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第八章⑥ 対面

 室内に残ったのは、エリオット、ルソー、イザベル。そしてマクシム、ソフィー、ベルリオーズ、フェルナンド。加えて、無言のまま壁際に立つアルフォンス。

 やがて扉が閉ざされ、石造りの部屋には、先ほどまでの喧噪が嘘のような静寂が落ちる。

 重々しく閉じられた扉を背に、エリオット・ド・レオパードはその場に残った四人を順に見渡した。

 その目はあくまで穏やかで、底知れぬ深みと冷静な観察眼を湛えている。部屋の空気が、先ほどとはまるで別の密度を帯び始めていた。

 まず、エリオットの視線がマクシムに向けられる。

「久しいね、マクシミリアン・ブーケ中尉」

 その声音には、懐かしさと労いが滲んでいた。

「君の活躍は数々の報告で耳にしている。今回の件で、受けていた謹慎処分については私の権限で解かせてもらおう」

 立ち姿のまま一礼し、マクシムは短く答えた。

「……痛み入ります」

 エリオットは軽く頷くと、次に隣の女性へと視線を移す。

「ソフィー・ド・ルノアール殿、初めまして」

 丁寧に名乗ったあと、彼女の経歴を簡潔に辿るように言葉を続ける。

「貴殿のことも、幾度となく報告で知っている。戦闘の最中に姿を消し、海賊船に留まり、そして無事に帰還したこと。……さらには、そこの彼の治療にまで関わっていたらしいね」

 ちらりとソフィーの隣に立つフェルナンドへ目を向けたあとで、柔らかく微笑む。

「聞きたいことは山ほどあるが……それはまた機会があれば、にしておこう」

 ソフィーは静かにうなずいた。

「恐れ入ります」

 その機会とやらはなかなか来ないと思うが。内心で呟きながらも、表情は微塵も揺るがない。

 そしてエリオットの視線が最後に向いたのは、この場にいてなお優雅な海賊だった。

「……銀の猫、フェルナンド殿」

 一瞬、空気が凍る。

「っ……殿付けかよ」

 小さく吐き捨てたのはルソー准将だったが、誰も彼をたしなめることはしない。

 銀の猫。その名がこの場で発せられたことの意味に、場の全員が敏感に反応していた。

 エリオットは微笑を保ったまま改めて言葉を継ぐ。

「あなたの噂はかねがね聞いております。エドガー・ロジャースの右腕だとか。各地で目撃されてきた華麗な逃走劇、そして詩のような殺し文句の数々。なかなか愉快な読み物でしたよ」

 さらりとした口調で皮肉を交えながら、彼は少しだけ語気を強めた。

「……ここにいるベルリオーズ・モンレザールとともに、私はあなたに尋ねたいことが山ほどある。どうか、そのつもりでいてください」

 視線を向けられたベルリオーズは目に見えて肩をすくめる。対するフェルナンドは笑みを崩さぬまま一歩だけ進み出た。

「ボクにお話できることはすべてお話しするつもりです。……どうぞ、よろしく」

 わずかな間を置いて、エリオットが次なる一言を放った。

「ベルリオーズの報告によれば、エドガー・ロジャースは『戦争を仕掛けるつもりだ』と。……これは真実か?」

 投げかけられた問いに、フェルナンドは一瞬たりとも迷わなかった。

「はい。その通りです」

 その即答に室内の空気が一段階、冷たくなる。マクシムは思わずフェルナンドを振り向いた。その目には無言の問いがあった。

 ——おい、まだそんな情報を隠していたのか?

 だが、フェルナンドはその視線を受けても飄々とした微笑みを崩さない。むしろ、最初からこうなることを織り込み済みだったような芝居がかった、猫のような瞳をしていた。

 鋭く切り込むようにルソーが問うた。

「奴の目的は?」

 問われたフェルナンドは薄く微笑んだまま、軽く瞬きをする。その仕草は芝居がかったものというよりも、一種の間。言葉を選ぶ前の静けさだった。

 ソフィーは知っていた。この問いへの答えを。数日前、あの小さな牢獄でフェルナンドがふと漏らした言葉を。フェルナンドは前を向いたまま語り出す。

「自由の海を創ること……だそうです。支配も、国境も、階級もなく、船乗りたちが自らの意志で航路を決める。そんな海を。理想の話ですよ。まるで絵空事だ」

 口ぶりは軽い。だが、その裏に滲むのは冷めた現実感だった。

 彼が語る理想の響きには、どこか他人事のような距離がある。まるでそれが破滅を招くものであると最初から知っている者のような。

 「……自由の海、ね」と誰かが小さく繰り返した。それがルソーだったか、あるいはイザベルだったかは誰の耳にも明瞭ではなかった。

 ソフィーはフェルナンドの横顔を見つめながら、心のどこかで思った。

 あのときも同じようなことを言った。まるで、誰かに遺された台詞のように。

 まるで、それが叶うはずのない夢であると知っていながら。

 フェルナンドの口から出た「自由の海」という言葉は、あまりにも整いすぎていた。だが、その声の奥に潜むものをソフィーは聞き逃さなかった。嘘じゃない。だが、真実のすべてではない。

 フェルナンドは語る。

「確かに、旗印としては理想的です。自由は誰にとっても甘い響きですから。貴族も王も、海軍も民も関係ない。船と帆と、自由意志だけで動く。そんな海を、かつて彼は夢見ていました」

 彼の視線がふと遠くに逸れる。どこか、過去の幻を見ているようだった。

「でも、今のあの人は……違う。目的のために手段を選ばないどころか、手段そのものに溺れている。復讐のための戦争か、戦争のための復讐か。もう誰にも分からない」

 沈黙が落ちた。そして、その場にいた誰もがそれぞれのやり方で彼の言葉を咀嚼していた。

 ソフィーだけは彼の言葉をそのまま受け止めていた。それは既に聞いたことだ。あのとき、あの牢獄で。フェルナンドは、やはりそのときと同じ表情をしていた。

 誰かの夢を信じたいと願いながら、その夢の終焉を知っている者の表情だった。

 誰もが、フェルナンドの言葉の余韻に思考を巡らせていたその時——。

 エリオットがぽつりと呟いた。

「旗、といえば」

 その一言にマクシムが顔を上げる。エリオットの眼差しは誰にも向けられていない。遥か遠く、記憶の海を見ているようだった。

「エドガー・ロジャースの艦に掲げられた、あの海賊旗。見たことがある者は少ないが……噂だけは広がっている」

 そこまで言って、エリオットはちらりとフェルナンドへ視線を向けた。

「……あれに、意味があるのだろう?」

 問われたフェルナンドはわずかに眉を寄せ、やがて観念したように頷いた。

「……ええ。あの旗は、象徴です。エドガーという男の思想そのものが刻まれています」

 黒い地、髑髏、三本の剣。その意味を、フェルナンドは丁寧に語っていく。

「黒地は、降伏を促す古来の合図です。『白旗を上げれば命は助かる』——その逆を行くのが黒旗。ですが、エドガーのそれは単なる脅しじゃない。中央の髑髏と三本の剣こそが本質です」

 場が息を呑んだように静まる中、彼は淡々と続けた。

「三本の剣は、それぞれ『他者を斬る剣』『自らを守る剣』——そして、『支配の剣』。彼にとっての戦いとは、手段であると同時に目的でもある。あの旗の下では命を賭けた暴力が秩序そのものです。殺すことで従わせ、従わせることで平穏を保つ」

 ルソーが鼻を鳴らす。

「随分と冷たい正義だな」

 フェルナンドは応じない。ただ、かすかに視線を落とした。

 ソフィーだけは脳裏に旗を偽装した時を思い出していた。同じ旗を見ても、掲げる者によって意味は変わる。だが、今それを掲げているのは誰よりも冷酷な男——エドガー・ロジャースだった。

「……なら、これで奴の本音は自由ではないとわかったな」

 エリオットの声が低く、鋭く場を裂いた。椅子の背にもたれたままの姿勢でありながら、声には圧倒的な威圧があった。誰も言葉を挟めず、視線が自然と彼に集まる。

「支配。——この言葉こそ、どんな財宝よりエドガー・ロジャースによく似合う。……違うか?」

 フェルナンドがわずかに身じろぎする。口を開きかけたが、言葉にならなかった。

「戦友の弔い合戦と謳って、他の海賊団を煽る。共闘という名目で彼らをひとつの旗の下に従え、自分の言葉で攻撃の号令をかけさせる」

 エリオットは机の上の一枚の地図に指を滑らせるようにしながら冷ややかに続けた。

「これ以上にないゲームだな。理想も忠義も、復讐心すら利用して、最終的に残るのは己の意志ひとつ。支配者としての立ち位置から、すべてを動かすつもりだった……いや、最初からそうと決めていた」

 彼の目が、真正面からフェルナンドを貫いた。

「この筋書きに、自由意志なんてものは最初から存在しない。お前もそれくらいわかっているだろう、銀の猫」

 その語尾に、冷徹な皮肉すら滲んでいた。

 フェルナンドは息を呑み、何も言い返せなかった。否定も、肯定も。彼の眉の奥で感情が揺れたが、それを見せることはなかった。ただ静かに視線を落とした。

 マクシムはフェルナンドをチラリと見た。その瞳に宿るのは驚きというよりも、苛立ちだった。短い視線のやりとりの中で、フェルナンドは視線を逸らした。この優雅な仮面の奥に、初めて「敗北」が滲んだように見えた。マクシムは言葉を飲み込んだが、表情はどこか険しいままだった。

 一方でソフィーは、エドガーの海賊旗を思い出していた。

 黒地の布に浮かぶ三本の剣。

 あのときフェルナンドが言った言葉を、今エリオットが別の角度からなぞっていた。

 自由を掲げる者が実はもっとも支配に飢えていたという事実に、ソフィーの背筋に冷たいものが這い上がった。

 あのとき、フェルナンドは確かに言った。“支配”だと。そして、彼女はもう一つ思い知らされていた。

 それを、すべて見抜いていた人物がいることを。

 エリオット・ド・レオパード。

 この国の頂点に立つ男が今まさにフェルナンドを、いや——エドガーの思想そのものを論破していた。

 その洞察は圧巻だった。感情でも理想でもなく、冷静な分析で物事の本質を突きつけてくる。

 まるで、何十手も先を読む棋士のようだった。

 この人は……見えている。ずっと前から、ずっと深く。

 ソフィーは知らず、息を止めていた。

 この場にいる誰よりも穏やかに見えるその大元帥が実は誰よりも鋭く、遠くを見通していることにただ圧倒された。

 エリオットの言葉に圧されていた思考が、ふとした拍子に別の記憶を引き寄せた。ソフィーは以前シャルルが何気なく話していたことを思い出す。

「ゼフィランサスを討った当時の参謀官は、今の我がフランス海軍の大元帥殿さ。彼は、まさに歴史を作った男」と。

 大海賊ゼフィランサス。——かつて、ヨーロッパ中に戦争を仕掛けた伝説の海賊。

 その名を打ち消した張本人が、まさにいま目の前に座っている。

 ……この人だったんだ。

 改めてそう思った瞬間、ソフィーの背筋を何かが駆け上がった。驚きと、畏怖と、ほんの少しの恐れ。

 理知的な言葉の裏に、戦場を知る人間の凄みがある。

 この人はただの海軍の象徴ではない。

 ——英雄だ。

 そう思うと、先ほどまでの穏やかで威厳ある雰囲気がまるで全く別のものに見えてくる。だが、胸の奥で膨らんだ問いはただの畏れでは終わらなかった。尊敬でもない。それだけでは到底届かない、言葉にならない違和感。

 ——なぜ……この人は、時折悲しい目をするのだろうか?

 それは初対面のときからずっと引っかかっていた。丁寧で、柔和で、威厳がある。

 けれどその目の奥には、ふとした瞬間に深い悲しみが影を落とす。

 まるで、自分の過ちを誰にも言えずに抱え続ける人のような——。

 大海賊ゼフィランサスを討った男。

 ソフィーの中で点と点が線になりかけていた。

 過去の栄光を纏う英雄。その名にふさわしいカリスマ。

 けれど彼が歩いてきた道は、称賛だけでは語れないのではないか。

 その思考に触れた途端、心のどこかがざわついた。答えの出ない問いが静かに彼女の胸に根を下ろしていく。だから彼女は静かに呼吸を整え、エリオットを見つめた。

 この男は自由でも支配でもなく——「責任」で動いている。

 そう思えてならなかった。

「……おいおい」

 ルソーが低くうなり声のように唸った。

「なんてこった。復讐で集めた軍が、気づいたら奴の王国になってたってわけか。……戦争じゃねぇ、乗っ取りだな、こりゃ」

 肩肘をついていたイザベルが姿勢を正した。

「やれやれ。自由の海賊が聞いて呆れる。でも、いかにもエドガーらしい。カリスマってのは、他人の理想を自分の手で叶えさせるもんだ」

 ベルリオーズは額に手を当てて呻いたように笑った。

「……あは……は、いやぁ……これは傑作……。総大将がこれだと、海賊団の士気はどこまで持つやら……」

 誰も彼もが冷や汗まじりに息を吐くしかなかった。だが、その中でただ一人、エリオットだけが何の感情も浮かべていなかった。

 ——静謐。

 その表情には、怒りでも軽蔑でもなく、ただ深い哀しみのようなものが滲んでいた。

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