第九話 水瓶を濁す者たち
**第9話:水瓶を濁す者たち**
『レン! 喜んでる場合じゃない! 政府が電磁沈殿剤の照射座標を、ここ――君たちが向かっている海域に、再設定し直した! 奴らは全部知ってるんだ、レンの動きを最初から!』
トウマの声が、暗い海辺に響き渡った。
「最初から……? どういうことだ」
レンは端末を握りしめたまま、周囲を見回した。サラと迷子のリキッドたちは、放水口から流れ出た海水と混ざり合い、ようやく安堵の波紋を漂わせ始めていたところだった。
『言った通りの意味だよ。君の防護服、いや、監査官のIDバッジそのものに、追跡用のマイクロチップが仕込まれている。奪われた「凍結」のIDじゃない――生きたまま、位置情報だけを政府に送り続けているんだ』
レンは思わず自分の胸元を探った。バッジは今も内ポケットに収まっている。
「くそ……道理で、簡単にグリッドの隙間ができたと思った」
『そうだ。政府はわざと逃がした。君に、サラさんを、そして迷子たちを一箇所に集めさせるために。効率よく「初期化」するためにな』
『……つまり、私たちは最初から誘導されていたのね』
サラの声に、静かな怒りが滲んだ。
レンは奥歯を噛みしめた。
「トウマ、俺のIDをこっちで破壊する。それで奴らの追跡は……」
『待て、レン。それよりも先に、これを見てくれ』
トウマの声のトーンが変わった。
『君のバッジの通信ログを逆探知して、政府の内部サーバーに潜り込んだ。……レン、水瓶って言葉、知ってるか』
「水瓶? 第一管理区の中央貯水施設のことか」
『ああ。だが今言ってるのはその施設じゃない。政府内部で使われているコードネームだ。……“水瓶を濁す者たち”。上層部の一部が、配給水の水質データを長年改ざんしていた記録が出てきた』
レンの心臓が跳ねた。
『本来、第一管理区の水は、隣国よりずっと安全なはずだった。だが実際には、上層部が独自の浄化プラントを不正に運用して、自分たちだけが本当にきれいな水を飲み、市民には基準ギリギリの、いや、時に基準を下回る水を回してきたんだ。……市民の「渇き」は、資源不足のせいなんかじゃない。奴らが、意図的に演出してきた「乾き」だったんだよ』
「そんな……」
レンの脳裏に、乾いた唇で配給水を舐めるように飲んでいた、これまでの自分の姿がよぎった。
『そして、これが一番重要だ。リキッドたちが本当に政府にとって危険なのは、他国の環境犯罪を暴くからだけじゃない。……水は、この国の政府自身の不正も記憶している。市民が飲んできた水そのものが、上層部の裏切りの「証拠」なんだ。だからこそ、奴らは水の記憶を根こそぎ消し去りたい。海の初期化は、証拠隠滅そのものなんだよ』
サラの水の身体が、激しく波打った。
『ひどい……。国民の渇きすら、権力者たちの都合で作られていたなんて』
「トウマ、そのデータは……」
『念のため、コピーは複数の匿名サーバーに分散させてある。だが、決定的な「本体」は、まだ奴らの中央データベースの中だ。もし公開できれば、上層部の不正は完全に暴かれる。だが……』
トウマの声が、わずかに震えた。
『そのデータベースへのアクセス権限は、もう凍結された君のIDじゃ届かない。中央管理棟の最深部、指揮官専用端末からじゃないと引き出せないんだ』
レンは海を見つめた。水平線の彼方、月明かりに照らされた水面が、静かに、しかしどこか怒りを孕んだように揺れていた。
「……戻るしかないな。もう一度、あの乾いた檻の中へ」
『レン、危険すぎるわ。照射作戦まで、もう時間がない』
サラが制止するように、レンの腕に水の指先を絡めた。
「分かってる。だが、このままじゃサラたちの記憶も、この国の真実も、両方消される。……俺は、監査官として最後の仕事をする」
レンは決意を込めて、暗い水平線の向こうにそびえる、中央管理棟のシルエットを見据えた。
(第9話 了)
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