第一話 乾いた世界の監察官
**第1話:乾いた世界の監査官**
地球から「瑞々しさ」という概念が失われて久しい。
海面上昇によって可住地が激減した一方で、大陸の奥地は極端に砂漠化し、人類は残されたわずかな土地を巡って、かつてないほど強固な「国境の壁」を築いていた。
ここ、第一管理区も例外ではない。高さ五十メートルに及ぶ分厚いコンクリートの壁が、隣国との境界線を冷酷に区切っている。
環境監査官であるレンの仕事は、その壁の境界線で、不法な「資源」の流入を取り締まることだ。
「……また、マイナス0.3パーセントか」
レンは執務室のデスクで、自身のスマートウォッチが示す「体内水分量」の数値を眺め、小さくため息をついた。
特権階級が住まうこの第一管理区でさえ、配給される水は徹底的に制限されている。
すべての市民は電子的な「水用トークン」によって一日の使用量を管理され、過剰な消費は即座に罰則の対象となった。レンの肌は常に粉を吹いたようにカサカサと乾いており、喉の奥には、焼き付くような不快感がへばりついている。
今の時代、「潤い」とは何よりも高級な富の象徴であり、同時に人を支配するための鎖だった。
レンは引き出しから、本日の配給分である一本のアルミボトルを取り出した。
中に入っているのは、極限まで濾過され、ミネラルさえも均一化された無機質な「純水」だ。それを一口だけ口に含み、喉の渇きを騙すようにゆっくりと飲み込む。
その時、デスクの防犯アラームがけたたましく鳴り響いた。
赤い警告灯が、室内の乾燥した空気を不気味に染め上げる。
『警告。第七境界壁、排水ダクト付近に未確認の質量を感知。有機物の反応あり』
「……また密航者か」
レンは乾いた唇を歪め、飲みかけのボトルをベルトに差すと、すぐに防護服を纏った。
彼のような監査官にとって、国境を越えようとする者は「犯罪者」であり、同時に「違法な資源の持ち出し、あるいは持ち込み」を企てる分子に過ぎない。
愛車である電動四輪駆動車に飛び乗り、砂埃を上げて第七境界壁へと向かう。
現場は、数十年前に完全に干からびた、かつての巨大な排水ダクトだった。昔は激流が注いでいたであろうその場所は、今や錆びついた巨大な鉄格子と、風が運んできた砂にまみれている。
現場に到着し、防護服の強力なヘッドライトでダクトの奥を照らしたレンは、その場で息を呑んだ。
鉄格子の向こう側――つまり、我が国が「汚染地帯」として完全に放棄し、分断したはずの外の世界から、何かが這い出てこようとしていた。
それは、人間だった。
いや、人間というには、あまりにもその輪郭が曖昧だった。
その生物には、服がなかった。それどころか、皮膚さえも存在しないように見えた。
ライトの強い光を浴びて、その肉体はドロリと崩れ、鉄格子のわずかな隙間を、まるで意志を持つ透明な液体のようにすり抜けていく。粘り気のある水状の質量が、ズブズブと音を立ててこちら側の地面に到達した瞬間、それはゆっくりと、重力に抗うようにして「人型の泥人形」のような形を結び直したのだ。
「……『リキッド(水人間)』か」
レンは本能的に、腰の電磁銃に手をかけた。
彼らは、陸の暮らしを捨て、政府が禁忌とする技術によって肉体を液体化させ、海へと融合した人類の成れの果てだ。国境という概念を持たない海を回遊し、時折こうして壁の下をくぐり抜けて密入国してくる。
陸の政府からは「国家の安全を脅かす、違法な動く水資源」として忌み嫌われ、見つけ次第、捕獲・回収される対象となっていた。
しかし、目の前にいる水人間は、どこか様子がおかしかった。
立ち上がろうとしては自重を支えきれずに水溜まりのように崩れ、激しく身もだえしている。
その透明な身体のあちこちに、赤や黒の不気味な斑点のような、濁った液体が混ざり込んでいた。
「あ……が……あ……」
水人間の口らしき空洞から、湿った、しかし掠れた声が漏れる。それは、ひどく苦痛に満ちた音だった。
「……苦しい……。街の、下水が……混ざった……。他人の……他人の排泄した記憶が……ノイズが、頭に、直接……っ」
レンは銃を構えたまま、微かに目を見開いた。
水人間は、周囲の水と融合し、その成分をダイレクトに脳に取り込んでしまう。この排水ダクトの先にあるのは、第一管理区の人間たちが垂れ流した化学洗剤や、未処理の汚水。
現代の汚れた水は、彼らにとって猛毒であり、おぞましい精神的ノイズの塊なのだ。
「助け……て……」
水人間が、細い、頼りない「水の腕」をレンに向けて伸ばした。
その先端からは、ぽたぽたと雫が滴り落ちる。その雫が地面の乾燥した砂に吸い込まれ、一瞬で黒いシミを作るのを見た瞬間、レンの胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入った。
自分は国家の監査官だ。こいつを「資源」として専用のカプセルに回収し、本部に報告するのが義務のはずだ。
しかし、レンの手は電磁銃から離れていた。
代わりに、ベルトに差していた、唯一の配給水である「純水」のアルミボトルを手に取っていた。
レンはボトルのキャップを開け、苦しむ水人間の頭上から、惜しげもなくその透明な液体を注いだ。
ジュウ、と清らかな音が響く。
純水が混ざり合った瞬間、水人間の身体を満たしていた黒い斑点がみるみるうちに薄まり、本来の美しい透明度を取り戻していく。水人間は深く息を吐き出すような音を立て、その場にカサリと、安定した水の形を保った。
「……なぜ、助けた」
水人間の声は、今度は澄んだ鈴の音のようにレンの耳に届いた。
その響きには、どこか聞き覚えがあるような、奇妙な懐かしさがあった。
「わからない」
レンは乾いた唇をなめた。「ただ、お前がひどく渇いているように見えたからだ。……いや、渇いているのは、俺の方か」
水人間は、じっとレンを見つめた。その顔には目も鼻もないはずなのに、確かに強い視線を感じた。
やがて、その水面が小さく揺れ、彼女は静かに名乗った。
「ありがとう、監査官。私はサラ。……いや、かつてサラと呼ばれていた大洋の一部」
サラ。
その名を聞いた瞬間、レンの心臓が激しく跳ね上がった。
数年前、陸の生活に絶望し、静かに目の前から姿を消した、彼の最愛の女性。その名と、まったく同じだった。
(第1話 了)
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