第七章③ ソフィーとアニータ
早朝の資料室を飛び出したソフィーはそのままの勢いで隊の宿舎へと駆け戻った。
いつもの静けさが漂う宿舎の中、階段を上がる足音だけが軽やかに響いていた。
まだ朝の巡回も始まっていない時間帯だったが、ソフィーはまっすぐアニータの部屋の前へと向かった。そして、遠慮も躊躇もなく扉をノックする。
「……なに?」
少し眠たげな声が返ってきたのは数秒後のことだった。扉が開くと、そこには着替え途中のラフな格好をしたアニータが立っていた。まだ髪も結わえておらず、珍しく寝起きらしい無防備な様子である。
「ソフィー? ……あなた、朝ごはんも食べずにどこ行ってたのよ?」
やや呆れたように眉を下げながら問いかけるアニータに対してソフィーは深呼吸一つでそれを受け流し、彼女の目に真剣な色を宿らせた。
「話があるの」
その一言でアニータは口を閉じた。ソフィーの瞳が冗談ではないと悟ったのだろう。ため息をひとつ吐いて「待ってなさい」と言い残すとぱたんと扉を閉め、数分後には髪を結い直し、制服の上着を羽織って再び現れた。
その後、二人はソフィーの部屋に移動して扉を閉める。窓からの朝の光が差し込む中、二人は簡素な机を挟んで向かい合った。
「……で? 話って何?」
アニータが問いかけると、ソフィーは手にしていた数枚の複写資料をそっと机に置いた。
軍部の封印が押された正式な資料、明らかにただの雑誌の切り抜きなどではない。
「セルティック・シェルフ漂流事件について調べてたの。そこで見つけた……この名前を」
指先がそっと、あるひとつの名前を示す。
ベルナルド・シルバ。
「……知ってる名前のはずなのに、知らないって思ってた。でも……医務室で見つけた日記の主は、きっと彼。間違いないと思う」
ソフィーはアニータにこれまでの経緯を早口で説明していった。
日記を拾ったこと。最初は持ち主がわからなかったこと。だけど、読み進めるうちに、そこに記された医師としての観察眼や、独白に綴られたあの言葉がどこか現実のものとリンクしていったこと。
「……この名前を知ってるはずなのに、思い出せなかった」
ソフィーは静かにそう言って指を滑らせた。名簿の文字をなぞるように、ベルナルド・シルバの文字を。
「でも、読んだの。あの日記の、最後のページ……」
小さく息を呑む。
「『この記録を他人が読むことになったなら、その時、俺はもう生きていないだろう。だが、これを隠して死ぬのは、卑怯すぎる』」
静寂の中でソフィーがその一節をそっと口にすると、アニータのまなざしが僅かに揺れた。そして、今朝読んだ資料で、「軍医・ベルナルド・シルバ」がセルティック・シェルフ漂流事件の関係者であり、さらにマクシミリアン隊の旗揚げ時の初期メンバーのひとりであったと記されていたことを。全て、アニータは黙って聞いていた。ソフィーは少しだけ躊躇ったが、それでも勇気を振り絞るようにして訊ねた。
「……アニータ。あなたは、彼のことを知っている?」
アニータはふぅと息をつき、ソフィーの問いを真正面から受け止めるように頷いた。
「……知ってるも何も、良い仲だったのよ。わたしたち」
不意の言葉にソフィーは一瞬言葉を詰まらせた。だがアニータの声は穏やかだった。
「最初は同郷ってだけだった。けどね、あの人は本当に誠実で、真っ直ぐで……医療の現場でも、人としても、尊敬できる人だった」
アニータは一瞬、遠くを見るようにして言葉を続けた。
「日記は、彼がいつもこっそり書き留めてたもの。わたしが船医室で見つけて、そのまま引き出しにしまった。……いつか誰かに見つかると思ってた。でも、あなたに渡ったなら、それでいい」
「……どうして、ですか?」
ソフィーがそっと尋ねると、アニータは微笑んだ。
「あなたならきちんと読むと思ったから。ちゃんと、その重さも受け止めて」
静かな空気の中、アニータはベルナルドとマクシムの話を口にした。
「ベルナルドはマクシミリアンに命を救われたの。セルティック・シェルフ漂流事件のとき、あの真夏の海で医療物資も足りない状況で、彼は見習い軍医として船の腹で応急処置を続けていた。手が震えても止まらなかった。でも、どうしても助けられない命が出てくる。……そんなときに現れたのがマクシミリアンだった」
アニータの声が少しだけ熱を帯びる。
「『この布を使ってください!さっき破れた帆の端です。水は通してません!』って、彼がそう言ったらしい。自分も傷だらけだったのに……。その時からベルナルドはマクシムをただの士官候補生として見てなかったと思う」
ソフィーは目を伏せながら日記の言葉を思い出していた。
「だけど、関係は変わっていったのですね……?」
「ええ。最初は信頼してた。でもね、あの事故のあと隊が正式に立ち上がってマクシムが指揮を執るようになってから……ベルナルドはずっと葛藤してた」
アニータはそっと呟いた。
「人を救える人間が、人を殺す側に回るのかって……」
その言葉の重みが部屋を満たした。アニータは目を閉じ、遠い記憶をたぐる。
「ベルナルドは戦場で優先治療を選ばなきゃならなかったことがある。自分の手で命を選ぶ、あの判断を……誰より苦しんでた。マクシムが同じ苦しみを背負おうとしてるのが、見ていられなかったのよ」
そして、アニータはベルナルドの言葉を思い出すように呟いた。
「あいつの言葉に救われた者は多い。でも、それを盾にして命を奪うなら……自分はその理想を裏切らせたくないんだ。……彼がしきりに言ってたわ」
ソフィーは押し黙りながら、胸の奥でなにかが軋むのを感じていた。
「でも、あれはね……否定じゃない。愛情だったと思うの」
アニータはやさしく微笑んだ。
「違うって、言いたかっただけ。マクシムには、もっと別の生き方があるって信じたかったんだと思う」
ソフィーにはこの話はマクシムとベルナルドの確執、それだけではないと感じられた。
二人の間に横たわっていたもの、その背後にはもっと大きなものがあるのではないか。
あるいは、マクシムの心の奥底に未だ語られていない真実があるのではないかと。
それは、これまで彼がどれだけ近しく在っても決して触れさせてくれなかったもの。
まるで、自らの手を血で汚した男の最後の矜持のように。今、それがうっすらと輪郭を帯び始めていた。
自分が追い求めてきたもの。どこかで机上の空論と嗤われても仕方のないそれが、ようやく現実の中に、他者の中に、かすかに姿を現し始めている。
——たぶん、ここからなのだ。
ソフィーは目を伏せ、ゆっくりと日記を触った。
「ところで……ベルナルドさんは、どうなったんですか?」
その名を口にした瞬間、アニータの手がぴたりと止まった。彼女の顔はどこか苦いものを噛みしめたように曇っていた。
「……さては、その辺の記録は読んでないのね」
「…どうして?」
「もうこの世にいないわよ」
アニータの声はどこか遠い海鳴りのようにソフィーの耳に響いた。
「殺されたわ。海賊に」
一瞬、呼吸が止まったようだった。
記録を通してしか知らない男。だがその思想、その葛藤、その文字に宿っていた人間の温度がソフィーの中に残っていた。
「大海賊フランソワと海賊達は、私掠免状を剥奪される以前からサン・マロに勝手に住み着いてた。で、海軍が正式に一掃することになって、ブレストにいた部隊も派遣されたの。マクシミリアン隊もね」
ソフィーは黙って耳を傾ける。
「わたしとベルナルドは戦闘じゃなくて医療班として後方支援に回る予定だった。でも、任務の何日か前からベルナルドが忽然と姿を消したのよ。正直、珍しくもなかったけど……」
アニータはふう、と息を吐く。
「そしたら、当日になって目撃情報が入ったの。敵地のほうで似た男がいたって。マクシムが自らその確認に向かったわ」
少しの間を置いて、アニータは続けた。
「……でも、間に合わなかった。彼は殺されてた。しかも、戦闘に巻き込まれたって感じじゃなかったらしい。斬られ方も不自然で、そばには武器もなかったって聞いた」
「まるで、自分から——」
ソフィーがぽつりと呟くと、アニータは目を伏せてかすかに頷いた。
「そう。私もそう思った。あの人は……きっと、誰かを止めに行ったんだと思う」
「誰か、って……」
「誰って、あの人が止めたがってた人なんて一人しかいないじゃない」
アニータは静かに言った。
「マクシムよ」
ソフィーは息を呑んだ。頭の中で彼の言葉と日記の最後の一文が重なる。
この記録を他人が読むことになったなら、その時、俺はもう生きていないだろう。
だが、これを隠して死ぬのは、卑怯すぎる。
それは死を覚悟した者の言葉だった。ただの懺悔でも、叫びでもない。
止めに行くという行為そのものが、彼にとっての信念であり、遺言だったのだ。
「戦闘の最中、隊長が駆けつけたときには、ベルナルドはもう殺されていたって。それが彼の最期だなんて」
アニータはまるで自分に言い聞かせるように息をついた。その目は遠く時の向こうを見つめているようだった。
「……バカな男ね、ほんと」
ぽつりと呟くアニータの声には怒りとも悲しみともつかない熱がこもっていた。
「わたしに何も言わず、一人でサン・マロに向かったの。マクシムを止めようとして、ただ、それだけのために……」
視線を伏せたアニータは唇をかすかに震わせて微笑を浮かべた。
「……あんなに仲良かったのに。最期まで……まっすぐで、熱すぎるくらい真面目な人だったわ」
ソフィーは少し唇を噛んでから問いかけた。
「本当に、海賊に殺されたんですか?」
部屋に一瞬、冷たい空気が流れた気がした。
アニータは目を細めたまま視線をソフィーに向けず机の縁をゆっくりなぞるように指で撫でた。
「……その話を今さら蒸し返すのは嫌よ」
声は冷えていたが震えていた。
「わたしはもう、マクシム隊長を信じたいの。信じてるのよ。彼が命を懸けてくれたから、わたしたちは今こうして生きてる……」
言葉が一瞬詰まった。
「でもね、ソフィー……大切な人を奪った海賊のことだけは、絶対に許せないの」
静かに言い切るその顔に嘘はなかった。アニータにとって、ベルナルド・シルバの死はまだ終わっていない過去なのだ。哀しみと、怒りと、信頼の間で凍りついたままの。ソフィーは何も返せなかった。ただ、胸の奥で熱いものが疼いた。しばらくの沈黙の後、アニータが立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
何の説明もなくアニータは部屋を出て行った。扉が閉まると、残された部屋にはわずかな埃の匂いと古い書類の紙の擦れる音だけが残った。
ソフィーは椅子に座ったまま両手を握って待った。何かが変わりそうな、そんな予感とともに。
数分後。アニータは小ぶりな手帳を一冊持って戻ってきた。装丁は地味だが、手になじんだその風合いから長く使われていたことが窺える。
「ベルナルドったら、本当に真面目なんだから」
呆れたように、どこか微笑みすら滲ませながらアニータはその手帳をソフィーの膝の上に置いた。
「これはまた別の日記。こっちは事件当時の彼がリアルタイムで書いてたものよ」
ソフィーは思わず息を呑んだ。表紙には、やや掠れた金文字でこう記されていた。
「私的記録、B・S……」
「わたしから話せることは、もう全部話したわ。これも託したから……あなたはこの情報を好きに使って構わない」
手帳を受け取ったソフィーの手をアニータはしばらくじっと見つめていた。そのまま、言葉を選ぶように低く呟いた。
「ソフィー……わたしね、あなたに時々きつく当たっちゃうの、分かってる。でもそれって、本気で心配してるからよ」
ソフィーが顔を上げた。アニータは微笑んだが、その目は真剣だった。
「この世界では大切な人が傷つくのも、死ぬのも、もう当たり前みたいに思えてくる。でも、それに慣れちゃいけないの。慣れたくなんてないの。……誰かを失うのが当然になるなんて、おかしいもの」
彼女の声がほんのわずかに震えていた。
「あなたのこと、大事に思ってる。だからこそ……無茶ばかりしてるのを見ると怖いの。いつか、あなたまでって。……ベルナルドも、そうだった。自分を犠牲にしてまで、誰かのために動いちゃう。あなたと似てるのよ。まっすぐで、止まらなくて、放っておけないところが」
アニータは目を伏せて、ひと呼吸置いてから言った。
「もう、あんな想い、二度としたくない」
「ありがとう、アニータ」
ソフィーはそう言って、少し照れたように笑った。心からの感謝を込めて――けれど、言葉だけでは足りない気がして、何かを探すようにアニータの顔を見つめた。
「あなたがいてくれてよかった。あなたみたいな人が、マクシム隊にいてくれて……私、本当に、救われてる」
アニータは目を見開いたまま少し呆気にとられていたが、やがてふっと目尻を下げて笑った。
「なによ、それ。ずるいじゃない……そんな顔で言われたら、怒る気も失せちゃうじゃないの」
ソフィーは照れくさそうに肩をすくめた。ふたりの間にしばし静けさが降りた。やがてアニータがためらいがちに一歩、ソフィーに近づいた。
「……慰め合いって言葉、あんまり好きじゃなかったけど」
そう言いながら、アニータはそっと腕を広げる。
「今日は……してもいい気分よ」
ソフィーは小さく笑って、応えるように歩み寄った。二人は、そっと抱きしめ合った。
言葉はもう要らなかった。失われたものと、まだ失いたくないもの。
その両方を、ただ静かに確かめるように。




