第六話 コーヒーを淹れられない理由
**第6話:コーヒーを淹れられない理由**
喉を滑り落ちた一滴のサラ。
その瞬間、レンの乾ききった細胞が歓喜に震えると同時に、視界が真っ白な光に染まった。脳のニューロンを未知の電荷パターンが駆け巡り、レンの意識は、サラがまだ陸の自室にいた「リキッド化直後」の記憶へとダイレクトに同調していく。
――それは、三年前のサラの部屋の記憶。
肉体を捨て、ナノマシンによって最初の「液体化」に成功したばかりのサラは、まだ海へ行く前、陸の自室で数日間を過ごしていた。
レンには「少し体調を崩した」と嘘を吐き、誰にも見られないようにカーテンを閉め切った部屋。そこは、新人類となった彼女にとって、あまりにも不便で、あまりにも愛おしい実験室だった。
『……あ。またやっちゃった』
サラは、テーブルの上でため息をついた。
彼女が触れた陶器のマグカップが、指先から染み出た水分でツルリと滑り、床に落ちてプラスチックの破片を散らす。
液体となったサラにとって、陸の物質を「掴む」という行為は、想像を絶するほど難しかった。油断すると、自らの指先が水の分子へと分解され、物質の表面を濡らすだけで終わってしまう。
それ以上に切実だったのは、食事――特に、彼女が大好きだった「コーヒー」を淹れようとした時のことだ。
レンがいつかプレゼントしてくれた、お気に入りの焙煎豆。
それを不器用な水の触手で挽き、お湯を沸かす。だが、出来上がった温かいコーヒーをいざ飲もうと、彼女がカップに口をつけた瞬間、悲劇が起きた。
液体である彼女の「口」がコーヒーの表面に触れた刹那、コーヒーという物質が、サラの身体を構成する水分子のネットワークへと、容赦なく「混ざり合って」しまったのだ。
『う、く……っ!』
サラは頭を抱えてその場にうずくまった。
カフェインの刺激と、焙煎された豆の複雑な有機電荷データが、彼女の自意識の核へとダイレクトに侵入してくる。それは味覚を通り越し、脳の神経を力任せに引っ掻き回されるような、激しい頭痛と目眩を伴う精神的パニックだった。
水人間にとって、異物と「混ざる」ということは、自らのアイデンティティを汚染される恐怖と同義だった。コーヒー一杯すら、今の彼女にとっては、自らの輪郭を脅かす劇薬でしかなかったのだ。
『私はもう、レンと同じものは食べられない。同じ部屋で、同じ温もりを分け合うこともできないんだ……』
お風呂に入れば、湯船のただのH2Oに自らの意識が霧散しそうになり、必死に「個の意思」を凝縮させて形を保たねばならなかった。陸のすべての生活インフラは、頑固な「固体(皮膚)」を持つ人間のために作られている。リキッドになった彼女にとって、コンクリートの部屋は、自分を小分けにする冷酷な器の集まりに過ぎなかった。
それでも、彼女がその不便さを受け入れたのは、部屋の窓から見える、はるか遠くの海が呼んでいたからだ。
陸の人間がどんなに水を汚し、トークンで縛ろうとも、一度海へ出れば、そこには何億年も前から続く、絶対的な自由のネットワークがある。国境の壁に遮られることもなく、世界中の記憶と一つになれる大いなる調和。
『ごめんなさい、レン。私は、あなたにこの姿を見せたくなかった。……でも、私は、このカサカサに乾いた世界から、あなたを救い出すための「最初の一滴」になりたかったの』
記憶のなかのサラが、涙の代わりに自らの目元を優しく波打たせながら、まっすぐにレンを見つめていた。
「……あ、あ……」
ハッと息を呑み、レンは現在へと引き戻された。
古いパイプラインの暗闇。目の前には、今も静かに揺れる水のシルエット――現在のサラがいた。
レンの喉の渇きは、完全に癒えていた。スマートウォッチの数値は青色に戻り、カサついていた肌には、不思議なほどの瑞々しさが蘇っている。
「サラ……君は、そんな苦しみを抱えて……」
『分かってくれた? レン。水になるということは、すべてを受け入れるということ。そして、陸のノイズと戦い続けるということよ』
サラの水の身体が、微かに切なげに形を変える。
その時、レンの端末が激しく震えた。拘束を逃れたトウマからの、緊急暗号通信だった。
『レン! 聞こえるか! 政府が電磁沈殿剤のカウントダウンを開始した! 照射まであと30分、座標は第七境界壁の真下の海域だ! 急げ!』
いよいよ、世界を揺るがすタイムリミットが迫っていた。
(第6話 了)
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