第八章② 総司令部
パリ総司令部。朝靄の晴れきらぬ灰色の空の下、広大な石造りの建物に一筋の光が差していた。
エリオット・ド・レオパード大元帥の専用執務室はその中でも最も静かで、重苦しい空気を湛えた一角である。書棚にはびっしりと書簡と地図、手入れの行き届いた筆記具が並び、窓辺には銀製のティーセット。
窓の外縁には、黒い羽が何本か意味深に跡を残している。
その窓際に佇み、朝の手紙に目を通していたエリオットの姿は、まるで冬の肖像画のように静謐だった。机の手前ではイザベルが腕を組み、無言で大元帥を見つめていた。表情は険しく、だが一歩も引くつもりのないような鋭さを帯びている。一方その隣には、やや距離を置いて立つアルフォンス。彼は所在なげに視線を泳がせ、時おり手袋の指をいじっていた。いつになく元気のないその様子は叱られた大型犬のようでもある。
そのときだった。ドアが爆音のような勢いで叩かれた。
「道を開けろッ!!」
廊下から怒号が響き、直後、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「うわっ!? うああっ!」
転がるように部屋に押し込まれてきたのは、一人の男——ベルリオーズ・モンレザール。背広の襟をルソーに掴まれたまま、床に崩れ落ちるように突き出された。
「ぐっ……う、あ……っ」
ベルリオーズは咄嗟に身を縮めたが、ルソーは彼を睨み下ろすようにして前へと出る。
「イザベル、見てろ。証拠はこれだ」
言いながら彼は懐から一通の手紙を取り出した。書式は崩れているが、紛れもなく英語で綴られている。
「オレが直接訳す。内容はこうだ」
ルソーは明確な発音で癖のない英語をそのまま流暢に読み上げ始めた。
「親愛なるエドガー・ロジャース殿。手紙、拝見しました。取引案についても承知しました。だが——あれは危険すぎる。リスクが高すぎて、こちらの生業に関わる。今はまだ動かない方がいい。港の手筈が整い次第、再度連絡します。——コルヴァン」
読み終えたルソーはぴたりと手を止めた。
「……言い逃れはできんだろ。名前もはっきり書いてある。コルヴァンと名乗って、エドガー・ロジャースに連絡を取っていた。文面から見て定期的なやり取りがあった可能性もある。……なあ、ベルリオーズ」
その場にうずくまるベルリオーズは、唇を震わせ、乾いた咳のような声を漏らした。
「ち、ちが……違うんです、それは、その……昔の名義で、つい……っ」
ルソーが無言でその肩を蹴るように突いた。その瞬間、エリオットが手を上げて制した。エリオットは手の中にある一通の手紙をじっと見つめていた。封蝋は既に解かれ、紙の端にはわずかに皺が寄っている。それをもう一度だけ一読したあと、彼はふとユルリッシュ・ルソーへと視線を向けた。
「……ユルリッシュ、知っているかい?」
エリオットは、まるで何気ない雑談でも始めるように口を開いた。
「東方のある国では新年の挨拶として手紙を送る習慣があるらしい。少し風雅で、そして、どこか切実でもある」
ルソーは黙って聞いていた。
「もっとも、私が今読んでいたのはそうした挨拶状ではないがね。季節外れで、内容も穏やかとは言い難い」
軽く息を吐き、彼は手紙から視線を上げた。
「……ありがとう、ユルリッシュ。君の報告が証拠なら、私の手元にあるのは告発状だ」
エリオットはそのままベルリオーズの前に進み出る。
「こちらは、君のお父上から届いたものだ。正確には元・十四代目コルヴァン、セドリック・ド・モンレザール伯爵から」
ベルリオーズが顔を上げた。その目は見開かれ、瞬時に全てを悟ったようだった。震える指先がわずかに宙を掴もうと伸びる。
「……そ……そんな……」
「内容を要約しよう」
エリオットは手紙の一節を広げながら静かに続けた。
「『我が息子が、封印したはずのコルヴァンの名を再び名乗っているらしい。事の経緯は省くが情報を精査した結果、その疑惑は確信へと変わった』——と。そして、『いかなる処罰も受ける覚悟で貴殿にご報告申し上げる』……とね」
エリオットはその便箋を丁寧に、まるで砕けそうな陶器でも扱うようにしてベルリオーズの前に差し出した。
「もう飛び去ってしまったが、この執務室の窓にワタリガラスが留まっていた。昔の慣習に習いワタリガラスが元十四代目の意志を運んできたのだよ。父親として、情報屋として、そして君の過去をすべて知る者として、彼は君を裏切ったのだ。……いや、正確には差し出したんだ。名誉のために」
ベルリオーズの肩がみるみるうちに震え始めた。
「ま、待って……大元帥殿、俺は、その……! 違うんです、ほんの……ほんの出来心でっ」
「——スリル、だろ?」
ルソーが低い声で言った。ベルリオーズはガクリと項垂れ、もう言葉を継げなかった。床にひれ伏したままのベルリオーズは、しばらく呻くように小刻みに震えていたが、やがてひとつ深く長い息をついた。
——ああ、もう駄目だ。
頰に流れかけた汗を袖で拭いながら、彼は膝をついた姿勢のまま小さく手を合わせるようにしてようやく呟いた。
「……話します。全部、話します」
ルソーが腕を組んだまま睨み下ろし、エリオットはその場で静かに頷いた。ベルリオーズの口から諦めと自己嫌悪の混じった声が、ぽつりぽつりと零れてゆく。
「……エドガー・ロジャースとの出会いが、全ての始まりでした」
声は掠れ、どこかで何度も反芻した記憶をなぞるように、彼は静かに言葉を続けた。
「……あれは確か、去年の春頃でした。ブレストの出張任務で数日滞在していたとき……夜の宿舎を出て、港の方に資料を届けに行った帰りだったと思います。……あいつは何の前触れもなく、まるで散歩でもしていたかのような顔で、俺の前に現れた」
そのときの光景を思い出したのか、ベルリオーズの表情がわずかに引き攣った。
「にこにこと、何もかも見透かしたような顔で言ったんです。『コルヴァン一族に、ずいぶんと可愛らしい後継者がいたんだね』って……俺の素性も、経歴も、癖も、全部、全部知ってた。なんで、どこから、どうしてあんな男に……」
自分の額を抱えるように手で覆い、彼は目を閉じた。羞恥とも恐怖ともつかぬ気配が声に滲む。
「そのとき、すぐに理解しました。あれは遊びじゃなかった。本気で、俺を利用しに現れたんです。エドガー・ロジャースは俺に協力を強要した。断れば……それがどれほどの意味を持つか、言葉にしなくても伝わるくらい、冷たく、優しく、怖かった……」
その場にいた全員が息を呑むでもなく、言葉を挟むでもなく、ただ静かに聞いていた。ベルリオーズの声が苦い笑いと共に崩れる。
「嫌だった。最初は、本当に嫌だった。毎晩吐きそうだった。見つかったら殺されると思った。いや、殺されるよりもっと惨めに、……貴族としての人生すべてが終わるって、わかってた」
彼は膝の上で手を握り締めた。
「でも、ある日から変わってしまったんです。……震えながら裏切るたびに、背筋がぞわりとする。破滅の予感が、妙に……妙に気持ちよくなって……。毎月の報告が、いつしか——」
口を噤んだ。目を伏せたその顔に浮かぶのは後悔ではなく、自嘲の色だった。
「いつしか、お楽しみになってしまったんです……」
しばらく沈黙が落ちた。ベルリオーズの言葉は部屋の奥深くまで染み込むようにして消えていった。
エリオットが目を伏せたまま小さく呟くように言った。
「——去年の春、か」
その声音は穏やかでありながら、どこかに静かな怒りが混じっていた。
「大海賊フランソワが討たれるよりずっと前。……なるほど、君はエドガー・ロジャースとずいぶん交流していたわけだ」
顔を上げ、じっとベルリオーズを見据える。
「思っていた以上に、根が深い。彼らの掌で踊らされたのではなく、君はその輪の中に自ら足を踏み入れていたのかもしれないな」
彼の横でイザベルが硬い声を発した。
「許しがたい背徳行為です。……総司令部において機密を扱う立場にありながら、それを売った。……今後、参謀本部と連携して正式な処罰を決定しましょう」
イザベルの声は明瞭で切っ先のように冷たかった。だがそこには怒りよりも義務感があった。
ルソーが腕を組んだまま不意に一歩、前へ出る。
「……なあ、こっちの手紙に書いてた取引について、聞かせてくれねえか」
それは彼が奪い取った、いや奇跡的に拾い上げたエドガー宛ての未送信の手紙のことだった。ルソーの目は獲物を追う鷹のように鋭い。だが、それは怒りではなく、真実を引きずり出す意志の眼差しだった。その目を正面から受け止めたベルリオーズの身体が小さく震える。
「…………っ」
言葉が出ない。口を開きかけて何かを言おうとしたが、喉が張りつき声が漏れなかった。顔は青ざめ、目は涙に滲んでいる。喉元を押さえ、喘ぐように肩が上下する。ひと息吸い込もうとしても、吐き出す声が絞り出せない。まるで凍てついた海に呑まれたようだった。恐怖が、ようやく取り引きの重大さを自覚させていた。静まり返る部屋の中、ルソーがひとつ短く息を吐いて前のめりになった。
「……オレの聞き間違いでなければ、だがな」
机に肘をつき手にした紙片を軽く叩きながら、睨むようにベルリオーズを見据える。
「これは、お前がその場で書いた手紙だろう? なら……当然、エドガーがお前宛てに書いた手紙があるはずだ。オレが見つけたのは返事だけだ。……本体はどこ行った?」
問いは冷静だったが、その裏に剣呑な圧が滲んでいた。ベルリオーズはびくりと肩をすくめた。
「あっ、えっと……持ってた……はずなんですけど」
乾いた声で曖昧に答え、ぎこちなく視線を泳がせる。
「た、たぶん……奪われました。……もう一人の、金の腕輪の男に」
ルソーの眉が一瞬、跳ね上がった。
「は?」
「証拠隠滅の、ため……でしょうね……俺はもう、持ってません……」
しどろもどろに言いながらベルリオーズは己の指を握りしめた。視線は俯き、額からはじわじわと冷や汗が滲み出ていた。その時だった。
「ふざけないで!」
イザベルの怒声が雷のように部屋を打ち鳴らした。
「その手紙の内容を、今すぐ、ここで吐きなさい!」
凍りついた空気の中でベルリオーズは一瞬飛び上がり、反射的に背筋を伸ばした。
「ひっ……!」
情けない悲鳴を漏らし、涙目のまま顔を歪める。それでも喉元に刃を突きつけられたような緊張の中、彼は唇を震わせながら、ようやく一言を絞り出した。
「……戦争です」
沈黙が訪れた。誰も、すぐには言葉を返せなかった。口にされたその一語の重みを、全員が理解したからだった。
ようやく、計画の全貌が明らかになろうとしていた。
「最初の頃は、隊の位置情報や日誌の閲覧履歴ぐらいで済んでた。けど……そのうちエドガーはマクシミリアン・ブーケ隊と、その他の一部隊の動向を詳しく知りたがるようになったんです」
言いながらベルリオーズは手を宙に泳がせた。
「大海賊フランソワが討たれた直後からでした。俺……てっきり、マクシミリアン・ブーケ隊に復讐でもするつもりなんだと思ってた。だから、俺は……奴の目的を完全には理解してなかったんです……」
その瞬間、彼の表情が変わった。声が一段、甲高くなる。
「——けど! 今日の手紙は違った! 復讐じゃなかった! あいつ、書いてたんだ! 新しい取引をしようって! それも……戦争だって!」
凍りつく空気の中、ベルリオーズは両手を握りしめた。
「『復讐だけじゃ満足できない。今度は海軍そのものに、全面戦争を仕掛ける』って……! 紛れもない、自分の言葉で……俺はこの目で読んだんだ!!」
ルソーは肩をピクリと動かすだけで怒りよりも驚愕を滲ませていた。イザベルの目が一瞬、鋭く光る。
机の上の書類がわずかに揺れ、室内に重苦しい沈黙が落ちる。




