第三話 46億歳の旅人たち
**第3話:46億歳の旅人たち**
青白い光に満ちた地下分析室。ホログラムディスプレイが激しく明滅し、乾燥した室内に「過去の記憶」が立体的に浮かび上がっていた。
それは、数年前の第一管理区の片隅にあった、小さな公園の映像だった。
まだ完全に乾燥しきる前、人工の雨が週に一度だけ許されていた頃の、瑞々しい空気。そのベンチに、レンと、かつて肉体を持っていた頃のサラが並んで座っていた。
『ねえ、レン。人間って、どうしてこんなにカサカサになっちゃったんだろうね』
ホログラムのサラが、レンの記憶にあるそのままの、切なげな声で微笑む。
『水はね、地球が生まれた46億年前から、一滴も増えていないし減ってもいないの。恐竜が飲んだ尿も、いつか誰かが流した大統領の涙も、すべては形を変えて、今この世界を巡っている。それなのに人間だけが、国境なんていう哀れな線を引いて、水を私有しようとするのね……』
映像の中の彼女は、大切そうに一本のペットボトルを抱えていた。その一滴一滴に刻まれた悠久の歴史を、彼女は当時から五感で感じ取っていたのかもしれない。
プツン、と音を立ててホログラムが消え、分析室は再び冷徹な青い光に戻った。
「これは……夕べのサンプルから復元された、サラの個人的な記憶だ」
技術官のトウマが、興奮で声を震わせながらキーボードを叩く。
「レン、信じられるか? 水分子の電荷パターンは、人間の脳のニューロンに驚くほど似ているんだ。陸の人間が開発した液体化のプロセス……あれは、単に肉体を水に変える技術じゃない。自らの意識を、この地球上で最も巨大な情報記録媒体である『水の循環網』へとアップロードする行為だったんだよ」
レンは乾いた喉を鳴らし、ディスプレイを凝視した。
「じゃあ、サラは……今もどこかで、そのネットワークの中に生きているんだな」
「生きている、なんてレベルじゃない。彼女は海や雲と一体化して、地球全体の記憶を共有しているんだ。……だが、レン、問題はそこじゃない。我が国の政府が、なぜここまでリキッド(水人間)を目の敵にして、徹底的に捕獲しようとしているか、その本当の理由がこれだ」
トウマの顔から血の気が引いていく。
「リキッドたちは、水を通じて世界中の『不都合な真実』を共有している。どこかの国が極秘で行った環境犯罪、歴史の闇に葬られた虐殺、政府の最高機密……水はすべてを目撃し、記憶している。リキッドが海を渡れば、それらの情報が国境を越えて、世界中のリキッドへと瞬時に伝播してしまうんだ。政府にとって彼らは、国家の安全保障を根底から揺るがす、コントロール不可能な『動く情報漏洩媒体』なんだよ」
その言葉が、レンの胸を重く締め付けた。
人間がどんなにコンクリートの壁を建て、ファイアウォールを築いても、水の循環を止めることはできない。陸の支配者たちにとって、国境を無視して記憶を運び続ける水人間は、自らの権力を脅かす最も恐ろしい存在だったのだ。
その時、分析室の重い金属扉が、電子音とともに勢いよく開いた。
「そこまでだ、トウマ技術官。そしてレン監査官」
現れたのは、黒い防護服に身を包んだ、中央管理区の警備指揮官だった。その後ろには、銃を構えた数人の兵士が控えている。
「未許可のサンプル解析、および国家機密に触れるログの閲覧。両名とも、直ちに身柄を拘束する」
「指揮官、これはただの残留液体の……!」
トウマが弁明しようと前に出たが、兵士の一人に容赦なく突き飛ばされた。
レンは本能的に、自身の胸ポケットに手を当てた。そこには、夕べダクトで密かに回収し、まだトウマに渡していなかった「もう一つの小さなシリンダー」が入っている。サラが残していった、隣国の汚染地帯の記憶が含まれているかもしれない、本物の水だ。
「レン監査官。貴官のIDは一時的に凍結された。監査室へ同行願おう」
指揮官の冷徹な目が、レンを射抜く。
レンは抵抗が不可能であることを悟り、静かに両手を挙げた。しかし、彼のカサカサに乾いた瞳の奥には、確固たる決意の火が灯っていた。
(サラ、君は陸の乾きに絶望して、あの海へ行ったんだな……)
連行されるレンの背後で、トウマの解析データが次々と削除されていく音が、無機質に響いていた。物語はここから、政府の陰謀サスペンスへと一気に加速していく。
(第3話 了)
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