できないんです」

 彼女の返事にエリオットはしばらく黙っていた。その瞳に、どこか懐かしい痛みのようなものが浮かぶ。

「そうか」

 ぽつりと、静かに。

「それでいいと思うよ。君がまだうまく説明できないと思えるうちは、それはきっと大事なものなんだ」

 その声はただの慰めでもなく、経験から出た重い忠告でもなかった。むしろ、言葉にできないものを守ろうとするような響きだった。

「でも——」

 ソフィーはほんの少しだけ躊躇したのち、言葉を紡いだ。視線は彼の顔ではなく、机の上の、閉じた日記帳の表紙に落とされたまま。

「……でも、刺激的でした。あの時間」

 エリオットの目がわずかに動いた。

「海軍員としては失格かもしれません。でも、彼らとこれからも過ごすんだと想像するくらいには、過去を完全には否定できないくらい……楽しかったです」

 まるで告白だった。誰にでもない、どこにも届かない。けれど、胸の奥からにじみ出るような。

「怖かったはずなのに。危険だったのに。わたし、きっと……あの人たちの中で、自分がちゃんと生きていたと思えたんだと思います」

 言ってからソフィーは自分の手を見つめた。指先には薬品の匂いと、包帯の繊維がうっすらと残っている。

「それって、変ですよね。戻ってきたのに。今、ここにいるのに」

 エリオットはふっと鼻で笑った。優しい、けれど少しだけ苦い笑いだった。

「変じゃないよ。君は生きて帰ってきただけじゃない。生きる場所を、自分の中で比べることができるようになった。それだけのことさ」

 エリオットの声は低く、静かだった。それが、なぜだかソフィーには少しだけ痛かった。

 ソフィーの告白を聞き終えると、エリオットはほんの少しだけ目を伏せた。医務室の窓の外で、風が騒がしく何かを囁いていた。

「……私にも、かつて親友と呼べる存在がいたよ」

 ソフィーは顔を上げる。エリオットは遠くを見ていた。けれど、眼差しは何も映していなかった。

「彼は、世間で言うところの大悪党だった。けれど、私にとっては……自分の両親よりも大切な男だった」

 言葉の端に、かすかに苦みが混じる。ソフィーは何も言わずにその声を待った。

「……彼は伝説の海賊になった。人々が畏れ、憧れ、噂を語り継ぐような存在にね。そして、その彼をこの手で裁いたのが私だ」

 ひと息のあと、エリオットは机の角に視線を落とす。まるで、その角にかつての記憶が染み込んでいるかのように。

「国のためでもあったし、海軍の名誉のためでもあった。……だが、私個人としては、ただ間違えたまま進んでしまっただけだ」

 彼の声は静かだった。それゆえに痛みがはっきりと伝わった。沈黙。ソフィーはそれを破ろうとはしなかった。

「……だからね、ソフィー。自分が心から笑えた時間を、無理に否定する必要なんてない。たとえ相手がどんな立場でも、どんな名を持っていても……その時の君が感じた真実は、誰にも奪えない」

 その言葉がソフィーの胸の奥にすとんと落ちた。まるで自分がまだ気づいていなかった感情の形を、彼がそっと言葉にしてくれたかのように。沈黙が再び訪れる。だが今度は、先ほどのように重苦しいものではなかった。

 ソフィーは迷った。けれど、やっぱり聞いておきたかった。それがどれだけ相手の心を抉ることであっても、自分の中で輪郭をはっきりさせておきたかった。

「……その親友の名前は?」

 唐突だったが、ソフィーにとっては自然な問いだった。エリオットは目を細めた。驚いたような、呆れたような、けれど……どこか懐かしむような、そんな笑みを浮かべた。

「まったく……遠慮がないな、君は」

「すみません。よく言われます」

 ソフィーがむすっとした顔をすると、エリオットは少し笑った。どこか少年のような、若き日の名残を思わせる一瞬の表情だった。

「——ゼフィランサス。私は敬愛の意を込めて、ゼフィールと呼んでいた。……彼の名は、今となっては忌避の象徴だ。誰も口に出そうとしない。記録すら、もうほとんど残っていない」

 静かな名乗りだった。だがその響きには、十九年前の亡霊のような重みがあった。

 ソフィーはその名をそっと胸に刻んだ。

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