第十話 カウントダウンの始まり
**第10話:カウントダウンの始まり**
「戻る」と決めたレンだったが、そのまま海から陸へ上がることは自殺行為に等しかった。
政府の追跡ドローンは依然として上空を旋回し、境界壁一帯は厳戒態勢が敷かれている。
『レン、正面から戻るのは無理よ。……私が、あなたを運ぶわ』
サラの提案に、レンは驚いて振り返った。
「運ぶって、どういう……」
『あなたの身体の水分に、私の一部を溶け込ませる。完全な液体化じゃない。ほんの少しだけ、あなたの輪郭を保ったまま、水路を通って中央管理棟の地下まで辿り着けるはずよ』
サラの水の指先が、レンの手の甲にそっと触れた。ひやりとした感触が、皮膚から血管へ、静かに染み渡っていく。
「……分かった。頼む」
レンの身体が、微かに発光するような感覚に包まれた。完全に液体になったわけではない。だが、彼の細胞の隙間という隙間に、サラの記憶と意識のかけらが寄り添うように満ちていく。まるで、二人分の意識が一つの器を分け合っているような、不思議な一体感だった。
老朽化した給水管の隙間を通り、レンとサラは中央管理棟の地下深くへと侵入した。
『ここまでだ、レン。俺の権限じゃ、指揮官の専用端末までは同行できない』
潜伏していたトウマの声が、端末越しに緊張感を帯びて響く。
『三階上のセキュリティルームに、指揮官が今夜の作戦を最終確認している映像がある。そこに侵入して、決定的な証拠を掴んでくれ』
レンは物陰を伝い、セキュリティルームの通気口からそっと中を覗き込んだ。
巨大なホログラムディスプレイの前に、指揮官と、見覚えのない中央政府の高官らしき人物が並んで立っていた。
「――照射座標の再設定、完了しました。予定通り、第七境界壁沖合の海域を中心に、半径三十キロメートル圏内を電磁沈殿剤で完全にリセットします」
「よろしい。逃げ出した監査官と技術官の件はどうなっている」
「防犯システムの追跡データによれば、両名とも同海域に潜伏中と推定されます。作戦の巻き添えで処理される見込みです」
指揮官が、感情の一切ない声で頷いた。
「かまわん。生きた証拠より、消えた証拠の方が扱いやすい」
その言葉に、レンの拳が震えた。
ディスプレイには、巨大な円形のカウントダウンタイマーが表示されていた。
「照射開始まで:01:58:42」
わずか二時間足らず。
「電磁沈殿剤とは、そもそも何なんだ」
レンは声を殺してトウマに尋ねた。
『……水分子の電荷パターンを、強制的にゼロへリセットする薬剤だ。海水そのものは蒸発も減少もしない。ただ、水が記憶している「情報」だけを、根こそぎ消し去る。リキッドたちにとっては、意識の完全な死を意味する』
『……つまり、私たちは死ぬわけじゃない。ただ、私が私であることを、忘れさせられるだけ』
レンの中に溶け込んだサラの声が、静かに、しかしはっきりと響いた。
『それは、死ぬことよりも、ずっと恐ろしいことよ』
レンは通気口の奥、輝くカウントダウンの数字を見つめながら、拳をきつく握りしめた。
「絶対に止める。……絶対に、お前を消させはしない」
その時、セキュリティルームの奥のドアが開き、一人の兵士が慌ただしく駆け込んできた。
「指揮官! 緊急報告です! 第七境界壁沖合で、大規模なリキッドの群体反応を検知! 予測をはるかに超える規模です……まるで、海の底から、何か巨大なものが目覚めようとしているような……!」
指揮官の眉が、初めて僅かに動いた。
「深海の……“長老”か」
レンとサラは、思わず顔を見合わせた――いや、輪郭を重ねた意識の中で、互いの驚きを共有した。
(第10話 了)
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