第68話 雨夜を越え、来たる日を拓く
十一年前。
今は地図から消えた、辺境の美しい海村。
バビ・カル・シュヤパースは、そこで生まれ育った。
村を治めていた大好きな父、どんな海の幸でも美味しく料理してしまう大好きな母、将来は立派な冒険者になると言っていた可愛い弟。
綺麗な思い出を脳裏に浮かべながら、彼女はふらふらと夜の山中を歩いていた。
(……どうしてこんなことに? どうしてあんな怪物が村にきたの? どうしてみんなは──)
どれだけ問いかけても、答えをくれる者はいない。
あの雨の日、突如として村を襲った人の形をした恐ろしい魔物。
村に駐留していた兵士も冒険者も、そして木剣を構えて勇敢に立ち向かった弟も、次々と屠られていく光景を物陰から見ていた。
バビは親の最期の言いつけで、助けを呼ぶために村から逃げ出した。
だが隣の村までは馬車を走らせても七日はかかる。
幼い子供が歩き通せるような距離ではなかった。
ドサッ……
小さな体が地面へ倒れる音が、静かな山林に呑み込まれる。
喉は干からびて張り付き、空腹を感じないほど何も口にしていない。
あちこちが泥と擦り傷だらけで、もう指一本動かす力も残されていなかった。
(こんなことになるなら……私もみんなと一緒に死んじゃいたかったな……)
わずか八歳の少女が生を諦め、そっと目を閉じようとした時。
「こんな山奥に子供が一人行き倒れているとはね。これも妖精の導きなのかい……?」
生きた年月を感じさせる掠れた声。
身に纏うのは純白の外套。
腰には不釣り合いな二本の長剣がぶら下がっている。
長い白髪を夜空に揺らした老婆が、いつの間にかバビを見下ろしていた。
バビは手を伸ばして何か喋ろうとしたが、その前に意識を失った。
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パチパチと焚き火が弾ける音に目を開く。
少し古びたテントの毛布の中で、バビは痛む体を起こして辺りを見回す。
テントの隙間からそっと外を覗くと、焚き火を掻き回している老婆の背中があった。
「気がついたかい。死体になられちゃ寝覚めが悪い、薬が効いてよかったよ。やれやれ、これで一つ面倒が減ったね」
「あ、あの……あなたは……?」
「それはこっちの台詞さね。どうして子供が一人であんな山深くを彷徨っていたんだい? 遭難か、運悪く盗賊にでも襲われたかね」
その言葉が引き金となり、バビはあの惨劇の夜を思い出す。
テントを飛び出し、涙を流しながら支離滅裂な言葉で故郷の危機を訴えるバビ。
老婆はその様子を一瞥もせず、ただ黙って火を見つめたまま話を聞いていた。
「……その村、もう手遅れだろう。あんたの言ったその怪物、おそらくは邪人だね。個体によっては一国を滅ぼし、若い奴でも銀級冒険者一隊と同等の化け物さね」
老婆の配慮のない言葉に、バビは崩れ落ちた。
頭では分かっていたのだ、村の者では時間稼ぎすら無理なことくらい。
それでも心のどこかで奇跡を期待していた。
子供らしい幻想は、激しい涙となって頬を流れ落ちていく。
「体が動くようになったら、近くの村まで送り届けてやる。その後は……生き残りがいないか一応はその村を覗いてきてやるよ」
「…………やだ……いや、もう嫌だ!」
バビの叫びに、老婆はちらりとだけ首を動かした。
「なんで私だけ生きてるの!? みんな死んじゃったのにもう生きたくない! 生きてたって、きっと苦しいだけだもん!」
バビが心に溜まった絶望を吐き出すように叫び終える。
老婆はまた興味を失ったように、パチパチと燃える焚き火へと顔を戻した。
「……まあ、死にたいって言うんなら否定はしないさ。あんたが味わった悲劇なんて、この世界には掃いて捨てるほど溢れてる。耐えられないなら、ここで逃げるのも一つの手だろうね」
老婆は淡々と喋ると、ゆっくりと顔をバビの方へと向けた。
正面からその顔を見たバビは息を呑む。
老婆の顔には、おびただしい数の傷跡が刻まれていた。
口角は耳元まで裂け、目には眼球がなくぽっかりと穴が空いている。
鼻も耳も削ぎ落とされたように崩れており、無事なとこなど一つとして残されていなかった。
「だがねえ。倒れたあんたは、あたしの外套を掴んでいたよ。……親が何のためにあんたを逃がしたのか。あんたは死にたいのか、それともこれ以上苦しむのが嫌なのか。そいつを一度考えてみな、死ぬのはそれからでも遅かないさ」
バビは言葉に詰まった。
自分に逃げろと言い、邪人に向かっていった父と母の背中が頭に思い浮かぶ。
「今日はもう寝るんだね。あんたのことはあたしが守ってやる。安心して寝な」
老婆の素っ気なくも優しさのある言葉。
バビは頑なに眠るまいとしていたが、疲労がそれを許さなかった。
抗いきれない眠気に襲われて気絶するように眠りに落ちる。
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(……その後、私は師匠と村へ戻ったけれど、生き残りはいなかった。私の懇願で師匠との八年の修行と旅。そして独り立ちしてから三年……)
バビは自身の過去を思い返していた。
(私は、悲劇を少しでも無くすために生きている。戦うこと自体を楽しいと思ったことは一度もなかった)
この学園へ入学したのも、戦闘技術を磨くため、そして救済活動に卒業生の肩書が便利そうだったからに過ぎない。
(でもなんでかな……助手くんとの試合はちょっとだけ楽しみだな)
彼女の視線の先には木剣を握りしめ、真剣そのものの眼差しでこちらを直視するバルの姿。
「では、お互いに挨拶を!」
差し出されるバルの右手を、バビは握り返す。
「バビさん、全力で行きます。……手加減はしないでくださいよ?」
「うん。もちろんだよ」
しっかりと握手を交わした時。
バビの口から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。
「──助手くん。私が勝ったら、学園も冒険者も辞めて欲しいな」
唐突な言葉にバルが驚いて目を見開いた。
言った張本人であるバビ自身もまた、驚きに硬直している。
自分がなぜ、こんな我が儘な要求を急に口にしてしまったのか内心で困惑する。
「……バビさん。何の作戦か知りませんが、それで俺の闘志を折るつもりなら逆効果ですよ」
バルから発せられる気迫が跳ね上がった。
「でもその賭け、乗りますよ。一年必死に鍛錬を積んだのに、ここであなたに勝てないようじゃ、どうせどこかで死ぬ。……ただし俺が勝ったら、一つお願いを聞いてもらいますよ」
「……うん。……いいよ」
互いに距離を取り、武器を構える。
バビは右手に細剣、左手に逆手のナイフ。
対するバルは左手に片手剣、右手に投擲用の木玉。
まるで鏡合わせのように半身に構え、剣先を突き出し合う。
(……そっか。私は、助手くんにあの子を重ねてたんだ)
あの夜、木剣を握りしめて邪人に立ち向かった勇敢な私の弟。
なぜ自分がバルのことをからかい、気にかけていたのか。
気がついた瞬間、バビの脳は冴え渡るようだった。
バビは正面のバルを見据えると、彼女の能力が予兆を捉える。
(助手くん……君は、あと数年のうちに命の危機に陥る。……冒険者をしていれば普通のことだと思っていたけど、私は君に死んで欲しくない)
目の前にいる一人の冒険者が数年以内に迎える危機を今ここで叩き潰すため、彼女は覚悟を決めた。
譲れない意地と意地の激突。
どちらが未来を掴み取るのか。
バビの能力を以てしても、分からない領域だった。




