第二話 鉄格子をすり抜ける女
**第2話:鉄格子をすり抜ける女**
「サラ……本当に、サラなのか……?」
レンの声は、錆びついた鉄格子に遮られ、乾いた闇へと吸い込まれていった。
信じられなかった。数年前、何も告げずに彼の前から姿を消した恋人。その彼女が、肉体を持たない「水人間」となって目の前に立っている。いや、立っているという表現すら正しいか分からない。彼女はゆらゆらと形を変える、一塊の美しい透明な液体だった。
レンが鉄格子に駆け寄り、その隙間から手を伸ばそうとした、その時だった。
『来ないで、レン』
サラの声が、水面が震えるような残響を伴ってレンの脳裏に響いた。それは物理的な音というよりも、純水を通じて彼女の意思が直接伝わってきたかのような錯覚を覚えさせた。
『私はもう、あなたの知っているサラじゃない。皮膚を捨て、個体の境界をなくして、この世界の広大な海の一部になったの。今の私は、あなたにとってただの「資源」でしかないわ』
「そんなわけがあるか! 君がサラなら、どうして……!」
『これ以上ここにいると、陸のセンサーに引っかかる。……私を助けてくれてありがとう。でも、あなたからもらったこの純水は、海へ還さなければならないの』
サラと呼ばれた水の塊は、ゆっくりと足元へ崩落していった。
彼女の肉体だった液体は、水銀のように滑らかな動きで地面のひび割れへと滑り込み、錆びついたダクトの奥の、さらに地下深くへと染み込んでいく。
「待て! サラ!」
レンの叫びも虚しく、彼女の気配は完全に消失した。
残されたのは、湿ったコンクリートの床と、レンの手の中に残された空のアルミボトルだけだった。風がダクトを吹き抜け、残された湿気すらも一瞬で奪い去っていく。いつもの、ひどく乾燥した静寂が戻ってきた。
ピピッ、ピピッ。
その時、レンのスマートウォッチが冷酷な警告音を鳴らした。
『警告。環境監査官04号。個人配給純水の不当な廃棄、あるいは横流しの疑いを検知。直ちに中央管理棟へ出頭し、監査を受けなさい』
レンは立ち尽くした。
肌の乾きは相変わらずだったが、彼の心には、今までにない冷ややかな「潤い」の予感が、消えないシミのように刻まれていた。
翌朝、第一管理区の中央管理棟。
ガラスとコンクリートで固められた冷徹な空間で、レンは上官の前に立たされていた。
「配給された純水を紛失した、だと?」
上官は、カサカサに乾いた指でデスクを叩いた。彼もまた、この世界の「渇き」から逃れられない陸の人間の一人だ。
「はい」レンは表情を変えずに答えた。「第七境界壁の排水ダクト付近でリキッドの反応があり、追跡中に抵抗を受けました。その際、ボトルを奪われ、逃走を許しました」
「ふん……。リキッドどもめ、最近一段と動きが活発になっている。国境の壁を越えて、我が国の水を盗もうと必死だな」
上官は忌々しげに吐き捨てた。政府にとって、リキッドは人間ではなく、国家の財産である「水」を脅かす害獣、あるいは違法な資源の密輸業者に過ぎない。
「レン、今回の件は不問に付すが、次はないぞ。お前の今日の分の水用トークンは半分凍結する。乾燥室へ行って、頭を冷やしてこい」
「了解しました」
レンは一礼して部屋を出た。喉の奥が、昨日よりも激しく焼き付くように痛む。だが、今の彼にとって、その渇きすらもサラと繋がっている証のように思えていた。
謹慎処分となり、自分のデスクに戻ったレンは、こっそりと端末を起動した。
監査官の権限を使い、昨夜のダクト周辺の防犯カメラのログを調べるためだ。しかし、彼が目にしたのは、「データ破損・閲覧不可」の無機質な文字だった。政府の手によって、すでに昨夜の記録は消去、あるいは隠蔽されている。
「何かを隠している……」
レンが呟いたその時、デスクの内線が鳴った。
「レン監査官。地下の分析室のトウマです。夕べ、あなたがダクト周辺から『回収』してきた、防護服に付着した残留液体の解析が終わりました。……ちょっと、すぐに降りてきてもらえますか? 奇妙なものが見つかったんです」
トウマは、レンの数少ない同期であり、水分子の解析を専門とする優秀な技術官だった。
レンは周囲の目を盗み、中央管理棟の地下最深部へと向かった。
厳重に管理されたドアの向こう、青白い光に満ちた分析室に入ると、トウマが興奮と恐怖が入り混じった複雑な表情で、巨大なホログラムディスプレイを見つめていた。
「遅いですよ、レン。これを見てください」
トウマが画面を操作すると、複雑な分子結合の3Dモデルが空間に浮かび上がった。
「これが、夕べあなたの服についていた水のサンプルです。普通の純水でも、汚水でもない。分子の配列が、まるで人工的なコードのように規則正しく並んでいる。……いや、違う。これは人工じゃない。水そのものが、何か膨大な『データ』を記憶しているんだ」
レンはディスプレイに一歩近づいた。
「記憶……? 水が、何かを覚えているというのか」
「信じられないかもしれないが、その通りだ」
トウマは真剣な目でレンを見た。
「地球誕生から46億年、この星の水は一滴も増えていないし、減ってもいない。循環しているだけだ。そしてこの水分子には、その46億年の旅のなかで触れてきた『世界の記憶』が、電荷パターンとして刻み込まれている。リキッドたちは、その記憶を読み書きできるらしいんだ。……そしてレン、この水には、君のよく知っている記憶が含まれている」
トウマがデバイスの再生ボタンを押した。
青白いホログラムの光が明滅し、乾燥した分析室の中に、かつて失われたはずの「瑞々しい過去の景色」が立体的に描き出されていく。
(第2話 了)
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