第八章③ 総司令部 続き
その沈黙を破ったのは、やはりエリオットだった。
「……洗いざらい話してくれて感謝するよ、ベルリオーズ」
エリオットの声音に、怒りや軽蔑は混ざっていなかった。ただ淡々と、目の前の男を海軍の一部として最後まで扱うように平坦な口調で続ける。
「もちろん、許したわけではないがね」
ベルリオーズは苦笑とも呼べぬゆがんだ笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。その隣でルソーが鋭く詰め寄る。
「おい。手紙には何か他に具体的なことは書いてなかったのか?」
答えは一拍、間があってから返ってきた。
「……いえ。特に……ありませんでした。戦争がしたい、とだけ」
ぎこちない言い回し。すでに白状しているとはいえ、まだ言いづらさが滲む。
「ただ、今日も……定期報告の写しを奴に流してしまったので……おそらく、それを参考に襲撃先を決めるかと……」
ベルリオーズが言い終えるや否や、ルソーのこめかみに青筋が走った。
「てめえ……くそ、許さねえからな……あの金ピカ腕輪野郎も」
吐き捨てるような低声。ルソーが拳を握りしめるその様子に、傍らのイザベルでさえ僅かに肩を竦める。だが、エリオットは冷静だった。
「……まあ、目星はつくさ」
彼の視線は窓の外に向いている。薄曇りの空に陽の光が鈍く差していた。
「おおかた、狙いはブレスト司令部だろうな。補給線、艦艇の集積、予備兵……選ぶならそこしかない」
その声に感情はなかったが、部屋の空気がぴんと張り詰めるのを誰もが肌で感じ取っていた。
そこで、アルフォンスの目が急に輝きを取り戻す。まるで冬の眠りから目覚めたかのように息を吹き返したのだ。
「なにより、ブレストにはマクシミリアン・ブーケ隊もいますしね!エドガーにとっては、彼らに復讐も果たせる──そんな格好の的ですよ!」
イザベルは即座に表情を引き締め、冷徹な声で指示を飛ばす。
「各司令部と参謀本部に直ちに通達を。警備も武力も、可能な限り最大限に高めるのよ」
ルソーが黙っているわけもなかった。低い声で重ねる。
「そうだな。ブレストにはオレの部隊もいる。少しは相手にとって脅威になるだろう」
沈黙が続く中、エリオットがゆっくりと振り返った。彼の瞳には揺るがぬ決意が宿っていた。
「よかろう。私もただちにブレストに向かう。指揮官として、部隊を率いて──導くために」
ルソーが眉をひそめ、少し驚いたように問いかける。
「おい、正気か?オレは大歓迎だが」
イザベルは静かに厳しい口調で切り込む。
「エリオット、本気? パリはどうするの? ここも指揮しなければならないはずよ」
エリオットは一瞬だけ目を伏せ、長く執務室の薄暗い灯りの下にいた自分を思い返す。
「なに、優秀な者たちがいる。彼らに任せておけば、パリは安泰だ」
顔を上げ、冷静だが確かな意志がこもった瞳で言葉を紡ぐ。
「今回の敵は我々に総攻撃を仕掛けると言っている。ならば、私も海軍の指揮官として、その矛先を正面から受け止めるのみだ」
エリオットは少しだけ拳を握り締める。
「情報の漏洩、監視の甘さ──すべては私の責任だ。長い間、執務室の奥深くに籠り過ぎたせいで敵に侮られたのだろう」
胸の奥でじんわりと込み上げる焦燥と後悔を抑えながらもその声は揺るがない。
「だが、それも今日で終わりだ。これからは前線に立ち、士気を鼓舞し、我らが信念を示そう」
エリオットの脳裏に、かつての戦友たちや部下たちの顔がよぎる。
「私はただの司令官ではない。海軍の魂、その象徴である。守るべき者たちのため、そして誇りのため、ここに立つのだ」
彼の視線が鋭くなり、体の奥から力が湧き上がるのを感じる。
「恐怖を知らず、決して退かぬ──それが我々の生き様だ。敵がどれほど強大であろうと、我々は必ず勝つ。いや、勝つまで戦うのだ!」
その声は執務室を震わせ、集まった者たちの胸に火を灯した。
エリオットの背中にはいくつもの敗北と後悔、そして戦友たちへの責任が重くのしかかっていた。だが、彼はそれらを呑み込み、前へと歩み出す覚悟を決めていた。彼は鋭い視線を全員に向け、静かながらも力強い声で告げた。
「君たちも、共に戦ってはくれまいか? 戦友、同志として共に歩んでくれるなら、それ以上の心強い味方はいない」
一瞬の沈黙のあと、部屋の空気が熱を帯びる。イザベルがキリリと前に一歩踏み出し、声を震わせながらも毅然と言った。
「私も……この戦いに命を懸けます。仲間と共に、最後まで貴方の隣で支えましょう」
アルフォンスはかすかに目を潤ませ、力強く拳を握って答えた。
「いつかの若造の頃のように、僕もここにいます。皆と共に」
そしてルソーは、にやりと口元を歪めてから、ドンと拳をテーブルに打ちつけた。
「ふん、なんだか眩しいぞ。お互いに斥候だった若造の頃みてえだな! オレは大歓迎だ! この歳になっても、お前と一緒に戦えるとは思わなかったぜ!」
部屋の熱気は最高潮に達し、全員の胸が高鳴るのを感じる。エリオットは微笑みながらも鋭くベルリオーズに目を向けた。
「ああ、ベルリオーズ君、君も来たまえ。君のことは一番近くで見張るからな。悪い意味で」
ベルリオーズは深く息を吸い込み、覚悟を決めたようにうなずいた。
「無論、あなたに従います」
アルフォンスがふと眉をひそめ、少し興味深そうにベルリオーズを見た。
「そういえば、その指輪……コルヴァンの長の証明だと聞いたよ。それもスリルのために?」
ベルリオーズはぎこちなく肩をすくめ、左中指をちらりと見やった。
「え、指輪? これのことか? ……指輪が何か関係あるのか?」
漆黒の指輪が光を吸い込むように黒々と輝き、カラスの刻印が薄く浮かんでいる。
「大元帥が仰ってた。代々、コルヴァン一族の長はその指輪を嵌めて自分がコルヴァンであることを証明していたって」
「……いやあ、そんな意味があるとは思わなかったな。子どもの頃から、ただ面白くて付けてるだけだよ」
ベルリオーズの言葉にアルフォンスは軽く口元を緩め、興味深そうに頷いた。
「そっか。……ずっとアクセサリー感覚だったのは本当なんだね」
ベルリオーズは少し恥ずかしそうに肩をすくめる。
「生まれた時からカラスと一緒にいたし、父親の書斎で見つけて……気づいたらずっと嵌めてたんだ。……まさか、一族の長の証だったなんて」
ルソーが眉をひそめ苛立ちを滲ませながら前に踏み出す。
「おい、一族の名を名乗ったくせにそれくらい知らんのか!」
ベルリオーズは慌てて両手を前に突き出し、後ずさる。
「ち、父が情報屋稼業だったことはエドガーから聞きました。自分にもその血筋がある、とだけ……」
ルソーは唇を歪め、拳を振り上げようとするが、エリオットがゆったりとした口調で割って入る。
「落ち着け、ユルリッシュ。おそらく十四代目がコルヴァンに関する知識を徹底的に封じたのだろう。……息子の身を守るためにな」
ルソーの拳は宙を切る。イザベルは鋭く前に出て、低い声で釘を刺す。
「やめなさい、ユルリッシュ。ベルリオーズは、本当にアクセサリー感覚でつけていただけ。八つ当たりはやめて」
アルフォンスが肩をすくめて笑った。
「ベルリオーズ君、要するにカラスが好きだっただけなんですねー」
ベルリオーズは赤面し、指輪を見つめながら思わず口を滑らせる。
「まあ、そうだ、ただカラスが好きで……」
ベルリオーズの視線が指輪から手の中の拳へ移り、つい吐露する。
「人間より賢くて、話がわかるから利口なんです。俺の部屋にいるノクターは実家のカラスの中でも特におとなしくて、鳴かないんですよ。寝てる時はまるで置物みたいで……」
その瞬間、部屋中が凍るような空気に包まれた。
「……ちょ、ちょっと待て、ベルリオーズ、お前……宿舎に動物を!? しかも規則違反だぞ!?」
ルソーは怒気を爆発させ、机をドンと叩いた。
「信じられないわ……」
イザベルの声は鋭く、部屋の空気を切り裂く。
「諜報活動に情報漏洩、おまけに今度は規則違反ですって……一体何を考えてるの!」
アルフォンスは困惑混じりに肩をすくめるが、すぐに苦笑に変わった。
「うーん、ベルリオーズ君、カラスが好きなのはわかるけど……これはちょっとやりすぎですねぇ」
ベルリオーズは頭を抱え、床にしゃがみ込む。
「す、すみません……ほんとにノクターは大人しくて、邪魔もしないし……ただ、つい、可愛くて……でも、本当にいい子で、部屋の中でも静かなんです。人間よりずっと利口で、指示もわかる……」
ルソーは目を剥き、イザベルは眉を吊り上げ、アルフォンスも口を開ける。
「だから規則違反は許さないの!」
「宿舎は動物を連れ込む場所じゃない!」
「もうカラス好きなのはわかったから!」
ベルリオーズは深く頭を下げ、肩を震わせながら呟いた。
「……申し訳ありません……ほんとに、カラスが好きなだけ……」
ルソーは拳を握ったまま、ため息をつく。
「……ふん、次からは気をつけろよ。今度またやったらオレが直接お灸を据える」
アルフォンスは小さく笑いながらも、なおベルリオーズを慰めるように言った。
「まあまあ、ノクターさんは許してあげましょう。ベルリオーズ君に然るべき罰の数々を受けてもらって」
ベルリオーズは少し安心したように息をつき、全員の視線が厳しいことを改めて実感した。
エリオットは窓の外を見つめた。灰色に霞むパリの街並みの向こう、遠くの海に向けて瞳が鈍く光る。その瞳には深海のごとく底知れぬ悲しみと静かに燃える決意が宿っていた。手元の十四代目コルヴァンの手紙に一瞥をくれ、ふっと小さく呟く。
「…父と子か」
その声には過去と現在、そして因縁を背負った男の静かな重みが含まれていた。息を整え、深い覚悟を胸に前を見据える。ルソー、イザベル、アルフォンス、そしてベルリオーズ──目の前の者たちに視線を巡らせ、声を強める。
「よかろう。今すぐブレストに向け、出発準備を始める。敵は我々に総攻撃を仕掛けると言っている。時間はない」
部屋の空気は瞬時に鋭く張り詰め、全員の背筋を凍らせた。無言のうちにそれぞれが戦闘態勢に心を切り替える。全てが緊張感に震えていた。そして、エリオットはベルリオーズに視線を落とし、指を一本上げて告げる。
「ああ、それから君のカラスも同行したまえ」
ベルリオーズは目を見開き、驚きと戸惑いのあまり言葉を失うが、すぐに理解したように顔がほころび、胸の前で手を合わせた。
「え、ええ……! ありがとうございます。ノクターも、弟分も一緒に行けるなんて……」
エリオットは静かに微笑みつつ声に力と重みを込めた。
「そのカラスは君の一族にとって宝であり、一員であり、なにより君にとって家族同然だ。家族は守るものだ。何よりも大切にする。──その覚悟を忘れるな」
ベルリオーズは深く頭を下げた。胸の奥で込み上げる感謝と戦場に赴く恐怖を押さえ込む。体の震えは、緊張の高ぶりと家族としての一体感を初めて理解した瞬間の証でもあった。
ブレストには鈍色の海が広がる。その向こうに待つのは容赦なき嵐、否、戦争そのものだ。だが、部屋の中の者たちの胸には、恐怖を押し込む鋭い決意と己が守るべきもののために立ち向かう覚悟が燃え盛っていた。
エリオットは全員の視線を受け止めたまま、ゆっくりと息を吐く。
「そして——」
声に力を込め、部屋の奥まで届くように低く、しかし断固として言葉を紡ぐ。
「我々が何よりも守らなくてはならないものは、民衆たちだ。ブレストで、何も知らぬ彼らの命、生活、希望……その全てだ」
一瞬の間が空く。鈍色の海も、灰色の空も、まるでその言葉を静かに受け止めているかのように凪いでいた。
「敵は海軍そのものを、我々の街を、そして民をも巻き込み、破壊しようとしている。だが、我々は立ち止まらぬ。恐怖に屈せず、混乱に呑まれず、ただ守るべきもののため、前へ進むのみだ」
胸にこみ上げる熱気が声に乗り、部屋の空気を震わせる。ルソーの拳が再びテーブルに打ちつけられ、イザベルの鋭い眼差しは更に鋭利さを増す。アルフォンスの背筋が伸び、ベルリオーズの震えは決意の色に変わった。
「民の安全を守るため、我らは戦う! そして勝つまで戦い続けるのだ!」
その言葉は雷鳴のように部屋を貫き、全員の心に確かな火を灯した。
ブレストの港に迫る影はまだ見えない。だが、部屋の中の者たちは知っていた――この瞬間から、戦争はすでに始まっているのだと。
エリオットの瞳は凍てつくような緊迫の中にも、揺るがぬ使命感を宿していた。
「行くぞ。我らの街を、我らの民を、そして我らの誇りを、守るために!」
その叫びとともに、窓の外に射す薄曇りの光が一層輝きを増すように感じられ、全員の胸に戦いの炎が燃え上がった瞬間、部屋の中に静かな決意と不退転の誓いが満ちた。
こうして、パリにおける情報戦の幕は閉じられ、次の激しい戦いへの序章が刻まれたのだった。




