第92話 朱に染む剣、志ぞ立てり
水壁が立ち上がった瞬間、レギンは迅速に剣を抜き放ち、水壁を斬りつけた。
しかし水は一瞬で穴を塞ぎ、今や障壁も重ねられて檻となっている。
突破できないわけではないが、それには背後を警戒しなくてすむ状況が必要だ。
すなわち、目の前の敵を倒さねばここからは出られない。
「私はティム・ヴァンシュ・クル。ティムとは呼ぶな、クル様と呼ぶことを許そう。さあ、次は貴様が名を名乗れ」
丁寧に整えられた茶褐色の短髪、同じく茶褐色の瞳を宿した美男子。
身に纏う装備は豪華絢爛。
白く染められた革鎧は金銀の装飾で飾られ、要所は黒金で守られている。
見た目だけで言えば、辺境の村娘なら英雄だと勘違いするだろう。
「我は──」
レギン・ヘシマ・アヴァディス・キファルメ。
そう名乗ろうとして口を噤む。
(待てよ……こやつの顔、それにヴァンシュ・クルといえば、地方司法を担う伯爵家ではないか。さてはこやつ、我に気がついておらぬな?)
最後に顔を合わせたのは、七年ほど前の晩餐会だったかとレギンは思い起こす。
そしてこれは面白いと、悪戯げな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「我はレギン、姓はない。以後お見知り置きを」
「……レギンだと? ふん、分不相応な名だな。その名を名乗って許されるのは、この国で一人だけということを知らんのか」
(やはり気がついておらんな。しかし……名を出しても、我と結びつかぬか。これは後でたっぷりとからかってやれそうだ)
決闘の勝敗や、ラロと友人の関係がどう転ぶかは分からない。
だが後の楽しみが一つ増えたことにレギンはほくそ笑む。
「クル家相伝の剣技……貴様には過ぎたるものだ。その身をもって味わい、そして恐れるがいい!」
腰から引き抜かれた剣と構えられた三角盾は、警戒していたレギンが思わず見惚れるほどの物だった。
濡れたような銀色の刃は、素材に真銀を惜しみなく使っている証。
鍔は優美な鳥の羽を模しており、柄頭には大ぶりな魔石がはめ込まれている。
対する三角盾は、仄かに光る鈍い鼠色。
硬度のみを追求した、金剛鉄と呼ばれる錬金金属が使われていた。
「ほう……実に見事な武具だ。それに見合うだけの剣技、存分に堪能させてもらおう」
「煽てたところで手は抜かんぞ? 貴様も男児なら、さっさと構えたらどうだ」
レギンもまた自慢の武器を抜き放つ。
漆黒の尾棘に黒金が織り交ぜられ、真銀が塗布された細剣は、斬れ味を隠そうともしない烏の濡れ羽色をしている。
身に纏う黒々とした革鎧も、恒久的に状態を保ち続ける防具としても美術品としても理想的な逸品。
クルは思わず息を呑む。
「身の丈に合わない武具だな……いったいどこで手に入れた?」
「仲間と共に死線を越え、勝ち取った物さ。この世に二つとない無上の武具だ……やらんぞ?」
互いに勝るとも劣らない、拮抗した武具。
勝敗を分かつのは、積み上げてきた能力と技術、そして時の運。
レギンは右手に細剣を握り、切っ先を相手へ突きつけるように悠然と構えた。
クルは左腕の三角盾を前方へ突き出し、相手を威圧するように右手の剣を高く掲げる。
互いの視線が交差し、同時に動き出す。
「『碧血無窮』!!」
「我は『狩猟豹』」
クルが誇るように高らかに宣言し、レギンはそれに隠すよう声を落として宣言。
二人は疾風と迅雷となって駆け出した。
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剣戟が始まってわずか数分、レギンが落ち着き払っているのに対して、クルは焦燥感を抱いていた。
(な、なぜ一撃も当たらない……!? 剣法の心得があるというのか!? サマナ学園とは、魔物と力任せに戦うだけの粗暴な集団では……!?)
(ふむ、単純な身体強化能力か。我より速度も力もあるが、剣術は我の方が上だな)
クルの剣技は苛烈なもので、受け止められようと剣や防具の上から相手を叩き切るという気迫に満ちている。
常人であればその迫力に押され、叩きのめされていただろう。
だがレギンは冷静に攻撃を見極め、受け流し、逸らし、できた隙に細剣を突き出していく。
クルは辛うじて三角盾で防いでいるものの、動きを見切られるのも時間の問題だった。
(我はまだ『狩猟豹』しか使っておらん。クルは我の能力を身体強化か何かと思い込んでおるだろう……『鷹』で飛躍し、『大剣』で障壁を砕けば我の勝ちだな)
手を抜いているわけではない、これはチーヤーから教えられた対人戦術。
自身の能力を誤認させ、急な動きの変化で隙を生み出す。
基礎の基礎ではあるが、初見で対処できる者は限られるだろう。
レギンが一度息を整えるために後方へ跳び退くと、息を切らすクルはわなわなと震え出した。
「負けるわけにはいかない……! 家名を出した決闘、泥を塗ることなど断じて許されん……一族の名を汚すわけにはいかんのだ!」
クルが決意を叫ぶと、その目は据わり、顔は引き締まる。
レギンは心の中で評価を改めた。
(言動から貴族特有の傲慢さを感じていたが……それは傲りからではなく、一族への誇りゆえであったか)
ならばこちらも相応の敬意と覚悟をもって応えねばなるまい。
レギンは細剣を握り直し、気を引き締める。
「レギン……認めよう、貴様は強い。サマナの連中など手を抜いても勝てると考えていたが、私の思い上がりだったようだ。ここからは全霊をもって挑むが……卑怯などと言うなよ」
クルもまた奥の手を持っているのかと、レギンは腰を落として即応姿勢をとる。
だがどんな行動にも冷静に対処するつもりでいたレギンだったが、目の前の光景に呆然とする。
クルの取った行動があまりにも予想外だったからだ。
「な、何をしておる……!?」
「心配無用……私にとってこれは戦闘準備だ。せいぜい油断しないことだな」
地面へポタリと雫が落ち、土を赤く染める。
クルは自らの剣を左手に押し当て、そこから滴る血を武具に塗りつけ始めたのだ。
戦闘中、突然の自傷行為にレギンは内心大きく動揺する。
「待たせたな、奇襲をかけなかったことには感謝しよう。礼として、私の全霊を披露してやる!」
「それほどの自負……我を失望させるなよ!」
再び構え直す二人、だがクルの構えは先ほどと異なっていた。
剣を背後へ引いた構え、今まさに斬りつけるという体勢だ。
(この距離でなぜあの構えを? 高速移動か遠距離攻撃……何か来るな……)
「【凩の飛牙】ッ!」
クルがレギンへ向けて剣を振り抜く。
五メートルの距離、本来はなんら影響のない素振りのはずだった──
ピシッ!
レギンの障壁に一筋の亀裂が走った。




