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第七章② ソフィーとリラ

 扉が閉まると、室内は再び静まり返った。机で眠るマクシムの寝息が遠くに感じられるほどに。

 リラは机に突っ伏すマクシムの姿に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

「私はね……あなたが戻ってくるって聞いたとき、不安なんて通り越して怒りの方が先に来たのよ」

 ソフィーは動かなかった。ただ、その言葉が本気のものだと分かって自然と背筋を正した。

「一度は自分を裏切った人間の元に戻る? それってどうなの。愚かとしか思えなかった。それに、あなたはいつだって綺麗な顔で自分に都合のいい正しさだけで動いてた。隊長の前でも、それを貫こうとしてた。私はそれが……」

 リラは言いかけて言葉を噛み締めた。声の奥に棘がある。けれど、それは攻撃ではなかった。むしろ、自分の中の感情に向けたような痛みだった。

「だから、てっきり思ってたのよ。戻ってきたとしても、どうせ前と変わらない。偽善的なわがまま野郎か、あるいは海賊の色に染まって荒みきった目をしてるか、どっちかだろうって」

 しばらく沈黙が落ちる。

「……でも、違った」

 リラはソフィーの方を見た。その視線は鋭かったが攻撃的ではない。ただ、真っ直ぐに確かめようとする、そんな眼差しだった。

「あなた、変わってた。目の奥に迷いがないっていうか……その場しのぎの仮面じゃない、もっと本気の顔してた。たぶん、あの人の隣にいたことで何かにぶつかったんでしょう? 傷ついて、でも何か拾ってきたんでしょう?」

 ソフィーはすぐに答えなかった。だが、目を逸らすこともなかった。リラはその反応にふっと息を吐いた。

「別に、今さら同情してるわけじゃないの。ただ、ちゃんと見てたってことは言っておきたかっただけ。……あなたのことは嫌いだったけど、隊長が心から誰かを信じるって、そうそうないから」

 椅子に深く背を預け、リラは眉間を揉むように指先で押さえた。

「今のあの人を見てたら分かるのよ。隊長はあなたを信じてる。それに、あなたももう逃げるつもりはないんでしょ? だったら——」

 言いかけてリラは少しだけ口角を上げた。それは決して優しい笑みではなかったが、どこか和らいだようにも見えた。

「ま、私の信頼はそう簡単に手に入らないけど。気が済むまで疑うから、覚悟しといて」

 ソフィーが何かを言おうとした瞬間、机の方から小さく鼻を鳴らす寝息が聞こえた。リラが目をやると、マクシムは顔を伏せたまま規則正しく眠っていた。

「ねえ、ソフィー」

 少し間を置いてリラが小さく声を落とす。

「もし、あなたがまた彼を裏切ったら……私は、容赦しない」

 静かな声。怒りではない。覚悟の篭もった言葉だった。

「シャネル副官、確かにあなたの言う通りです」

 ソフィーは自分の膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。その声は静かで震えていなかった。

「私は今も、偽善的なわがまま野郎です」

 リラの眉がわずかに動く。言い返そうとしたのか、それとも意外に感じたのか、口を開きかけて次の言葉を待った。

「でも、八方美人のそれじゃない。……私がここに戻ったのはただ一つ、真実を知るためです」

 ソフィーの淡々とした語り口のなかに刃のような緊張があった。

「あの嵐の中、私は隊長に突き飛ばされました。私の問いに答えず、力で距離を取られた。なぜ、あの人があんな行動を取ったのか……私はそれを、どうしても知りたい」

 そこまで言ってソフィーは顔を上げ、じっとリラを見つめた。

「……だから、副官。隊長が私を信頼してるというその話も、私はまだ……信じきれないんです。だって、私にはあの人の心がどこにあるのか、今もまるで見えませんから」

 リラは黙ってその視線を受け止めていた。どこか憂うような目で、それでもソフィーから目を逸らすことはなかった。

「でも、直接聞くには高すぎる壁があるんです。だから……」

 ソフィーは言葉を濁した。助けてほしいとは言わなかった。ただ、そう言いたげな空気だけが残った。リラはため息のように息を吐いた。

「……あの人の心を見通すなんて、誰にもできないわよ。私だって、ね」

 自嘲気味な笑みが浮かぶ。彼女にしては珍しいほど肩の力が抜けていた。

「隊長は何も言わない。そういう人なの。部下でも友人でも、誰にも。……言葉じゃなくて、行動でしか示せない人。でも、それを信じるにはこっちにも覚悟が要るのよ」

 ソフィーは黙って頷いた。

「あなたがその『覚悟』を持ってるのかどうか……それは、もう見せてもらったわ。今さら疑ってるわけじゃない。むしろ」

 リラは少しだけ視線を逸らし、椅子に凭れた。

「むしろ、あの人があなたに話す時を、どうやって作ってあげればいいかを私の方が悩んでる。変な話よね」

 ソフィーはわずかに目を見開いた。

「……副官」

「言っとくけど、私はあなたの味方じゃないわよ」

 すぐさまリラは釘を刺すように言った。

「ただ、あの人のことは放っておけないし。あなたがそこに関わってくるのなら、今度は最後まで逃げずにぶつかって」

 ソフィーはその一言を胸の奥で静かに噛みしめた。

「はい」

 しっかりと返したソフィーに、リラはひとつだけ疲れたような微笑を浮かべてみせた。

「……でも」

 リラがふと思いついたように言った。

「ヒントなしに探るのも大変よね。……そうだわ。隊長の人となりと、私たちがなぜあの人に肩入れするのか。その謎を解くヒントくらいはあげてもいい」

 ソフィーはまっすぐに彼女を見つめる。リラはその視線を受け止め、静かに告げた。

「……セルティック・シェルフ漂流事件を調べなさい」

 リラの口から深く言葉が落ちた。

「それと、アニータから話を聞くといい。ソフィーより二代前、つまりマルセロの前に軍医だった人物について。アニータなら知ってるはずよ」

 アニータの名にソフィーは眉をわずかに寄せる。

「それ以上は自分で探りなさい。……今はまだ全部を明かす時じゃないの」

「……ありがとうございます、シャネル副官」

 低く、けれど感情のこもった声だった。リラは短く頷くと椅子から腰を上げる。

「じゃあ私は——」

 そのとき、不意に毛布の奥から小さな動きと寝ぼけた声が上がった。

「……ぅ、ん……ん……?」

 机の上、顔を伏せていたマクシムがのろのろと上体を起こす。髪はくしゃくしゃで、目元にはまだ眠気の残るぼんやりとした光があった。

「……あれ、寝てたのか僕……夢見悪かったな……もう寝れん……」

「隊長……」

 リラが苦笑するように呆れた声を上げる。

「まさかこんなところで寝落ちするとは。」

「……ああ、……もう、すっかり目が覚めちゃった……」

 その寝言のような言い回しに、ソフィーがそっと口を開いた。

「隊長、手を揉んでからもう一度休んでみてください」

 マクシムはきょとんと彼女を見る。

「手?」

「はい。特に、掌の真ん中と、親指と人差し指の間の付け根を、ゆっくり押すように。気を巡らせて眠りにつきやすくなるそうです。東方の医学では落ち着きたいときや寝つけない夜に使われる手法だとか」

 マクシムは自分の手のひらを見つめると、眉をひくつかせながらも素直に試す仕草をした。

「……なんだか効きそうな気がしてきたな」

「ええ、たぶん。試してみる価値はあると思います」

「まさか部下に睡眠のアドバイスされる日が来るとは……」

 呆れたように笑ったのはリラだった。

「……じゃあ、試して寝るか。……いや、たぶんまた目が冴える……」

「そのときは深呼吸でもして、静かに夜を過ごしてください。私はもう失礼します」

 そう言ってソフィーは一礼した。静かに開かれた扉の向こうには深く沈む夜が待っていた。彼女は振り返らずその闇の中へと足音も立てずに消えていった。

「珍しいですね、二人一緒なんて。ちゃんとした会話は初めてじゃないですか。何の話をしていたんです?」

 リラはマクシムと一瞬だけ視線を交わし、くすっと笑った。

「……それは、乙女たちの秘密ですよ」

 マクシムは目を細め、眠気の中に微かに浮かぶ笑みを漏らした。

 外では波の音が僅かに聞こえていた。

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