第七話 下水網の迷子たち
**第7話:下水網の迷子たち**
「あと三十分……!」
トウマからの通信を切ったレンは、パイプラインの暗闇の中で立ち上がった。
サラから分けてもらった純水のおかげで、身体の渇きは完全に消え去り、驚くほど軽い。だが、陸の政府が放とうとしている「電磁沈殿剤」の脅威は、すぐそこまで迫っていた。
『レン、ここから海の照射ポイントへ最短で向かうには、第一管理区の現行の下水網を突破するしかないわ』
サラの水の身体が、古い排水口の鉄格子を指し示す。
「下水網を? だが、サラ、お前はさっき……」
『ええ、今の街の排水は、私たちリキッドにとって猛毒のノイズよ。だから、一人じゃ行けない。あなたの強い「個の意識」が、私の形を繋ぎ止める道標になってほしいの』
レンは深く頷き、鉄格子を力任せに引き剥がした。
二人は、現役で稼働している管理区の巨大下水網へと足を踏み入れた。
――そこは、おぞましい精神の生ゴミ溜めだった。
ごうごうと音を立てて流れる濁った生活排水。そこには化学洗剤や排泄物だけでなく、第一管理区の人々が日々吐き出す「ストレス」「嫉妬」「孤独」といった負の感情の電荷データが、ヘドロのようにこびり付いていた。
下水に足を踏み入れた瞬間、サラの身体が激しく波打ち、悲鳴のような水音が響いた。
『う、くっ、ああ……! 誰かの、誰かの恨みの記憶が、私の中に、流れ込んで……!』
「サラ、俺を見ろ! 俺の声を聴け!」
レンは防護服越しに、サラの水の腕を強く掴んだ。自らの安定した脳波を、彼女の乱れた分子ネットワークへと送り込むように、必死に彼女の名を呼び続ける。
その時、濁流の奥から、サラのものではない「別の水の声」がいくつも響いてきた。
「痛い、痛いよ……」
「消されたくない、暗いよ……」
ヘッドライトの光を向けると、下水管の壁面に、無数の小さな水の塊がへばりついていた。
それはサラのように美しい人型を保てていない、いびつに崩れたリキッドたちだった。
『この子たちは……陸の生活に耐えかねてリキッド化したものの、海へ辿り着けずに下水網で迷子になった人たちよ』
サラが苦痛に耐えながら、途切れ途切れに説明する。
そこには、借金に追われて戸籍を捨てた元密輸人の男や、乾燥病で未来を儚んだ若い女の「記憶の残骸」が、泥水と混ざり合って辛うじて存在していた。彼らは下水がもたらす他人の精神汚染によって自意識をズタズタに引き裂かれ、海という大いなる調和へ向かう気力さえ失った、社会の最底辺の「迷子たち」だった。
「お前たち、ここにいたら今夜、政府の電磁照射で完全に消されるぞ!」
レンは壁面の水たちに向かって叫んだ。
「俺たちが海への道を切り拓く! 記憶を失いたくなければ、俺たちの後に続け!」
レンの強い意志の言葉が、濁った下水の中に一本の「清流」のような電気信号となって走った。
迷子たちの水分子が、微かに光を帯びて震える。
「……海へ……行けるのか……?」
「消されずに……済むのか……?」
一滴、また一滴と、壁面から濁った水たちが離脱し、サラの引き連れる水の群れへと合流し始めた。彼らは互いのノイズを相殺し合うようにして、レンという確固たる人間を先頭に、一つの巨大な「意思を持つ水流」へと変貌していく。
背後から、下水管の天井を伝って嫌な金属音が響いてきた。
政府の追跡ドローンだ。レンたちの動きを察知し、上空のマンホールから下水網へと侵入してきたのだ。
「急げ! 出口はもうすぐだ!」
レンは濁流を掻き分けながら走った。
前方に、第七境界壁の最下部――海へと直結する巨大な放水口の光が見えてきた。
しかし、その放水口の手前には、政府がリキッドを完全に遮断するために設置した、高電圧の「電磁スクリーングリッド」が青白い火花を散らして行く手を阻んでいた。
触れれば、サラも、後ろの迷子たちも、一瞬でただの無機質なH2Oへと分解される。
照射作戦までの残り時間は、あと十五分。




