第七章① ソフィーとリゼーヌ
静かな夜だった。街のざわめきはすっかり遠のき風もなく、空には一面の星々が広がっている。
リゼーヌは自室のバルコニーに腰を下ろしていた。膝には簡素な星図盤。紙と木製のリングを組み合わせたそれは、彼女が愛用している観測道具で身軽に持ち歩けるように作られていた。だが今宵、彼女は盤にあまり目を落とすことなく、ただじっと空を見上げている。視線の先には凍てつくように澄んだ星の群れがあった。
そこへ、コツ、コツ、と穏やかな足音が近づく。ソフィーが湯気の立つコーヒーを二つ、手にして現れた。
「持ってきたよ。あったかいうちにどうぞ」
リゼーヌは軽く目を瞬かせてソフィーの手元を見る。黙って一つを受け取った。
「ありがとうございます」
湯気の向こう、彼女の横顔は柔らかく光に照らされていた。
ソフィーは隣に腰を下ろし、少し空を見上げる。
「リゼーヌって、よく空を見るよね。星が好きなの? 空が好きなの?」
問いかけは本当に何気ないものだった。だがリゼーヌは少し考えるように間を置き、ぽつりと答える。
「……空そのものが好きなんです。星は、その中に散らばる言葉のようなものですから」
リゼーヌの指先が冷たい空気をかきわけるようにして空の一点を指した。
「あれが、東の空に上る冬の星座です。見えますか?」
ソフィーは肩をすくめながら湯気の立つカップを抱き直した。吐く息が白くほどけていく。
「うん……少しだけ。あれ、名前あるの?」
「あります。東洋では白虎って呼ばれてるらしいです。冬の守護星だと」
彼女の声は淡々としていたが、そこにはどこか遠くを懐かしむような響きがあった。
ソフィーはそっと横目でリゼーヌを見つめた。静かな目元、まっすぐな首筋、どこか水面にたたずむ鳥のような佇まい。
「ねえ。リゼーヌって、どうして航海天文学士になろうと思ったの?」
リゼーヌは空を仰いだまま小さく息をついた。
「父が東洋の文化に強く傾倒していたんです。星や気の流れ、易や禅に至るまで。私が子どもの頃は家の中に漢文の書や星図がずらりと並んでいました」
ソフィーは目を丸くした。
「へえ。ちょっと変わったご家庭だったんだ」
「はい。でも、母は真逆で。フランスの芸術や宮廷文化がお好きで毎晩のようにサロンや舞踏会の話をされていて、私はどちらの影響も強く受けて育ちました」
「でもリゼーヌは、星と空に惹かれるようになった?」
「ええ……本当は学者になりたかったんです。でも父にも母にも反対されて。家の名に泥を塗るような道だって言われました」
リゼーヌの声にほんの少し苦味が混じる。
「そんなとき、スザンヌさんが……海軍に入られたんです。ずっとご近所だったので、小さい頃から憧れていて。『あの方のようになりたい』と思って私も海軍に志願しました」
「それで航海天文学士に?」
「はい。星の道筋と潮の流れを読むことなら、昔から親しみがありましたから……どうせなら、好きなものを仕事にしたいと思ったんです」
ソフィーは少し黙ってから微笑んだ。
「……なんだか、意外だったな。あなたがスザンヌを目標にしてたなんて」
「今もあの方は目標です。もちろん、ソフィーさんも……ですけど」
最後の一言を口にした瞬間、リゼーヌは小さく咳ばらいして顔をそらし、そっと眉を寄せ星図盤を指でなぞりながら再び口を開いた。
「……ほんとうは、こうして星を眺めてる場合じゃないんでしょうけど。でも、謹慎中だからこそ、こうして空を見ていられる時間があるっていうのも少しだけ……悪くないなって思ってしまって」
夜空に視線を移し彼女は小さく笑う。
「任務に出ていたら、こんなにじっくり星を観察する暇なんてありませんから。ある意味、いまがいちばん贅沢かもしれません」
ソフィーはその言葉に、胸のどこかを打たれたような気がした。
「リゼーヌ。あなた、ちゃんと夢を持ってるんだね」
「いえ、持ち続けたい、が正しいかもしれません。叶っているのかどうか私にはまだ……」
言いかけてリゼーヌは肩をすくめた。
「でも、航路を読むたびに思うんです。この星の下に道があるなら、きっと行ける場所はあるって」
ソフィーはコーヒーを口に含んだ。やや冷めたそれは苦味の中にどこか芯のある味を残して喉を下る。
「……その言葉、ちょっと素敵ね。詩人みたい」
「わ、わたしは詩なんて、とても……」
そう言いながらもリゼーヌはどこか嬉しそうだった。しん、と夜の空気が冷え込むなか二人はしばし黙って星を見上げた。言葉よりも確かな思いが、互いの胸の中でゆっくりと形をとっていく。リゼーヌの唇が夜の静けさに紛れるようにそっと動いた。
「……遥か西の地、大海の手前、北玄の宿にて、二つの首星を結びつく星が紅く輝く時、歴史の転換点が生まれていく」
突然の詩のような言葉にソフィーは眉をひそめて問いかける。
「……なにそれ? それも詩?」
リゼーヌは少し照れたように微笑みながら、言葉を継いだ。
「いえ、東の国々に伝わる古い予言でして。『紅い星の予言』と呼ばれているものです。上の世代なら一度は耳にしたことがあるかもしれません」
星図盤の指し示す先、冬の夜空にぼんやりと浮かぶ星々を見やりながら続ける。
「遥か昔、東方の王国群ではこの予言が真剣に信じられていました。西のどこかに『選ばれし星の子』がいると。王や学者、旅商人たちはこぞってその地を目指したそうです」
「選ばれし星の子……って、救世主とか英雄みたいなもの?」
リゼーヌは少し目を伏せて、静かに答えた。
「はい。『予言の星』とも呼ばれた人物のことです。ただ、誰もその姿を見つけることはできなかった。やがて予言は外れたとされ、人々の記憶からも薄れていきました」
その声にはどこか寂しさが宿っている。
「ですが、今も私の父のように、東方の古典を信じる人々はいます。北玄の宿——つまり冬の季節を表す星宿のひとつですが、そこに並ぶ星々がこの冬、またいつもと違う動きを見せているのです。どの星も煌々と、強く」
夜空を見つめるリゼーヌの瞳に確かな光が宿る。
「……だから気になるのです。何かが、誰かが、今まさに動き出そうとしているのではないかと」
湯気の立つコーヒーを両手で包むソフィーが小さく息をついた。
「……星って、そんなことまで教えてくれるの?」
リゼーヌは微笑みを含みながら答える。
「私にとって星は言葉のようなものです。様々な出来事や人の運命がそこにぼんやりと映し出される。学問というより、感覚に近いかもしれませんけど」
星図盤を見つめるリゼーヌの声がふと少し熱を帯びる。
「……そして私は、その『予言の星』がソフィーさんではないかと思っているんです」
思いがけない言葉にソフィーは目を見開いた。
「……えっ、わたし?」
リゼーヌは首を横に振らず、むしろ確信するように頷いた。
「予言では、『二つの首星を結びつける星』が現れるとされています。その星が紅く輝くとき、大きな時代の転換点が訪れる」
星図盤を指でなぞりながらリゼーヌは静かに続けた。
「二つの首星に誰かを当てはめるのは、実はそんなに難しくないんです。例えば、エリオット・レオパード大元帥と大海賊ゼフィランサス。どちらも相反しながらも拮抗する大きな存在です」
ソフィーは思わず湯気の立つカップをぎゅっと握り直した。
「でも 三つ目の星、つまり三人目は現れなかった。……星々が交わらず、結びつかずに終わった。だから、時代は動かなかった」
リゼーヌの言葉にはただの理屈ではない何か、直感に近いものが含まれていた。
「でも今、マクシム隊長がいます。私には彼が明らかに一つの首星に見えるんです。これまでとは異なる軌道で、何かを変えようとしている星」
「……でも、もう一つの首星は?」
「そこが……まだはっきりとは見えません。ただ……」
リゼーヌはそっとソフィーのほうを見た。
「あなたが来てから、この部隊にも、総司令部にも、方々に妙なうねりが起きている。まるで静かだった星図が突然かき回されたみたいに。水面下の流れが変わってきたんです。だから、私は思うんです」
彼女の瞳が、揺るぎないものを宿していた。
「ソフィーさん、あなたが予言の星なんじゃないかって」
ソフィーは息を呑み、しばらく黙ったまま夜空を見上げた。けれど星はただ静かに瞬いているばかりだった。湯気の立つカップを口元に運び、ひと口すすると彼女はふと笑った。
「……ごめん、ちょっと意外だった。まさかリゼーヌがそんなロマンチストだったとは」
その声音には茶化すような色はなかった。ただ、どこか真っ直ぐなものがこもっていた。リゼーヌは眉をひそめ、少し恥ずかしそうに俯く。
「……すみません。でも、そう感じてしまったんです」
ソフィーは小さく首を振ると、そっと目を伏せる。
「ありがと。そう思ってもらえるのは、なんだか嬉しい。でも……」
ソフィーは言葉を切り唇に力を込めた。
「私、自分のことを何かの星だとは思いたくない」
夜の静けさに彼女の声が穏やかに響いた。
「たとえ予言に名前があったとしても。世界の誰かが『この人が時代を変える』って言ったとしても。……私は、自分の意志でここにいる。選ばれたから動くんじゃなくて、動きたいから動く。そうじゃなきゃ意味がないって思うの」
リゼーヌは目を見開きそっと息をのんだ。その瞳に映るソフィーは夜空の星よりもずっと揺るぎない光を宿していた。
「そうですね……きっと、それがあなたらしい」
苦笑するように言ってリゼーヌは星図盤を閉じた。夜風がページをさらいそうになるのを押さえる手が少しだけ震えていた。
「でも、それでも……私は、やっぱり信じたいんです。あなたが予言に左右されないことも含めて、あなたが何かを変える星なんだって」
ソフィーはその言葉に何も言い返さず、ただカップを見つめた。熱はもうほとんど冷めていたが、その中にはまだ何かが残っている気がした。
リゼーヌは立ち上がり、ソフィーに向けてそっと微笑んだ。少し迷った末に何かを決めたような声で言った。
「あの、これから隊長のところへ行きませんか? 少し、お話ししたいことがあるんです」
ソフィーは一瞬だけ眉をひそめた。
「今から?」
「はい。変な時間だってことは分かってるんですけど……なんとなく、今夜のうちに伝えておきたい気がして」
リゼーヌの声には理由を問えば崩れてしまいそうな、ぎりぎりの誠意が滲んでいた。ソフィーはそれ以上何も言わず小さく頷いた。
灯りの落ちた廊下をふたりは足音を忍ばせて進んだ。夜の宿舎は静まり返っていて、誰もが眠りに落ちている時間帯だった。控えめにノックをしてみたが、返事はない。試しに扉を押すと鍵はかかっておらず、するりと開いた。——机に突っ伏すようにしてマクシムが眠っている。
「……寝てますね」
思わず漏れたリゼーヌの声にソフィーも軽く肩をすくめた。そのとき、室内の一角から静かな気配が動いた。ソファの傍らにいたリラが立ち上がり、ふたりを見やった。
「……何の用?」
いつもより低く抑えた声。リゼーヌは軽く頭を下げ、言い淀むことなく切り出した。
「占星術の話をしに来ました。ばかばかしいと思われるかもしれませんが、聞いていただけませんか」
リラは小さくため息をつき、マクシムの寝息をちらりと気にしながら応接用の椅子に腰を下ろした。
「いいわ。少しだけね」
リゼーヌがマクシムの肩にブランケットをかけてから、リラに促されてソファに腰を下ろす。ソフィーもリゼーヌの隣に座った。リゼーヌの口調は淡々としていたが、明らかに緊張を帯びていた。
「今夜、空を見ていて……どうしても、お伝えしたくなったんです。占星術の視点から見て、隊長たちの周囲にかなり大きな影が迫っています。偶然の巡り合わせなんかじゃない、もっと深い、暗い……流れです」
リラは静かに彼女を見つめた。揺らがない双眸が言葉の中に嘘がないかを探るようだった。
「あなたたち……私たちのこと、どれだけ知ってるの?」
「何も知りません。……正直に言います。私たちは、知ろうとしている段階です」
リゼーヌが目を逸らさずに答える。ソフィーも隣で小さく頷いた。
「ただ……隊長は何も仰らない。でも、何かある。皆さんが何かを隠していることくらい、さすがに気づきます。だから、少しでも……」
「信頼されてるか、確かめたいのね?」
ぴたりと核心を突かれてリゼーヌは一瞬だけ言葉に詰まった。それでも、視線は逸らさなかった。
「……はい。そういうことになります」
リラはしばらく沈黙し、それから苦笑のようなものを浮かべた。
「まあ、ソフィーを再び隊に入れた時点で隠し事なんて長くはもたないとは思ってたわ。……でも、今はまだ話せない。いずれ時が来たら、ちゃんと話す。そのときまで待ってくれる?」
「……はい。分かりました」
リゼーヌは深く頷いた。その潔さにリラは少しだけ目を細めた。
「それと、ソフィーと少し話したいの。悪いけど、あなたはもう休んで」
リゼーヌは一瞬ソフィーに視線を向け、軽く頷いて立ち上がった。まだ何か言い足りなさそうな気配もあったが、それを口にせず静かに退室していった。




