第八章④ フェルナンド
【極秘通達】
発信元:王国海軍 総司令部
宛先:各地方司令部ならびに所属全指揮官 各位
発令日:十一月某日未明
分類:最優先・機密度A
一、
本通達は、国家の安寧および王国海軍の威信に深く関わる重大事案に基づくものであり、全指揮官は以下の命令を厳守されたい。
一、
本年十一月某日未明を以て、海軍大元帥エリオット・ド・レオパード閣下は、ブレスト司令部へ直ちに出立された。これに際し、同司令部において一時的な最高指揮を執られるものとする。
一、
よって、現時点でブレスト以外の地域に所在する各部隊は、指揮系統を乱すことなく速やかにブレスト司令部へ集結せよ。各部隊の行動は、命令の遅滞、指令不履行、独断専行を一切許さぬ。移動・配備の詳細については、各司令部に別途通達される補足命令に従うこと。
一、
大元帥より、全軍に向けて訓示が下される予定である。これは王国全土の軍事体制および今後の国防方針に直結する極めて重要なものであり、一指揮官といえども、聴聞を免れることはできない。
一、
なお、本通達に記された事案および大元帥の動向に関しては、上官の許可なく外部に漏洩することを堅く禁ずる。違反者は軍法に照らし、厳正なる処罰に処されるものと心得よ。
以上、直ちに行動に移されたい。
王国海軍 総司令部
軍務課長官 印
フェルナンドは鉄格子の奥に腰掛けていた。
いつも通りの優雅な所作で足を組み、壁に背を預けながらも視線だけは鋭く訪問者の姿を見定めていた。牢獄の湿気も、石の冷たさも、彼の気品を奪うことはできない。まるでここが持ち前の客間であるかのように、彼は静かに笑んだ。
鉄扉が開き、マクシミリアン・ブーケが入ってくる。手には封を解かれた軍用書簡。いかにも硬質な印章の跡が残るそれをマクシムは軽く振って見せた。
「どうやら海軍総司令部にも大きな動きが出ましたよ」
マクシムが一歩前へ進むと、フェルナンドは微かに眉を上げる。まるで劇の台詞でも聞くように、その言葉を味わってから緩やかに問い返した。
「……ふむ。君のその口ぶりからして、ただの昇進人事ではなさそうだ」
「ええ。大元帥が動いたそうです。わざわざ、ブレストまで」
マクシムの声は穏やかだが、底にある緊張は隠しようもない。フェルナンドはその様子にひときわ愉快そうな笑みを浮かべた。
「それはまた……なんとまあ。フランスの海を統べる英雄が自ら? やはり、我が主君の筆致には抗えなかったか。火は海軍の中心にまで届いたということですな」
「あなたの主君が撒いた火種なら、消すのも僕たちの役目です」
「おや、それは頼もしい。……それで? その通達には、何と?」
マクシムは無言のまま手紙を一枚差し出す。フェルナンドは受け取らず、ただ視線だけを走らせた。
「——国の存亡と平和に関わる重大な問題、ね」
呟いたその声はどこか詩人のそれのようだった。やがてフェルナンドは顔を上げる。冷たい石床に在りながらも、目だけは愉悦に光っていた。
「これはますます愉快になってきましたな、マクシミリアン殿」
フェルナンドは目を細め、渡された通達文を興味深げに眺めたまま、鉄格子越しのマクシムに声を投げる。
「本物だな。いよいよ、本当に始まるのか」
「そう見て間違いないでしょう。僕たちがもがいてきた数ヶ月間の清算が始まるんです」
マクシムの声は静かだったが、言葉の奥には自戒と憤りがあった。フェルナンドはそれを嗅ぎ取ったのか、微笑を浮かべながら肩を竦める。
「はてさて、清算ね。けれども……君はまだ、彼を知らなすぎるようだ」
「——なにもエドガーのことを言っているわけではありません」
淡々と返したマクシムに、フェルナンドの笑みが深くなる。牢獄という舞台に不釣り合いな気品が、その口元に再び灯った。
「やれやれ、光栄ですな。ボクはあの男の右腕だったはずなのに、今では大したこと……ないようだ」
「違うんですか?」
「否定はしませんよ。事実、ボクはあの男にとって『右腕』というより『劇場の支配人』のようなものでしてね。舞台裏の調整役。けれど、主役が暴れ始めたら、演目そのものがめちゃくちゃになる。脚本家も観客も、全員巻き添えだ」
フェルナンドの声音は冗談めいていたが、そこには明確な警告が込められていた。マクシムは沈黙し、ほんの一瞬だけ視線を落とす。そして静かに言った。
「……エドガー・ロジャースという男は、それほどまでに手のつけられない存在なのですね」
「ええ。彼はもはや、暴君ですよ。かつての部下たちにとっては、悪夢の再来……いや、それ以上かもしれない。秩序の仮面を剥ぎ取った本能的な支配者です」
牢の中でフェルナンドは組んだ足を崩し、少しだけ身体を乗り出した。まるでマクシムの懐に入り込むように。
「自由を謳う海賊が、己の意志で支配を選ぶ。それはつまり……彼に従う方が、生き延びられると知っているからだ。笑えますよね、マクシミリアン殿。自由を最も口にする者たちが、真っ先に自由を手放すのだから」
「なるほど。元船乗りの者にとっては、王政に似た記憶の再来です。絶対的な支配と、従属の記憶」
「そしてその記憶が今、あの人の名のもとに再び形を持ち始めている。それを恐れる人間が次々と屈していく様子は……なかなかに詩的ですよ?」
フェルナンドの言葉には芝居がかったリズムがあった。それを冷たく見下ろしながらマクシムは小さく首を横に振った。
「……詩的で済めばいいのですがね。民はいつだって、歴史の中で踏み躙られてきた。王も、暴君も、そして海賊も」
「けれど、だからこそ……君のような若者が立ち上がる。それが一番、皮肉で美しい」
フェルナンドは愉快そうに笑いながら鉄格子の奥でふわりと立ち上がる。
「さて。あなた方がボクを使うかどうかは知りませんが……気をつけたほうがいい。これからの戦い、海だけでは終わりません。陸も、空も、心も……全部が、彼の劇場になりますよ」
その時、面会室の扉が再び軋んだ音を立てて開いた。
「あっ……お邪魔して申し訳ありません」
マクシムが振り返ると、扉の向こうにはソフィーの姿があった。深い紺の軍服の裾を静かに揺らしながら、彼女は黙って一礼する。
「いいんですよ……お二人で。僕はこれで失礼する」
マクシムは席を立ち、最後に一度だけフェルナンドを見た。視線にはわずかな警戒と探るような光があったが、それ以上は何も言わず扉の奥へと消えていく。
静けさが戻った。鉄格子越しに立つフェルナンドと、面会席に腰掛けたソフィー。ふいに、牢の中の男が口を開く。
「……やっと、演目が終わった」
どこか虚ろな響きだった。今のフェルナンドには芝居じみた口調も笑みもなかった。
「フェルナンド」
ソフィーが穏やかに名を呼ぶ。
「ソフィー」
フェルナンドの声は低く、沈んでいた。束の間、沈黙が二人を包む。そして、フェルナンドはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、いつもの余裕も気障な仮面もなかった。ただ、真実だけが静かに沈んでいた。
「……今のエドガーは恐ろしい奴だ」
ソフィーは言葉を挟まなかった。
「あれはもう、ただの船長じゃない。復讐に取り憑かれた男だ。あの人は、もう何も見えていない。過去も未来も、仲間も、敵も……全部が燃え殻みたいに見えてるんだろう」
フェルナンドの声音には、かつてないほどの切実さがあった。それは懺悔にも近かった。
「戦うこと自体が好きだったあの人の本性が……今、どこまでも肥大している。支配することに快楽を覚え、殺すことにためらいがなくなって、誰にも止められなくなってる。いや、違うな。たぶん、もう自分でも止められないんだ。自分を」
ソフィーの表情は変わらない。ただ、その瞳だけが、じっとフェルナンドの内面を見据えていた。フェルナンドは壁に寄りかかりながら、どこか遠くを見るような目をした。
「……トルチュ島で見たあの人の姿を、君は覚えているか?」
「ええ。もちろん」
「あれは幻想だ。あの微笑みも、あの統率も、あの気品さえも……全部が幻想だったのかもしれない。ソフィー。あの人の中に、まだあの頃の彼が残っていると考えるなら……それは甘い」
ひと呼吸、彼は深く息を吐いた。
「いまやエドガー・ロジャースは、理性を失った獣だ。敵に回ることがどれだけ危険か、君にもわかってるだろう。だが、これは警告じゃない。忠告でもない。せめて、覚悟だけは決めておけ。あの男と、向き合うつもりなら」
しばしの沈黙の後、ソフィーが言った。
「…あの五人組と暮らしていた時、聞いたの。海賊にとって、何より大切なものは“船”だって」
言葉の端々に、どこか遠い記憶をなぞるような響きがあった。まっすぐな眼差しを牢の内に向け、彼女は続ける。
「金銀財宝は奪える。奪っても尽きる。でも……船は違う。船はただの乗り物じゃない。命を預ける道具で、誇りで、居場所で、全てだった。だから略奪のたびに命を賭けて守ってた。奪えばリスク、奪われれば終わり」
フェルナンドは静かにうなずいた。どこか諦観の色を帯びた瞳で、目の前の彼女を見据える。
「……そうだ。ボクたちは誇り高い略奪者……本来は、な」
皮肉のような笑みを浮かべて、彼は言葉を繋げた。
「でも、今の船長は違う。復讐と破壊、その二つしか見えていない。何が目的なのか、自分でもわかってないのかもしれない」
「フランソワの死、ね」
「ああ。あれがすべてを壊した。彼を英雄視していたエドガーにとって、あの死は呪いみたいなもんだった。信じるものが消えたとき、人は信じていた自分すら壊す。今の彼は、その瓦礫の上に立ってる。だから危ないんだ。海賊の魂を失った指揮官は、ただの災厄だ」
フェルナンドの声には、かつての仲間を語る男の哀しみが滲んでいた。ソフィーは黙ってその言葉を受け止めた。呼吸ひとつさえ静かに整えてから、ゆっくりと問いを落とす。
「フェルナンド、あなたはどっちの味方なの?」
その声は静かだったが、芯に火があった。この牢獄の奥に沈む水音よりも深く、フェルナンドの心に届いた。彼は、わずかに目を伏せた。しばし言葉を探すように唇が動き、それから真っ直ぐに彼女を見た。
「……ボクは君の味方でありたい。たとえ、船長に恩を仇で返す形になったとしても。命の恩人以上に、大切なものがあることを……ボクは知ってしまった」
揺らぎのない声だった。飾るでも偽るでもなく、演技に長けた男が演じることをやめた一瞬の告白だった。
ソフィーはその言葉に、すぐには応えなかった。だが瞳に宿る色がわずかに揺れた。そのまま彼女は別の問いを差し挟むことなく、視線をそっと落とした。だが、拒絶ではなかった。むしろ、その言葉を心のどこかに確かに刻んだ印のようだった。そして姿勢を正し、口を開く。
「でも……それでも、船を降りないのね。あなたは」
フェルナンドは一瞬だけ視線を逸らしたがすぐに戻し、彼女に微笑んだ。今度は仮面ではなかった。
「それが……猫のしぶとささ。逃げたくても、しがみついちまう」
「……」
「たぶん、ボクも幻想を見てるんだろうな。エドガーがどこかで正気に戻るんじゃないかって。そんな期待、もう捨てるべきなんだろうけど……」
フェルナンドは手枷の音を鳴らすように、無意識に鎖を引いた。
「幻想にすがるのは、滑稽かな?」
問いかけるように目を細めた彼に、ソフィーは小さく首を横に振った。
「人は、現実だけで立っていられるほど強くない。幻想は……せめて、立ち尽くすための影になる」
しばし視線が交差する。語らぬものがそこにあった。そして、ソフィーは立ち上がった。軍服の裾がわずかに揺れ、長椅子の脚が床を擦る。
「また来るわ。今度は、軍人じゃなくて……あなたと話をするために」
「それは光栄だね、マドモワゼル」
フェルナンドが言ったときには、彼女はすでに背を向けていた。
扉の向こうへと消えるその影は、彼の仮面では決して触れられない現実を帯びていた。
鉄格子の内側に残されたフェルナンドは天井を仰いだまま、ぽつりとつぶやいた。
「……エドガー。あいつがボクらをどこへ連れていくのか。そろそろ知る時かもしれないな」




