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第八章⑦ 対面 続き

 ふと場に小さな沈黙が落ちた。その中で、イザベルがまっすぐにベルリオーズを見やる。

「では、私はベルリオーズに一つ」

 その一言にベルリオーズの背筋が目に見えて跳ねた。

「っ、な、なんでしょう……?」

 思わず肩をすくめたその声はいつにも増して情けない。だがイザベルの表情は変わらない。まるで丁寧に包丁を握るように、静かに告げる。

「あなたが以前、密かに接触していたお友達。そいつもエドガーの配下に連なる者と見て間違いないわね?」

 その「お友達」という言い回しに、ベルリオーズは金の腕輪の男を思い出して目を泳がせた。 

「あー……はい。ええ、たぶん。彼も情報屋だと自称していましたし……それなりに腕も立つ、とは思いますけど……」

 曖昧に濁すようなその言い草にルソーが鼻を鳴らした。

「思い出すだけでイライラするな……!」

 ぶつぶつと不満をこぼす彼の拳は自然と握られている。

 ルソーにしてみれば、自分があそこで獲物を獲り逃した事実そのものが許し難いのだ。

 だが、イザベルは一歩も引かない。冷えたまなざしの奥に、確かな問いの刃が光っていた。

 イザベルはさらに言葉を重ねた。今度はマクシムの目をじっと見据えながら。

「そして、ブーケ中尉。フェルナンドを確保した時点で、今回のエドガーの計画についてあなた自身も何も知らなかったと信じていいのかしら?」

 その問いはあくまで冷静に、一切の甘さなく投げかけられた。

 マクシムは一瞬だけ黙したが、それは逡巡ではなく言葉を選ぶための沈黙だった。

「……はい。確保当時、我々はエドガーの本当の計画を掴んでいませんでした。この男が常に芝居をしていたこともあって、我々も手探りの状態だったんです」

 事実だけを淡々と述べるその声音にはどこか苦みが混じっていた。そのとき、隣にいたフェルナンドがゆっくりとマクシムを見やった。

 目は語る。ボクには嘘をやめろとか言ってたのに、君はそうやって真顔で芝居を打つんだね。

 皮肉げでも、怒りでもない。ただどこか感慨を含んだ視線だった。

 マクシムはその視線に気づいていながら、敢えて目を合わせなかった。まぶたを伏せるようにして、静かに息を吐いた。フェルナンドは何も言わなかった。ただひとつ、口元にだけ、芝居のような芝居でないような、得体の知れない微笑を浮かべた。

 ソフィーは静かにマクシムを見やった。その眼差しは問いかけでも疑念でもなく、共犯者のようなどこか遠くを見つめるような、そんな色を帯びていた。ふと、ソフィーの目が伏せられる。その視線の微かな揺れをイザベルが見逃すはずもなかった。

「……どうしたの?」

 凛とした声が飛ぶ。

「何かあるなら言いなさい」

「っ……い、いえ」

 ソフィーはわずかに肩を揺らし、すぐに言葉を継いだ。

「隊長の言う通りだと思っただけです。確かに、フェルナンドを確保した時点で彼は大怪我を負っていて……しばらく昏睡状態に陥っていました。意識を取り戻したのも、つい最近のことです」

 静かな空気の中、ソフィーの声はまっすぐに響いた。

「彼を治療したのは、私がフェルナンドを一人の患者として認識したからです。私のその判断があったから、部隊中が彼を傷病者として扱いました。結果的に、彼に問い詰めの機会を設けられなかったのは──私の責任です」

 その瞬間、フェルナンドの視線が揺れた。誰よりも静かに、そして妙に丁寧に整えられた姿勢のまま目元だけでソフィーを見る。その表情には軽薄さの影もなく、芝居がかった態度でもない。ただ、少しだけ──ほんの少しだけ、眼差しが柔らかくなった。

 彼の横で、マクシムが目を伏せた。無表情を保っていたその頬がわずかに引き攣る。責任感の強い彼だからこそ、ソフィーが矢面に立つことに対する複雑な感情が滲んでいた。

 そんな空気を打ち払うように、ルソーが立ち上がりそうな勢いで声を上げた。

「おいおい、自分がしたことを悔やんで自分を責める必要はない」

 豪胆な声に込められた温もりにソフィーが目を見開く。

「顔を上げな。少なくともお嬢ちゃんがこの猫を健康な状態でここに連れてきてくれたこと、オレはそれに感謝してる」

 ルソーの横でエリオットが小さく頷いた。

「ああ、ユルリッシュの言う通りだ。誰も、君を責めることはできまい」

 静かに、確かな重みをもって語られた言葉だった。思わぬ形で寄せられた言葉にソフィーは唇を結ぶ。胸の奥にあった針のような自責が、すこしだけ和らいでいくのを感じる。

 微妙な空気が落ち着きかけたその時だった。ベルリオーズがぽつりと手を挙げるようにして言った。

「あ、じゃあ、俺も…じゃなくて、私からも質問いいですか?」

 エリオットの視線が即座に鋭さを帯びた。──あの温厚な口調は、もうそこにはなかった。

「……誰に。何を」

 問うというより、値踏みするような声音だった。再び場の空気が凍る中、ベルリオーズは怯んだように肩を縮める。

「え、えっと……フェルナンドさんに聞きたくて」

 すると、名指しされた銀の猫は小さく目を細め、うっすらと微笑んだ。その笑みには飄々とした軽薄さではなく、どこか痛みを含んだ諧謔かいぎゃくの気配があった。

「これはこれは、さては貴方がコルヴァン殿か? 紙面上では何度かやり取りさせていただいたが、こうして直接お目にかかれて光栄だよ。いいとも、裏切り者同士の対話だ」

 さらりと毒のような冗談を投げる。

「いや、俺はあんたのとこの船長に脅されただけでっ」

 思わず返すベルリオーズの言葉に、部屋の空気がぴり、と張りつめた。

 エリオット、ルソー、そしてイザベルが同時に目を光らせた。

 まるで言葉一つで首を跳ねかねぬ獣たちのような鋭さで。

 あ、しまった、という表情でベルリオーズは慌てて話題を切り替えた。

「そ、それより! あなた、エドガー海賊団の右腕なんですよね!? だったら、奴らの在処を知ってるはずだ!!」

 怒鳴るように問いかける。フェルナンドは肩をすくめた。演技がかった動きではなく、やや投げやりな雰囲気すら感じさせる口ぶりで言った。

「ああ、その答えなら単純明白だよ。ボクたちはサン・マロを拠点にしてる」

「……なに?」

 低く呻くような声を上げたのはルソーだった。

「あそこは、我が軍が──」

「ユルリッシュ」

 エリオットが彼の言葉を制する。そして一拍置いて、重々しく言い添えた。

「サン・マロは自由港になったのだよ……情けなくもな」

 どこかに嘲笑すら含んだ声音。だがその嘲りは他人に向けたものではない。

 思い出すのは、軍の信頼を裏切った者たち。かつて、サン・マロに駐在していた上官たちの姿。

 彼らの汚職は軍法会議すら生ぬるいほどに腐敗していた。

 金と酒に溺れ、裏取引で海賊たちに港の機能すら譲り渡した者たち。

 それを是正するよりも全軍を撤退させる方が早かった。

 軍にとっては黒歴史であり、エリオットにとっては「苦い」敗北だった。

 ルソーはしばし言葉を失ったように口を開けたまま、ただ呆然とフェルナンドを見つめた。

「……後で詳しく聞かせろ」

 やっとのことで絞り出したのは、その一言だった。怒りでも驚きでもない、純粋な困惑──信じがたい現実を、今受け止めようとする将の顔だった。

 エリオットは視線をそらすように窓の方へ顔を向け、小さく呟く。

「サン・マロ……以前より荒んでいるとは聞いていたが……そうか。エドガー海賊団が、そこを拠点にしていたか」

 記憶のどこかをたぐるように、苦く唇を噛む。その背後でフェルナンドは静かに付け加えた。

「うちだけじゃない。他の海賊団も、サン・マロに集められていたよ」

 その言い方に、ほんのわずかだが棘のようなものが含まれていた。それはまるで、「自発的な寄港ではなかった」とでも言いたげな口ぶりだった。

「ならば──今すぐ討伐隊を、サン・マロへ向かわせねば」

 低いながらも力を帯びた声で、イザベルが進言する。しかし、エリオットはそれに首を振った。

「……いや。討伐の前に調査だ」

 即座に断ち切るように言い、背筋を正す。

「後で参謀たちに命じよう。極秘で調査隊を編成させる。……慎重に、速やかにな」

 言葉の端々に、指揮官としての厳格さが戻っていた。誰一人として、その方針に異を唱える者はいなかった。そしてエリオットはもう一度、窓の外を一瞥し、かすかに苦笑を浮かべた。

「……そろそろ、この辺にしとくか」

 エリオットは背後を振り返りながら、柔らかくも威厳ある声で言った。

「君たち、朝からご苦労だった。今は宿舎でゆっくり休みたまえ」

 その一言で場の空気がようやく緩んだ。誰もが背に疲労を滲ませながら、各々の出口へと向かっていく。緊張と静寂に支配された、長い密室の会話はようやく幕を閉じた。


 その日のうちに、サン・マロへ向けて極秘の調査隊が編成された。

 第二部隊の一部隊に加え、地上戦を得意とする選抜兵たちが早馬で現地に到着する。が、港に海賊船の姿はなく、海は静かに潮騒を返すばかりだった。

「……妙だな、影も形もない」

「エドガー海賊団の旗印も、他の連中もいない……港だけ見れば、ただの漁村だ」

 隊員たちは分散し、市街に入り込んで聞き込みを始める。

 何軒かの宿や飲食店を巡り、漁師や商人にも話を訊いたが──

「つい昨日まではいたんです、確かに。でも今朝にはもう、船もろとも姿を消してて……」

「いえ、どこに向かったのかまでは……恐ろしくて、誰も訊けやしませんよ」

 ひとまず調査隊は、「海賊団はすでに出立した」という事実を本部に報告することで方針を決め、撤収の準備を始めた。だが──

「念のため、もう一人に聞いておくか」

 調査員の一人が、街外れの小さな屋台で働く男に声をかけた。

 古びた帽子を深くかぶった長身の男だったが、表情はどこか硬く目だけが泳いでいる。

「……エドガー海賊団、ですかい」

 男は一瞬、戸惑う素振りを見せた後、おどおどと告げた。

「ええ、あいつらは……怖い連中ですよ。ここが根城だったなんて、ほんの表向きでしてね、実はもっと別の──べ、別の……どこかに、本当の本拠地があるって噂です。あっしは知りませんが! そ、それだけは!」

「そうか」

 調査員は頷き、手帳に走り書きしながら帽子に手をやった。

「協力に感謝する。……ではな」

 隊は撤収した。通りが再び静まり返った。

 男はキョロキョロと見渡し、誰もいないのを確認するとため息をつきながら帽子を外す。

 その下から現れたのは、燃えるような赤髪だった。

「……いやー、びびった」

 ジャスパーは軽く肩をすくめると、路地を抜けて質素な二階建ての宿に足を運ぶ。

 看板には「ラ・プティット・トゥル」と描かれていた。

 二階の来賓室──戸を開けると、海に面したバルコニーで誰かが紅茶を飲んでいた。

「戻りましたよ、船長殿」

 憎たらしくも軽やかな声で言うジャスパーに、椅子を揺らしながら男が振り向く。

 エドガー・ロジャース。あの堂々たる大海賊が、微笑をたたえて紅茶を傾けていた。



 窓の外では、遠くから潮騒が聞こえていた。

 マクシミリアン・ブーケ隊宿舎、薄暗い自室の片隅でソフィーは膝を抱えるようにして椅子に座っていた。手の中には、アニータから託されたもう一冊の小さな日記帳。背表紙の革は擦れて、幾度も指で撫でられた跡がある。ページをめくると、最初の一文が目に飛び込んできた。

 消えかけた小さな字でこう書かれていた。


「一五二二期生による夏期航海実習 乗船記録/ベルナルド・シルバ」

 

 風が狂っていた。帆が裂け、舵が利かず、天蓋は鉛色に沈み、世界のどこにも出口がなかった。


 例年の航海実習は、春の沿岸訓練。穏やかな航海のはずだった。

 だがこの七月初旬、我々の乗った実習艦《マルタン号》は突如発生した嵐に巻き込まれ、航路を外れ、通信を絶った。風速は想定を遥かに上回り、測深も不能。教官は死亡し、指揮権が宙に浮いた。


 艦の全権を握ったのは一人の士官候補生、マクシミリアン・ブーケだった。

 彼は何も語らなかった。だが彼の命令には、誰もが従った。

 それは強さではなかった。理屈でもなかった。ただ、彼が率先していたからだ。


 操帆索のもつれを解き、浸水の進む艦底を這い回り、負傷者を引き上げ、羅針盤の代わりに星の欠片すら探していた。夜明けを越え、二昼夜にわたる漂流の末、我々はついに「セルティック・シェルフ」の外縁へ流れついた。

 そのとき、艦底に亀裂が走った。浮力を保つためには、隔壁を閉じるしかなかった。

 彼は決断した。隔壁を閉じた。そこに、数名の仲間が取り残されていたと知りながら。

 その瞬間、我々は生還した。その瞬間、彼は沈んだ。

 生還者の中に、彼を責める者はいなかった。責める言葉すら、口にする余裕がなかったのかもしれない。

 だが、誰もが知っていた。あの決断がなければ、艦は沈んでいたことを。

 そして、彼が誰よりも先に、その重さを引き受けていたことを。

 

 救助された港で、彼は何も語らなかった。

 ただ一人、海を見ていた。風もなく、波も穏やかな昼だった。

 あれほどの嵐があったことすら、嘘のようだった。

 だが、あの日以降、彼の目は変わった。

 冷静さはそのままに、何かが凍りついたようだった。

 上層部はじめ誰もが彼を讃えた。

「勇敢な判断」「若き指揮者」「未来の逸材」

 ——だが、そんな言葉が彼に届くはずもなかった。

 

 俺は書いておく。

 あの夜、彼が犠牲にしたものは命ではない。

 選択肢だ。二度と、全員を救おうとする選択肢を、彼は手放した。

 だが俺は、彼が誰かを救えることも知っている。

 だからこそ、俺は願っている。

 いつか、彼の隣に——再び、誰かを救う選択肢を差し出す者が現れることを。

 過去を背負ったまま、なお選ぶことのできる未来を彼が見つけられることを。


 この記録が、いつか彼自身の手に届くことはないだろう。

 だが俺は信じている。

 あの夜、俺たちを生かした彼が、また誰かを……

 

 ——生かす未来を、選べるようになることを。


 それに、たとえ俺の声が届かなくても誰かがいつか彼を止めてくれると信じている。

 あの夜、命を救うことを選んだ彼がまた命を選ぶ未来を、俺は願っている。



 ページを閉じる。静寂が、部屋を包んでいた。蝋燭の火は、読み始めたときよりも細くなり、風もないのに小さく揺れていた。

 ソフィーは目を伏せる。何も言葉にできなかった。

 ただ、胸の奥に海鳴りのような音が残っている。

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