第七章③ ソフィーとリラ 続き
翌朝、ソフィーは単身ブレスト司令部へと赴いた。
朝靄の残る港町を抜けて厳格な警備の通された石造りの門を通り、海軍中枢の一角に位置する資料室へ足を踏み入れる。無数の背表紙が黙して並ぶこの場所は、過去の出来事が冷たくも克明に保管された「記憶の墓場」だった。
ソフィーはリラから示された言葉——《セルティック・シェルフ漂流事件》を頼りに関連する軍の記録文書を丹念に探していく。数冊の報告書を抜き取り、閲覧机に並べ、ひとつずつ丁寧にページをめくる。
事実は、淡々と記されていた。
《訓練名:第一五二二期 士官候補生海上実習》
出港地:ブレスト軍港
日程:七月五日〜七月二十二日
実習目的:航海術、操船、指揮訓練、救難対応、医療補助
参加者:士官候補生二十四名/指導教官・支援要員六名
主な乗船教官:F・ド・ロッシュ(教官・航海長)/G・ブランシェ(操船技師補佐)/B・シルバ(軍医補佐)/S・ド・ヴィトン(航海術支援)/L・ド・シャネル(副官補佐)ほか
発生事案:帰路において暴風域へ進入、船体損傷・操船不能。漂流の末、ブリテン沖、セルティック・シェルフ付近にて遭難。その後、自力での航行の末にブレスト沖にて哨戒船が発見・救助。
死傷者:死亡三名/重傷五名(内二名はその後退役)
主原因:異常気象による突発的な気圧降下および操舵系統の損壊。回避行動間に合わず。
補足:混乱下において士官候補生M・ブーケ氏が臨時指揮を執る。教官F・ド・ロッシュ死亡による指揮不能のため。食糧配分・舵補正・避難手順の的確な判断あり。後の聴取において教官側も同意。
ソフィーはページの中に佇む『M・ブーケ』、すなわちマクシムの名前を見つけた。
軍の記録にしては珍しく彼の臨機応変な判断に明言された「評価」の語が添えられていた。
この頃から、すでに彼が「誰かを導く立場」に立たされていたという事実にソフィーは静かな衝撃を覚える。
若くして、危機の中で人の命を預かるという重圧を彼はどんな心持ちで背負ったのか。
しかも、それは卒業間近の訓練生の身でありながら——。
他の資料も追っていく。
操舵系統の故障と補修記録、当時の船体設計図、救助後の回収経路、被害者の氏名、そして教官たちによる聴取記録。名を見つけるたび見知った顔が思い浮かぶ。
シャルル、グウェナエル、それにリラ。皆、この一件に乗り合わせていた。
——どれも、今では彼の右腕とされる存在達ばかりだ。
資料の文末には事故の責任について簡単な注釈が添えられていた。
《本件における実習責任については、悪天候による不可抗力と判断され関係者の処分は行わず。
実習生の士気・統率力については高く評価されたことを追記する》
この漂流事故の生還者たちが、後にブーケ隊として再び集う。
偶然にしては出来すぎている。
静かに記録を閉じ、ソフィーは深く息をついた。
報告書は誰の心情も、葛藤も書かない。そこにあるのは、あくまで事実だけだ。
だが、だからこそ——。
「この一件が、隊長の原点……」
ソフィーは誰に言うでもなく呟いた。
ただの事故ではない。多くの命が危機に瀕し、若き士官候補生がその中で「人の命の重み」を知るきっかけとなった日。
もしかすると——マクシミリアン・ブーケという男の、最初の「歪み」が芽吹いた出来事かもしれない。
「……これは、隊長を知るための扉の一つに過ぎない」
セルティック・シェルフ漂流事件にまつわる報告書を一通り読み終えたソフィーは、次なる資料の背表紙に指を伸ばした。
『特別任務部隊設立に関する覚書』
通称:マクシミリアン・ブーケ隊、設立経緯及び配属人員について。
ソフィーの表情がかすかに引き締まる。手に取ったそれは、セルティック・シェルフ漂流事件からまもなく正式に記録されたものである。ページをめくると、端正な活字と淡々とした記述が並んでいた。
《第一五二二期候補生の一部生還者を中心に新たな特別任務部隊の設立が提案されたのは、件の遭難事故より間もなくである。提出者はパリ総司令部付、エリオット・ド・レオパード大元帥》
ソフィーの指が止まる。
「大元帥の……提案」
大元帥が、彼を推した?
あの完璧主義者のような人物が、まだ若い候補生に過ぎなかったマクシムを?
ソフィーが視線を下ろすと、最後にこう記されていた。
提案の背景には、遭難中に発揮された人員統率力・適応力に注目した分析がある。
当時の関係者のうち適性ありとされた人材を再編成し、長期的に柔軟な任務に対応できる部隊として育成する案が起案された。
当初は反対意見も多かった。
ブーケは正規の士官課程を途中で中断し、現場志望に転じていた。
また階級面でも他候補と比較して劣ると見なされた。しかしながら、複数の上官の推薦およびエリオット・ド・レオパード大元帥の承認により部隊設立が正式決定。
なおブーケ本人の意向により、本部直属ではなく半独立的な運用体制とする。
宿舎はブレスト港近くに設置。日常の監督は緩やかに、しかし任務においては即応性を重視する。
この部隊は軍の未来に対する賭けであり、規格外の才能を育てる土壌として機能することを期待されている。
まるで、そのまま彼らの現在を言い当てているような言葉だった。
ブレスト港に宿舎を構える特異な部隊。
全員が異例の経歴を持ち、結束と自由を同時に内包した存在。
その中心に、どこか影のある青年——マクシミリアン・ブーケがいる。
ソフィーは資料を閉じ、机の上にそっと置いた。
彼がつくった隊ではない。だが、彼でなければ始まらなかった隊なのだ。
それがわかっただけでも、今朝ここへ足を運んだ意味はあった。
朝の陽射しが淡く差し込む資料室の片隅でソフィーは次の綴りを手に取った。
表紙には手書きで『独立遊撃部隊マクシミリアン・ブーケ隊 設立経緯(極秘)』とある。
年代はおよそ九年前、発令文や会議記録、推薦状などが丁寧に綴じられていた。
ページを繰ると、設立に至るまでの経緯が克明に記されていた。
発端はセルティック・シェルフ漂流事件の直後、士官学校を卒業したばかりのマクシミリアン・ブーケが一部上層部の注目を集めていたこと。そして、彼を中心とした新設部隊を求める「特例措置」の要請書に目が留まった。そこには現大元帥エリオット・ド・レオパードの直筆による推薦文も添えられていた。
彼は実地で真価を発揮する指揮官であり、従来の枠に収まる器ではない。
私が責任を持って彼に適した場を与えたい。
その一文は、通常の官僚的な手続きを押し切るような迫力と熱意を湛えていた。
他の将官たちの署名は後付けで、ほとんどが「了承」や「異議なし」にとどまっている。
エリオット一人が強い信念をもってその創設を主導したことが明白だった。
さらに、部隊設立後の指令書や任務方針にも他部隊にはない自由度が与えられていた。
階級制度に縛られない柔軟な構成、独自裁量の作戦立案、司令部とは別ルートでの物資調達。
全てがいびつで、異例で、一貫して「マクシミリアン・ブーケ」という人物に依存した構造だった。
「こんな設立のされ方……普通じゃない」
ソフィーは思わず口に出していた。
若手士官としては異例すぎる抜擢。それも、一度の実地訓練の成功をもって軍の歴史に名を刻むとは。
だが、セルティック・シェルフ漂流事件の報告書と照らし合わせれば、その破格な処遇も理解できなくはない。
極限状態で命をつないだ現場の判断力。士気を維持し、仲間を守り切った胆力。そして、それを見抜き後押しした大元帥の目。
「エリオット大元帥が……この人に全て賭けたのね」
誰よりも早く、誰よりも強く、マクシミリアン・ブーケという若者の価値を信じた一人の軍人の意志が、この異端の部隊を生んだ。
ソフィーは資料の終盤に挟まれていた設立当初の隊員名簿に目を落とした。
手書きで綴られた九名の名前が年次ごとの配属記録と共に記されている。
マクシミリアン・ブーケ中尉 部隊長
ダヴィット・オードラン軍曹 副隊長
リラ・シャネル少尉 副官
シャルル・ヴィトン准尉 参謀
グウェナエル・ブランシェ(軍籍なし) 前衛兵/操舵士
ベルナルド・シルバ少尉 軍医
サミュエル・バティーユ軍曹 前衛兵/銃士/操舵士
ロザリー・クレマン伍長 航海士
アニータ・デ・アンダ伍長 衛生兵
「……にしても、少なっ!」
思わずソフィーの独り言が漏れる。
資料の日付は設立当初のものであり、まさに旗揚げの瞬間を切り取ったような名簿だった。
人によっては以前の階級の者達もいるが、ソフィーが想像していた以上に人数が少ない。
たったこれだけで、あの任務量を捌いていたのかと頭を抱えたくなる。
「そりゃ、定期的に人員募集があるわけだ……」
マクシミリアン・ブーケ隊がときおり新人を迎えていた理由が今になってしっくりくる。
自分もまた過去にその補充人員として試験を受け、ここにたどり着いた一人だった。
そんなことを思いながら何気なく名簿の一人に視線が止まる。
ベルナルド・シルバ少尉 軍医
「……え?」
その名を目にした瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
見間違いではない。紛れもなく、あの「日記」に記されていた名前。
ソフィーが目にした、戦場の記録と臨床経験が綴られた静かで熱い筆致の日記。
その著者の名がここにある。思わず資料を重ねて見比べる。
セルティック・シェルフ漂流事件の任務記録。
関係者の一覧。そのなかに、軍医補佐として記載された名。B・シルバ。
「やっぱり……あの人だったんだ」
日記の主がマクシム隊の創設メンバーであり、あの事故を支えた軍医でもあったという事実。
何より、アニータの名もマクシム隊設立当初の隊員名簿に並んでいることがソフィーの中で点と点を結んでいく。
「アニータなら、ベルナルド軍医のこときっと知ってる」
反射的に椅子から立ち上がった。
もうこれ以上、紙の中を覗いているだけでは駄目だ。話を聞くべき相手がいる。
ソフィーは資料を元の場所に戻すと足早に資料室を後にした。




