第八章⑤ マクシミリアン隊
それから何度目かの朝、ブレスト司令部は未明から騒がしかった。
日の出とともに、旗が掲げられ、砲声が一発だけ遠くに鳴った。
城門の外に広がる前庭には、所狭しと海軍の各部隊が整列している。
青と白の制服が規則正しく並び、光沢を帯びた礼装の肩章が朝日を弾いていた。
マクシミリアン・ブーケ隊も、その整列の一角に加わっていた。
隊長のマクシムは微動だにせず隊の先頭に立ち、後列にはシャルルやグウェナエル、リラの姿も見える。
ほどなくして、城門が重々しく開いた。地鳴りのような蹄音。馬車と、軍馬に乗った数騎の護衛。その中心に、威厳ある姿が現れた。
海軍大元帥エリオット・ド・レオパード。制服の紺は濃く、飾り気のない白手袋をはめたその手が軽く上がると、全隊が一斉に敬礼した。
彼の背後には、ユルリッシュ・ルソー隊長をはじめ参謀本部の精鋭たちも並んでいた。そして、エリオットが壇上に立つと朝の空気に沈黙が満ちた。彼は一拍の間を置き、整然と隊を見渡した。重々しい沈黙の中で、口を開いた。
「——諸君。今日、我々はここブレストに集った」
その声音は低く、張りのある声だった。戦場を知る者の声だ。
「まずは、日々海軍の任務に従事してくれている各部隊の働きに、心より感謝を述べたい。遠方より駆けつけた者も多いだろう。諸君の規律と忠誠に、海軍大元帥として最大の敬意を表する」
わずかな風が吹いた。旗が鳴る。誰一人として視線を逸らさない。
「さて……フランス海軍は、いま重大な局面に差し掛かっている」
エリオットは静かに重々しく告げる。
「ブレストに来たのは視察ではない。総司令部、参謀本部の一部。すなわち、我々本部勢力はこの地にしばらく滞在することとなった。これは平時の出張ではない。我々自身、出陣の覚悟で臨んでいる」
ざわめきはなかった。ただ、わずかな呼吸が緊張で詰まる音がした。
「敵は、エドガー・ロジャースを筆頭とした海賊連合だ」
その名を聞いて、何人かの表情が硬くなる。マクシムは表情一つ変えなかった。
「すでに数度にわたる諜報により、彼らが我々に対して全面戦争を宣言する意志を持っていることが明らかとなった。これは些細な衝突ではない。奇襲でもない。かつてない規模での正面戦争だ」
一瞬、空気がひやりと凍るような感覚が走った。それでもエリオットは声を強めず、あくまで冷静に続ける。
「敵の動き、時期、規模……いまだ定かではない。しかし、すでに彼らが複数の航路と軍港を偵察している形跡がある。諸君、我々は今、嵐の前に立っている。そしてこの嵐は、確実に訪れる」
彼は右手を掲げるようにして、続けた。
「よって本日付で、総司令部・参謀本部・そしてブレスト司令部・参謀部を中心にした連合作戦チームを編成する。訓練・防衛・航路確保・兵站の再編成に至るまで、あらゆる想定をもって迎撃体制を整える」
唾を飲む音ひとつさえ、聞こえるほどの静寂だった。
「いま、我々は待機の立場にある。しかし——」
彼の声が一段低く、力を込める。
「準備だけは、決して怠るな」
言葉が落ちると同時に風が吹き抜け、隊員たちの外套が一斉に揺れた。
その瞬間、エリオットは再び全軍を見渡した。老いも若きも、名の知れた士官も無名の新兵も、その双眸の中にあったのは等しく戦う覚悟を問うようなまなざしだった。
ぴんと張り詰めた空気のなか、大元帥の演説が終わった瞬間、再び整列の列が一斉に敬礼を返した。だがその緊張が完全に解かれる前に、もう一つの声が堂々と前に出る。
ブレストの地に最も深く根を張る部隊の長、第一艦艇部隊隊長のユルリッシュ・ルソー准将が、まるで心臓を打ち鳴らす太鼓のように地響きすら伴うような大音声で叫んだ。
「よく聞け!」
その一声に、場にいた全員がびくりと背筋を伸ばす。血が滾るような声音だった。
「我々、第一艦艇部隊もこの防衛戦において、最前線に立つことが決まった! お上の命令を待っているだけでは、民は守れん! 海賊どもは、こちらの背中を見て育った荒くれ者だ。ならば我々が、その背中を正すまでよ!」
厳格に真っ直ぐに続ける。
「今は他国と戦っている場合ではない。我らが剣を向けるべき敵はただ一つ。民の暮らしを、国の静けさを脅かす脅威だ! この戦いは討伐ではない。防衛だ!」
言葉のひとつひとつが打ちつけられるたびに、兵たちの眼光が燃え上がってゆく。
「心してかかれ! これは国の命運を分かつ、名誉ある戦いとなる!」
その瞬間、整列していた将兵たちの列から、自然と拳が握られ、無言のうちに覚悟が生まれていった。
熱を帯びた声が静まり、再び厳粛な沈黙が戻った広場に、一歩、凛然たる足取りが進み出る。
副司令官——イザベル・ボナパルトだ。絹のような黒衣の軍装が、ひと際目を引いた。肩章には副司令官の紋章。濃紺の外套の下に隠された威厳と冷徹、それでいてどこか情を感じさせるその眼差しが全ての視線を無言で捉えて離さなかった。
「全将兵に告げます」
彼女の声は鋭くも澄んでいた。力強さよりも秩序を求める声音だった。
「このたび、我々の海軍はかつてない脅威に直面しています。指導部の判断により、全司令部および参謀本部の主要機関を、当面、ブレストに集約する運びとなりました」
背筋を伸ばした兵たちの列に、冷静な緊張が走る。
「この配置は戦いに臨む準備であり、即ち覚悟の証です。各部隊は各自、定められた宿舎および基地に戻り、待機命令に従ってください。次の合図まで、一切の軽挙妄動を禁じます。繰り返します、これは待機です。決して、油断でも安息でもない」
言い終わると同時に彼女は片腕を高く掲げた。
「以上をもって、司令官到着に関する全体集会を終了とします。解散!」
それは号令だった。隊列が一斉に動く。
将校は部下に合図を送り、兵は隊列を保ったまま静かに歩き出す。広場を取り囲んでいた部隊たちが、徐々に散り、緊張と喧騒の余韻を残して解散していった。重鎮たち、総司令部と参謀本部の高官らはすぐさま別命に従い、要塞の奥深くにある作戦室へと向かっていく。重厚な石造りの扉が、その背に閉ざされていくのが見えた。
やがて広場には、ひとつの隊だけが残された。マクシミリアン・ブーケ隊。整列を解かず、誰ひとり口を開かず、厳然たる気配を残していた。司令官たちの背を風のなかじっと見送っている。だが、静けさのなかでぽつりと漏れた言葉がその空気に微かな綻びを与えた。
「すっげぇ迫力だったな……」
誰よりも早く声を上げたのはジョルジュだった。声をひそめていたつもりが、想像以上に響いたらしく数名が思わず吹き出しそうになった。
「……だよね。あの大元帥、やっぱ本物だわ。今にも戦場に飛び込むみたいな顔してた」
隣で頷いたのはメリッサ。彼女もまた気圧されていたらしい。
その一言に隊列の空気がゆるやかに和らいだ。誰もが言葉にせずとも、同じ印象を抱いていたのだ。目の前を通ったエリオット・ド・レオパードの眼差し、声、立ち姿。すべてがただの演説ではなく、戦を知る者の重みに満ちていた。
「ボナパルト副司令官も、あんなに言葉に棘ある人だったっけ……」
後列からロザリーがぽつりと呟いた。緊張のあまり手がこわばっていたのか指先を揉んでいる。
「……ただの美人じゃなかったね、あれは」
サミュエルが苦笑混じりに続けると、後ろで誰かのくすっと笑い声が洩れた。
「それにしても……ルソー准将、熱かったな。声が胸に響いてきた」
グウェナエルがそう言って僅かに唇を緩めた。彼は士官学校時代にルソーの特別講義を受けた経験がある。あの熱血ぶりに当時は呆れていたが、今は違った。
「あの人の言葉、妙に本気にさせられるよな。民の生活を守るって、まっすぐ言い切るの、なんか……ぐっとくる」
ダヴィットが呟くと、また静かに頷く気配が隊列のあちこちに広がった。
マクシムは一歩前に出たまま何も言わなかった。背筋を伸ばし、広場を見渡すようにして風の音だけを聞いている。何かを測っているようでもあった。
そして、隊のなかでただひとり、ソフィーだけが微かに眉を寄せていた。彼女は黙って、さきほどのエリオット、ルソー、イザベルの姿を思い返していた。けれど、隊員たちの反応には何も言わなかった。むしろ、それぞれが何かを感じたように思えたからだ。だからこそ、そのまま沈黙の中で風を聴いた。
もうすぐ、自分たちにも何かが求められる。そういう気配だけがじりじりと地平から迫ってきている気がした。やがてマクシムが視線を前へ向けたまま口を開いた。
「戻りましょう。ひとまず、隊で共有すべきこともあります」
その短い一言に隊員たちはすぐに頷いた。マクシミリアン・ブーケ隊の面々は各々の思索を胸に秘めたまま、言葉少なに隊列を整え直す。朝の空気はすでに昼の熱を含みはじめていたが、広場に残る隊は彼ら一隊のみだった。
「はっ。ブレスト港へ向かいますか」
ダヴィットが確認するように言ってマクシムが小さく頷いた、そのときだった。
「——失礼する!」
鋭く、礼を欠かない声が広場に響いた。振り向けば、白銀のボタンを光らせた男が司令部の建物から小走りに現れたところだった。
「……アルフォンス・シャトレ殿!」
シャルルが名を呼ぶと伝令係は手早く敬礼を返し、そのままこちらへ駆けてくる。整えられた制服、やや息を切らせながらも整った所作。普段、お目にかかれない人物に、隊内に静かな緊張が走る。
アルフォンスはマクシムの前で足を止めると、少しだけ声を潜めて言った。
「大元帥閣下より、ブーケ隊への伝達事項があります。至急、お耳をお貸しください」
その言葉にマクシムの眼差しが鋭くなる。ソフィーもまた無意識に口元を引き結んだ。広場に吹く風は次の局面の到来を告げるように、隊の上をひゅう、とかすめていった。
アルフォンスは一呼吸置くと、要件を端的に述べた。
「本日、この後に執り行われる作戦会議にブーケ隊の諸君にも出席を願いたい、とのことです」
隊員たちの視線が一斉に彼へ注がれる。アルフォンスはその重圧に臆することなく、声を続けた。
「理由は明白です。貴殿らは過去、フランソワ海賊団とエドガー・ロジャースの一派と直接交戦し、実績を挙げている。そして現在、我々が拘束しているフェルナンドも諸君が確保・保護したものと承知しています」
ソフィーの表情がぴくりと動いた。
「従って、その経緯と知見を必要とする場面が出てくるやもしれぬ。とはいえ、座して傍観することになる可能性もある、とのこと。総司令部・参謀本部の意向により、後方に席を用意するとの通達です」
マクシムはしばし黙し、思案の色を浮かべた。やがて、ゆっくりと顎を引く。
「承知致しました。フェルナンドも同行させます」
「その旨、然るべき部門には既に伝えてあります。解錠手続きも進めさせますので、貴殿らはこのままブレスト城の第二会議室までお越しください」
アルフォンスは一歩下がると、姿勢を正して一礼した。
「以上、失礼いたしました」
そのまま背を向け、軽やかな足取りで司令部の建物へと戻っていく。マクシムは静かに息を吐くと、視線を自分の隊へ向けた。
「……聞いた通りです。状況が動き出しました。ここから先は、我々も一枚、地図の上に乗ることになるでしょう」
その言葉に、誰一人として異を唱える者はいなかった。
ブレスト城・第二会議室。
長方形の重厚なテーブルを囲むように、参謀本部と司令部の上層部、各艦艇部隊の隊長格がずらりと顔を揃えていた。高窓から差す陽の光さえ、重々しい空気を払いきれぬまま天井に鈍く反射していた。
部屋の後方、壁際に設けられた椅子列にマクシミリアン・ブーケ隊の一同は整列していた。その隣には両手に枷をかけられたままのフェルナンドの姿もある。だが彼の顔にはどこか落ち着いた余裕があり、まるで芝居の幕間に立つ観客のように静かだった。
「……では、始めよう」
そう口火を切ったのは、会議の主導を担うエリオット・ド・レオパード大元帥だった。書類の束を前に置き、顔を上げる。
「今回の件、我々は敵の出方を完全に掌握しているわけではない。だが、いずれ来る嵐に備え、布陣を敷いておく必要がある」
会議室がしんと静まり返った。
「まず、砲列の配置から確認する。湾口の外郭防衛線には既存の砲台に加え、三門の増設を行う。第五砲兵部隊には速やかに工兵を動員し、三日以内に仮設台座の準備を完了させてほしい」
「はっ」
砲兵部門の責任者が即座に立ち上がって敬礼する。
「増設される三門のうち、二門は十六ポンド、残る一門は二十四ポンドの長距離砲とする。湾口の北側の崖上に設置する予定だ。監視塔からの視界を損なわぬよう、高度と砲角の調整は慎重に」
「了承しました。すぐに地形確認を進めます」
「よろしい。次に、後方支援の拠点についてだ。衛生班および医務室は、旧士官寮を臨時施設として活用する。傷病者の初期収容はそこに集約するよう徹底されたし。前線からの搬送経路も、必ず屋内回廊を通すこと。雨風の影響を避けるためだ」
医務関係の担当官が頷きながら記録を取る。
「また、兵站および補給物資の調達について。火薬、銃弾、食糧、繕用品を含めた備品は、ラド・ド・ブレストを経由して陸路で搬送する。これに伴い、隊商護衛として第二機動部隊を半数配置する。必要であれば、憲兵隊の手も借りてよい」
配下の将校たちは淡々と指示を記録しながら動きを確認し合う。軍の中枢を支える者たちの息遣いは重く、鋭かった。
「ブレストの主港湾は閉鎖せず、通常通りの商船往来を続ける。だが、それはあくまで『戦火なき平時』を演出するための措置に過ぎん。敵に『備えが浅い』と錯覚させ、こちらの防備を見誤らせる狙いだ」
エリオットの語調は静かだったが、その一言一言が全身を貫くような緊張を持っていた。
「その上で万が一、敵がこのブレスト湾に総力を挙げて来た場合。各部隊は即応態勢を取り、所定の配置にて迎撃を行う。標的はエドガー・ロジャース、その者を頂点とする海賊連合。我々は海軍であると同時に、今は壁だ。民の暮らしと背中に立つ、その覚悟を忘れぬように」
そのときだった。ユルリッシュ・ルソーが椅子を軋ませて立ち上がった。彼の声が会議室に響く。
「民の安寧を脅かす者、海を荒らし、国を試す者どもを決して許すわけにはいかん。各位、戦の覚悟をお忘れなく!」
その声は一瞬、会議室に火を灯したような熱をもたらした。ソフィーは黙っていたが、隣に座るマクシムが小さく呼吸を整えるのを感じ取った。彼もまた動き出す時を悟っていたのだろう。作戦会議はその後も続き、細部の調整と連絡体制、情報伝達網の確保に至るまで、次々と項目が進んでいった。各部隊の配置図が壁に張り出され、各司令官がそれを睨むように睨んだ。
やがて、イザベル・ボナパルト副司令官が椅子を引き、立ち上がった。
「以上をもちまして、第一段階の防衛体制案を確定とします。以降、各部署に速やかに通達を。手順を誤れば、それが命取りになる。皆の者、気を抜くなよ」
彼女の凛とした号令と共に、会議は一旦の終結を迎えるのだった。作戦会議が終わり、参集していた士官たちが次々と席を立つ中、エリオットが穏やかな口調で呼びかけます。
「……それから、マクシミリアン・ブーケ中尉、軍医ソフィー・ド・ルノアール。ベルリオーズ・モンレザール、そしてフェルナンドとやら。君たちには、もう少し残ってもらえるかな。個人的に話しておきたいことがある」
エリオットの声は柔らかく、だが明らかに指名された四人にとっては「逃れられないもの」を含んでいた。ざわつきながら退席していく他の将校たちがちらりと視線を向けるが、それ以上詮索しようとはしない。
「ダヴィット、皆さんを頼みます」
「任せてくださいよ、隊長」
ダヴィットの号令に合わせ、残りのマクシミリアン・ブーケ隊も退席して会議室を出て行った。イザベルとルソーも既に席を立ちかけていたが、エリオットの言葉に応じて静かに席に戻る。出入口付近では、伝令係のアルフォンス・シャトレが控えの姿勢を取り直し、見守るようにその場に留まる。




