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第八章① ベルリオーズ

 ベルリオーズの机上には、色褪せた紙束が静かに積まれていた。

 外では冬の足音が少しずつ近づき、街は冷たい霧と曇天に包まれている。

 それでも、ここパリ総司令部の一角だけは季節の気配すら遮断されたように静まり返っていた。

 窓辺の花瓶に挿された枯葉色の菊だけが、移ろいゆく時の流れをかろうじて訴えている。

「ベルリオーズさん。お客人が、食堂にてお待ちとのことです」

 同僚の控えめな声に、ベルリオーズは軽く眼鏡のブリッジを押し上げた。その目は宛名を書いたばかりの封筒へとすっと戻る。

 ——この場に長くいては、また誰かに見咎められる。

 ベルリオーズは懐から小さな封筒を取り出し、そっと書類の写しと一緒に封筒の裏に挟んだ。

 薄手の紙に走らせた筆跡は、まだかすかにインクの香りを残している。宛先はE.R.。

 簡素だが、この一文字に重みがある。

「……では、行ってきます」

 髪留めとメガネを外し、机に置く。外套を羽織り、外出用の鞄に書類の束をしまい、サッと立ち上がって執務室を後にした。

 食堂まではあえて人目の少ない廊下を選ぶ。人がごった返すような通路をわざわざ通りたくないから。

 食堂の隅、一番陽の差さない壁際の席に見覚えのある細身の男が腰かけていた。

 平民らしい粗末な外套に、くたびれた革の手袋。

 だがその視線は獣のように鋭く、粗末な袖から金の腕輪が覗く。

 目が合うと男はニヤリと片眉を上げた。

「よう、書記官殿。えっとぉ」

「社交辞令は結構です。……変装くらい、もう少し工夫したらどうです?」

 椅子に腰を下ろしながら言うと男は肩をすくめて笑った。他の士官たちのざわめきが遠く、二人の周囲だけ妙に静かだ。

「パリを歩くなんざ懲り懲りだ。それにめかし込む趣味はないんでね。それより、ここじゃ落ち着かないだろ? 近くに知ってる店がある」

「ああ、案内してください」

 それだけ告げると二人は席を立ち、誰にも気づかれぬよう建物を抜けた。


 向かった先は、総司令部から数街区離れた路地裏のカフェだった。看板の文字は薄れ、入り口のベルも壊れている。だが、店主らしき男は二人を見ると無言で頷き、奥の席へと案内した。

「まったく、物騒な場所ばかり教えてくれる……」

「安心しなよ、ここの客はみんな口が堅い」

 男はコートの内側から封をされた封筒を一枚、卓上に置いた。

 「裏のルートで回ってきたんでオレに渡されたのは昨日。あんた宛だ。例の船長さんからさ」

 ベルリオーズは即座にそれを手に取り、慎重に封を切った。

 中から現れたのは一枚の羊皮紙。その文面を目で追うにつれ、彼の眉間にはじわじわと皺が寄っていく。

「……どうかしたかい?」

「いや。問題ありません」

 速やかに羊皮紙を封筒に戻して卓上に置く。そして、即座に懐から紙とペンを取り出し手早く返書を認めた。長い指が走らせる筆跡はやや乱れていたが、迷いはなかった。

「これを返してくれ。それと、こちらも」

 ベルリオーズが封筒を二重にして、中に複写された報告書の数枚を滑り込ませる。

「各部隊の動向と、今後の予想だ。手短にまとめたが、向こうも焦っているだろう」

「助かるよ。あんたが動くと、向こうは安心する」

 男は二通の封筒を受け取ってひとまず卓上に置くと、不意に目を細めた。

「……それにしても、今年は荒れるかもな」

「予感で物を言わないでください。私は情報を信じます」

「だが、予感が一番当たるんだ。あんたもそうだろ?」

 ベルリオーズは返答せず、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「時間です。私は先に戻る。……しばらく連絡は控えてください。例の男がまだ総司令部にいますので」

「わかった。……じゃあ気をつけてな、ベルリオーズ」

「あなたも」

 そう言ってコートの襟を立て、ベルリオーズが扉に手をかけたその瞬間だった。

 ——ガンッ!

 破裂音のような衝撃が扉を突き破って吹き込んだ。瞬く間に空気が変わる。続いて甲高い椅子の軋みと怒声。

 カフェの常連客たちが驚いて身を引く中、入口からズカズカと土足で踏み込んできたのは、真紅の外套を風になびかせた大男——ユルリッシュ・ルソー准将その人だった。

「ちっ……!」

 隣の男が舌打ちするのとほぼ同時、ベルリオーズは即座に数歩後退する。

「なぜ、ここが……!」

「読みだ! おまえが静かすぎるからなぁ、怪しさ満点だったんだよォ! 情報屋の奴らが動く時ってのは、だいたいこういう裏があるんだ!」

 ルソーは躊躇なく椅子を蹴り飛ばし、男二人の肩を掴もうと飛びかかった。

「やっと尻尾を掴んだぞッ!! 二人まとめて捕まえてやる!!!」

 赤い外套を揺らし、巨大な獣のような男が現れた。フランス海軍で知らぬ者のいない熱血の軍人が、まさに猛進そのものの勢いで突入してきた。

「う、うわああっ……!?」

 最初に悲鳴を上げたのはベルリオーズだった。仰け反り、目をむき、顔面から血の気が引いていく。

 「うそだろうそだろうそだろ!? な、なんで!? 俺バレたの!? バレたのか!?」

 呼吸が詰まる。喉が粘りつき、心臓が耳の裏まで競り上がってくるようだった。足がその場に貼りついたように動かなかった。

「失礼、時間切れですね」

 隣にいた男は冷静だった。軽く椅子を蹴り、カウンターの端を越えて音もなく抜け出す。ルソーが殺到する直前、男は一言だけ残して背を翻した。カウンターに置いたままだった一通の封筒が勢いで舞う。

「ではでは、ごきげんよう」

 気取った態度で優雅に外套のフードを被る。その際、捲れた袖から手首を覆う金の腕輪が露出し、店の明かりを受けてギラリと反射した。

「逃がすかァ!!」

 怒号が轟き、ルソーが男の後を追う。だが、それはあまりにも一瞬の出来事だった。

 男の体はすでに裏口の影に消え、その姿は白い霧の向こうへと溶けていった。

 そして、取り残されたベルリオーズは……。

「ひ、ひいぃぃっ……!? あ、あの、違うんです! 私は! いや、俺は、ほんとに、ええと、その……!」

 滝のような冷や汗をかきながら、声にならない声を連発していた。肩は震え、顔は見るも無惨に蒼白。

 先ほどまでの「どこか飄々とした皮肉屋」など跡形もない。

「ベルリオーズ・モンレザール……やはり貴様が内通者ッ!!」

「ちがうちがうちがうちがっ……たぶん違うと思うんですけど……!?」

「貴様以外に誰がいるッ!! 今ここで現行犯だろうが!!」

 ルソーにガッと胸倉を掴まれた瞬間、ベルリオーズの膝ががくりと折れた。

 ルソーの顔が近い。怒気に満ちた熱量がすぐそこにある。涙が滲みそうになる。

「や、やめっ、やめてください! 暴力反対! 私はただの……! い、命だけは、命だけは……!」

 情けない声が店内に響いた。誰も助けてくれない。いや、当然だった。

 その時、ルソーは床に舞い降りた封筒に目を留め、荒々しく拾い上げた。

「こいつは……?」

「ひいっ! そ、それだけなんです……! そ、それはただの、返事です、エドガー宛の!」

「エドガー宛……? お前……」

「た、頼むから、撃たないで! 斬るのもやめて!!」

「誰がいま斬るって言った!!」

 もう話が成立していなかった。ルソーは急ぎ裏口へと向かう。だがその間にも、あの逃げた男は影も形もなく、裏路地には凍った空気だけが漂っている。やがて戻ってきたルソーは店主に謝罪する暇もなく、ベルリオーズの腕を乱暴に引っ掴んだ。片方の手には、たった一通の手紙だけが残された証拠品として握られている。

「ちくしょう……あの野郎……身のこなしが……やたら優雅だったな……」

 怒りの言葉が冷えた空気に混じって消えていった。

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