第四話 失われたはずの面影
**第4話:失われたはずの面影**
中央管理棟の最深部にある特別監査室は、徹底的な乾燥管理が行われている部屋だった。
湿度メーターは「5パーセント」という極限の数値を指し、室内にいるだけで皮膚の水分が恐ろしい勢いで奪われていく。陸の政府が反逆者から気力を奪うために使う、合法的な拷問部屋だった。
「レン監査官。いや、元監査官と言うべきか」
鉄のデスクを挟んで対面した指揮官が、カサついた声で書類をめくる。
「トウマ技術官の解析データはすべて消去した。彼もまた、厳重な処分を受けることになる。……だが、君の防護服の記録には不自然な空白がある。夕べ、第七境界壁のダクトで、君はリキッドから何を受け取った?」
レンはひび割れた唇を固く結んだまま、何も答えなかった。
防護服の胸ポケット。その内側には、今もサラの残した小さな水入りのシリンダーが、彼の体温で微かに温められている。この乾燥室の空気から守るように、レンは静かに息を潜めていた。
「黙秘か。まあいい、お前たちの喉がどこまで耐えられるか、じっくりと見せてもらおう」
指揮官が部屋を去り、重い金属扉が閉まる。
完全な静寂と、肌を刺すような極限の乾燥がレンを包み込んだ。
喉が熱い。細胞が悲鳴を上げている。
薄れゆく意識のなかで、レンの記憶は、サラが突然姿を消した「あの日」の出来事へと引き戻されていった。
――三年前。第一管理区の外縁部。
当時、環境監査官としてのキャリアを歩み始めていたレンは、サラとのささやかな未来を信じていた。しかし、サラの表情は日に日に曇っていく。彼女の持つ特異な体質――「水の声を聴く」ような鋭すぎる感性が、彼女を追い詰めていた。
『レン、この街の水はもう、悲鳴を上げているわ』
ある夜、サラは配給されたアルミボトルを見つめながら、涙を流していた。
『政府はね、私たちが生きるための水を濾過しているんじゃないの。水が持っている「歴史」を殺して、自分たちの都合のいい記号に変えているだけ。……私、知ってしまったの。隣国の汚染地帯で何が起きたか。この水が、あっちの国で流された子供たちの涙の記憶を、まだ消しきれずに運んできたから』
レンは当時、その言葉を「激しい乾燥による精神的な失調」だと信じ込もうとしていた。政府の監査官として、壁の向こうはただの「不毛の汚染地帯」だと教え込まれていたからだ。
『国境なんて、人間が勝手に引いた皮膚の延長線よ。そんなもののために、どうして私たちは傷つけ合わなきゃいけないの? ……私、もっと広いところへ行くわ。国境なんてどこにもない、すべての記憶が許される場所へ』
それが、彼女が遺した最後の言葉だった。
翌朝、彼女の部屋には、空になった服と、ベッドの上に残された「一溜まりの水分のシミ」だけが残されていた。
陸の人間が、肉体の水分をナノマシンで書き換え、自らを液体として自然界の循環へと融和させる禁忌の技術――「リキッド化」。サラは自らの意志で、カサついた皮膚を脱ぎ捨て、海へと溶けていったのだ。
「う……あ……」
激しい渇きによる頭痛で、レンは現在へと引き戻された。
監査室の湿度メーターはついに3パーセントを切り、レンの視界はかすみ始めている。
(サラ……俺は、間違っていた。君の言っていたことは、すべて正しかったんだ)
その時、閉ざされていた監査室のドアが、電子的なエラー音とともに小さく開いた。
「……レン! 生きてるか!」
入ってきたのは、衣服を乱し、息を切らせたトウマだった。彼の手には、監査官用のマスターキーが握られている。
「トウマ……? お前、拘束されたんじゃ……」
「裏のルートを使った。僕の解析データを、政府の上層部がどれだけ恐れているか分かったからね。おとなしく殺されてやる義理はないさ」
トウマはレンの腕を掴み、無理やり立ち上がらせた。
「レン、今すぐここを出るんだ。奴らは海を丸ごと初期化する『電磁沈殿剤』の照射作戦を、今夜前倒しで行うと決めた。作戦が始まれば、海にいるサラさんも、すべての水人間たちも、完全に記憶を消されてただの『物質』に戻る!」
「今夜だと……!?」
レンの脳裏に、夕べサラが残した言葉が蘇る。
――『この純水は、海へ還さなければならないの』
サラは知っていたのだ。政府の冷酷な作戦が、すぐそこまで迫っていることを。そして、それを止める鍵が、自分の胸ポケットにあるこのシリンダーの中に隠されていることを。
「行こう、レン。お前の愛車は、地下の検収庫にまだある。国境の壁へ走れ!」
乾燥で悲鳴を上げる身体に、激しい衝動が駆け巡る。
レンはトウマの手を強く握り返すと、監査室の闇から、サラの待つ第七境界壁へと向かって走り出した。
(第4話 了)
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