7-4 愛すべき故郷へ
× × ×
二月の空は冷えている。
新大陸も奥州も空の温度はそれほど変わらない。横風に煽られるたびに背筋が凍りそうになるのも同様だ。
ジーナに言われたとおりに羊毛の外套を持ち込んでおいて正解だった。
衣服を着込みすぎると重量の問題で魔力消費が激しくなるのだが。背に腹は代えられない。せめて飛行高度は落としておこう。
前方にエピスの市街地が見えてくる。ライム北部最大の港湾都市だ。
幼少の頃、有名な古文学者に教えを乞うために父親と出向いた記憶がある。肝心の学者が死んでいたため、ただの小旅行になってしまった。今となっては良い思い出だ。
「空から見る星形要塞は綺麗だなあ」
街の上空に至り、思わず口から感想が漏れてしまった。
実際、エピス港の市街地を取り囲むように形成された尖形の稜堡・堀・斜堤の幾何学的な組み合わせは芸術そのものだった。
土木工事による地形改造の美を極めている。
前世紀の国王・アンリ五世はお抱えの技師に「長城」と呼ばれる国境要塞群を作らせたそうだが、その際の作品の一つなのかもしれない。
もう一つの経由地であるデュナミス港もまた壮麗無比な要塞都市だった。
やる気まんまんのラファエル兄さんには申し訳ないが。七百名程度の手勢では容易に跳ね返されてしまうだろう。
都市の外郭をなぞる水堀。敵の射線を阻む斜堤と逆茂木。
各所の稜堡には立派な大砲が備え付けられていた──よく見ると木製の模造品だった。
どこか別の場所に持っていったのだろうか。
兄さんが言うように「何かあった」のかもしれない。
「……次はあっちだ」
僕は方位磁石と地図を照らし合わせながら、ゆっくりと森のほうに飛んでみる。
海岸線を辿っていけば、港町にはいずれ行き当たるものだ。
しかし内陸にある城館を目指すとなると、話が変わってくる。
GPSのない世界である。
僕は地図上で目印になりそうな地形・建物に狙いを定め、短距離の飛行を繰り返す。
一気に目的地の方向に飛ぶよりも「確実な方法」だと魔法学校で教えてもらった。
手持ちの方位磁石の精度がもう少し高ければ、魔力消費を抑えるために最短距離を狙うところなのだが。
カミンスキ家の双子から高級品を借用するべきだったな。
まあ。去年大西洋を渡った時点では奥州の大空を飛ぶ予定など無かったから仕方ないか。
九年ぶりに訪れたファニョン伯爵領は雪が残っていた。
運河の土手で雪だるまが崩れている。傍らに座る子供たちが冷たい水面に釣り糸を垂らしていた。
周辺の畑では越冬を果たした小麦が顔を出す。緑の葉が何とも力強い。
遠方には白い丘が見える。あそこの木々は近隣住民の薪に活用されるため、年々禿山に近づきつつある。
新大陸にも似たような土地はあった。
しかしながら。
ここは景色も風も匂いさえも。
全てが懐かしい。
地上に降りた僕はしばし立ち尽くし、感慨に耽った。
紛れもなく。ここは我が故郷だった。
「お前、さっき空を飛んできた奴だな」
伯爵家の城館は共同体の役場に流用されていた。
守衛の中年男性が訝しげに話しかけてきたが、咄嗟に郵便業者だと方便を伝えたら「ご苦労さん」と解放してくれた。チョロい。
城館の内部は焼けた跡が残っていた。
豪奢だった壁紙と調度品が失われ、粗末な机と椅子が並んでいる。立ち入りが許された部屋に惜しむべき名残は見当たらない。
去り際、僕は領主の息子だとバレないことに一抹の寂しさを覚える。
今は相当に背が伸びた上、当時は部屋に引きこもって勉強漬けだったから当然といえば当然なのだが。
× × ×
その日の夕方。
王党派が占領した港に戻ってくると、ラファエル兄さんは立派な白馬に乗っていた。
地元の士大夫(学識のある領主)から献上されたらしい。
兄さんは随分と気に入った様子だ。さすがは元騎兵将校。慣れた手つきで馬の頬を撫でている。
「よしよし。国内には今も王家に忠誠を誓う者が多いようだ。息を潜める彼らと手を結べば、一気に国をひっくり返せるかもな」
「どの都市も守りは堅そうだったよ。兄さんの部隊には大砲が無いわけだし」
僕はすでに空中偵察の結果を報告している。
王党派の前衛部隊(七百名)の内訳は将校団以下、戦列歩兵一個梯団と若干の猟兵のみ。
野戦砲無しには要塞攻撃など考えづらい。
「無いなら手に入れりゃいいさ」
ラファエル兄さんは不敵な笑みを浮かべた。
妙に生き生きとしてらっしゃる。戦場が肌に合うのだろうか。
僕は念のため訊ねておく。
「どこで手に入れるの?」
「この近くに共和国軍が管理する城館がある。士大夫殿の話では、今は武器庫扱いされているらしい」
「それって元々その士大夫さんの城館なんじゃ……」
「そりゃそうだろ。まあ良い馬をいただいたお礼だよ。士大夫殿は居城を取り戻す。俺たちは大砲をいただく。革命派は死ぬ。低地方言で三方良しってやつだ! わははは!」
兄さんは馬上で酒を呷りつつ、大仰に笑う。
かつて自由気ままな放蕩息子だった頃の面影はそこには無く、王党派貴族の嫡男という役割を心身に染み込ませているように見える。
一度、弟の自分に全てを押し付けたという「引け目」が、今の兄の形を作り上げたのだろうか。
仮にそうだとしたら。何ともバツが悪い話だ。
× × ×
翌朝。
ラファエル支隊は王党派本隊の到着を待たずに南進を開始した。
一応、占領地のブランネ=ブリネ港には守備隊(五十名程度)を残している。その中には僕も含まれていた。
さすがに連日飛び続けると体内の魔力残量が不安になる。
飛行中に魔力切れを起こした魔法使いたちの悲惨な末路の例は、魔法学校で何度も習ってきた。
僕は落下傘で降りてきたところを狼に襲われたくない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
漁村の酒場で、焼き芋をいただく。
魔力を補給する。時間があるうちに少しでも食べておきたい。
前世のテレビゲームのように魔力ゲージが表示されたら便利なのだが。現実は「不安なら食べておけ」という故人の格言に尽きる。
昼過ぎになると酒場の客が増えてきた。王党派の兵士ばかり。それも袖口が濡れた者が多い。
どうやら王党派本隊が本格的な上陸を始めたようだ。
僕は酒場を飛び出し、漁船が並ぶ砂浜へ向かう。
バストン王国海軍の帆船が沖合に停泊していた。十人乗りの短艇に乗り込んだ王党派の将兵が、続々と本土上陸を果たしていく。
その中にはファニョン伯の姿もあった。
「父上。ご無事で何よりです」
「おおジャン。お前こそ元気そうで良かった。計画通りに橋頭堡は抑えられたようだな」
「ラファエル兄さんが近郊の武器庫を攻撃しています」
「早々に計画を壊してくれる。まあ構わん。上陸さえ果たせば、それで良い」
父親は早くも満足そうだった。
形はどうあれ。長かった亡命生活を終えられた。臥薪嘗胆の日々は過ぎ去った。祖国に戻ってこられた。そんな感じだろうか。
ファニョン伯以外の王党派貴族も衛兵に守られながら上陸してくる。
総指揮官・王弟トッキ公は船酔いに苦しめられていた。他の貴族たちも気分が悪そうだった。
対照的に連合王国の援軍を率いるルイス・マングスター卿は元気そうに砂浜の感触を楽しんでいらっしゃる。
栗色の癖毛が海風に靡く。天真爛漫な若者に見えるが、僕より年上だと聞いている。
ふと、波間に戯れる彼と目が合った。
「……ジャンの兄者!」
兄者。年長者からそう呼ばれる日が来るとは思わなかった。
いやいや。序列がおかしい。相手は僕の婚約者クレアのお兄さんだったはずだ。つまり僕の義兄にあたる。
「兄者! これまでロクにご挨拶できず申し訳ない! 共に轡を並べられること、弟は誇りに思いますぞ!」
「お待ちくださいルイス卿。弟を名乗るべきは僕のはずです」
「いいや。兄者はクレイグ兄様と婚約されたのですから自分の兄者なのです。こればかりは天地がひっくり返ろうとも覆りませぬ!」
やたらと力強く手を握られた。
どうにも会話が通じなさそうな印象を受ける。ただ善人であることは無垢な笑顔を見ればわかる。一切の邪気を感じない。
彼女の秘密を言いふらすような発言の意図は気になるところだが。
僕は少し探りを入れたくなったが、やめておいた。周りに人目がある。経典曰く「果物の木の下で帽子を正さず陣中で」という。他国の貴族に対して怪しまれるような行動は避けるべきだ。
ルイス卿は比較的小柄な人物だった。子供っぽい顔つきからして従軍経験があるようには見えない。
実際、彼の私設連隊の指揮は代理の軍人が担っているようだ。スチュアートと名乗る中佐が挨拶してくれた。こちらは緋色の肋骨服を着込んだ色黒の大男だった。
「スチュアートと申します」
「ジャン・ド・ファニョンです」
「クレア様の婚約が決まった時、ルイス様は兄上が増えたと大変なお喜びようでした。私どもには意味がわかりかねますが、そういうお遊びの様子ですのでお付き合いください」
「……わかりました」
何となくマングスター伯爵家における次期当主ルイスの扱いが見えてくる。
とはいえ。互いにまだ二十歳を過ぎたばかりだ。お家の方々にはこれからの活躍に期待していただくとしよう。
「兄者! クレイグ兄様を大切にしてくださいませ! あの方はとても苦労された方なのです。自分は兄様に幸せになっていただきたい!」
「ルイス様。我々の連隊も上陸が始まっています。カーネル・イン・チーフとして兵士たちをお迎えください」
「うむ。その役はスチュアート、お前に任せよう。自分は兄者から幸せにすると約束を取り付けなければ」
「行きますよ」
「ぬおおおおおお」
ルイス卿が屈強な男たちに連行されていった。
揃いの緋色の軍服に身を包んだ彼らマングスター連隊が、今回の作戦の実質的な主力となる。
部下たちに両脇を固められ、抵抗を諦めたルイス卿の様子に目を細めていたら、不意に背中を叩かれた。
愛すべき女性がそこには居た。
「ジャン様。一昨日ぶりです」
「ジ、ジーナじゃないか。どうしてこんなところに」
「そんなの便利な『本棚』が無いと困る人がいるからに決まってるじゃない。はあ。ジャン様の物覚えが悪いせいで苦労させられちゃうわ~」
「飛ぶだけなら大丈夫だよ」
「うふふ。いざという時は、あたしを担いで海の向こうまで飛んでくださいませ」
彼女は浜辺ということもあり、指先でスカートの裾を持ち上げていた。そのまま脚を交差させ、頭を下げると礼法通りの挨拶となる。
冗談めかした表情が可愛らしい。
僕たちは危険な戦場に来たはずなのに。背景も相まって、楽しくデートしている気分になった。
とんでもない錯覚だ。
「兄者! 何者ですかその女性は!」
隙を見てスチュアート中佐の拘束を脱したらしいルイス卿が、ものすごい勢いで砂浜を駆け寄ってくる。
何者と問われても「我が家の従者です」としか答えようがない。今は。
自分としては、わざわざ危険な前線まで身を挺して付いてきてくれた人を。建前であってもそう呼びたくない気持ちが沸き上がっているのだが。
「す、す、すごくエッッッッッッッッチですね!」
「は?」
ルイス卿のストレートな表現に、僕は思わず声が出てしまった。
たしかに上陸の時に濡れてしまったのか、彼女の服は若干透けて見えるけれども。
色っぽいだなんて。余所の家の関係者にかけるべき第一声ではないだろう。
正直に言えば。気分が良くない。
「兄者、ここは一つ、クレイグ兄様と同じように一旦養女としてファニョン伯爵家に迎えていただき、その上で自分の伴侶としてお迎えさせていただけませんか。絶対に大切にします」
「ルイス卿には申し訳ありませんが、彼女は僕の内縁の妻です」
「ああっ!? あ、兄者には兄様が居るでしょうが!?」
「ルイス様」
左手の手袋を外そうとしたルイス卿を、スチュアート中佐が制止する。
もしかして今。彼は決闘を申し込もうとしていたのか。杖を持った魔法使い相手に。
実兄の名誉をかけて。
その心意気に僕は素直な感銘を覚えた。
この小柄な男はおそらく本当に家族思いで良い人だ。そして長生きしそうにない。
「……ジャン殿。両家の間に良からぬ確執を作らないでいただきたい。冗談は程々に」
「あたしもジャン様には日頃から『天子に戯言無し』と言っているんですよ。なのにつまんない冗談を言うものですから」
僕は両家の従者から言動を嗜められる。中佐はともかくジーナ本人にすら冗談として処理されてしまった。
出来れば言い返したい気分だったが。すでに衆目を集めてしまっている。僕は一旦引くことにした。
この戦争が終わったら、彼女とは存分に話し合いたい。
僕の冗談は別につまらなくないはずだ。
× × ×
二月十六日。
ラファエル兄さんから興味深い情報がもたらされた。
「ライム国内で『英雄包囲網』が形成されている、だと?」
「地元の新聞記者から聞き出しました。英雄率いる中央政府に従わない地方の有力者たちが手を組んでいるようです」
兄さんは港町の教会内部に設けられた司令部で、父であるファニョン伯に報告を行う。
ちなみに先日の武器庫襲撃は成功したらしい。教会の庭先には旧式の野戦砲が並んでいた。
ファニョン伯は卓上の全国地図に目を向ける。
地図上には反英雄連合の拠点を示すように小石が並べられていた。僕たちのいる北海岸にも灰色の石がある。
「北海岸では旧コンスタン派……王殺しの実行犯どもが、英雄マルシュルとの敵対を選んだのだな」
「はい。革命派の仲間割れです」
「もはや七夕革命は自壊したと見える」
「さらに西海岸では地元の塩賊が事実上の独立国を形成、南西地方では教会と百姓一揆が広がりつつあります」
「我ら王党派が漁夫の利を得たい局面だ。王弟殿下。いかが致しましょう」
ファニョン伯が上座にいらっしゃる王弟トッキ公に判断を仰ぐ。
荒事に詳しくないトッキ公は目を泳がせると、傍らに控えていたスチュアート中佐の肩を叩いた。
「おい。バストン人。玄人の意見をくれ」
「承知しました。小官が考えますに、ここは深入りするべきタイミングではありません」
スチュアート中佐の発言に司令部がどよめく。
何なら主君のルイス・マングスター卿も目を丸くしていた。
トッキ公は怪訝そうに訊ねる。
「我らの好機ではないのか?」
「おそらく反英雄連合軍はライムの中央にある首都を目指します。その途上で防衛側のマルシュル元帥と会戦になるはずです」
「まあ。そうなるじゃろうな。王都を抑えなければ、ライム全土を抑えたとは言えんからの」
「両軍の予想される決戦地は、おのずと王都周辺になります。ここは内陸の平原なのです」
「それが何か問題なのかね」
「負けた時に逃げ道が遠すぎます。我々は北から海を渡ってきたわけですから」
「勝てば良いではないか」
さらりと無茶を言ってくるあたりに王族の血を感じる。
対してスチュアート中佐は率直に物申す男だった。
「今のマルシュル元帥に勝てる将などいません」
「戦う前から弱気すぎないかね」
「殿下。烏合の衆を各個撃破するのは元帥の得意技です。我ら連合王国もあの男のことは研究しております」
「しかし王を殺した革命政府には『徳』が無い。天運はこちらにあると考えるべきではないか?」
「恐れながら殿下。今のライム市民は概ねマルシュル元帥に心酔しております。あの男に歯向かった者こそが『不徳』とされるのです」
「我々を愚弄するでない! 庶民上がりが!」
両者の相性はよろしくなかった。
すかさずルイス卿が身振り手振りで中佐に言動を控えるように命じ、司令部から追い出してしまった。
残された面々は顔を見合わせ合う。
反英雄連合軍に協力するべきか。それとも別の形で漁夫の利を得るか。
王党派としては悩ましい状況だった。
ここで僕の父親が挙手を行う。
「……王弟殿下。ここは二虎競食の計を用いましょう」
「ほう。さすがはファニョン伯。古典の応用じゃな。聞かせてみよ」
「反英雄連合軍は王党派ではありませぬ。所詮は反乱分子。味方にはならんでしょう。ゆえに敵同士を争わせるのです」
「しかし今のままではマルシュル元帥が勝ってしまいそうだが」
「であればこそ。有利な状況にあるマルシュル軍の兵力を我々王党派が引きつけるのです」
ファニョン伯は図上で計略の内容を説明する。
前提として、反乱分子同士の争いを互角に持ち込むことができれば、戦いが長引いて両者は疲弊し、王党派は漁夫の利を得やすくなる。
具体的には今から王党派の全戦力で、共和国中央政府が抑えている王国北東部を攻め落とす。
当然ながらマルシュル元帥は対応のために配下の将軍を派遣してくると予想される。つまり敵方は兵力の一部を割くことになる。
これによりマルシュル元帥と反英雄連合軍の戦力差が、互角に近づく──まさに二匹の「虎」を共倒れさせるための計略だった。
さらに王党派は海岸に近い占領地を得ることにもなる。
スチュアート中佐が抱いていた危機感を踏まえた作戦に、トッキ公は拍手で応えた。
「見事。ファニョン伯の献策に感謝する。すぐさま作戦に移るのだ」
「仰せのままに」
王弟殿下の号令が出た。居並ぶ面々は恭しく頭を下げる。
「さあ荷造りを始めるぞ!」
作戦会議が終わった途端、教会内部の司令部は俄かに忙しくなってきた。約三千五百名もの人間を動かすためには膨大な段取りが必要になるらしい。
僕は教会の外に出た。
「やっとオレたちも故郷に帰れそうだな」
「そうね。あたしの実家の焼け跡をようやく拝めそうだわ」
「そんなもん見てどうすんだよ」
「ざまあみろって舌を出すのよ」
庭先でラファエル兄さんとジーナが喋っていた。
目的地の王国北東部の中には当然ブランシュ州も含まれる。先日僕自身が偵察してきた地域だ。ジーナの実家は見てなかったな。
「兄さん。父上も故郷に戻りたいのかな?」
「亡命生活中は泥酔するたびに『ブランシュで死にたい』とは言ってたな。もうあの人も年だからな」
「そのために今回の作戦を出したわけではないと思うけどね」
「どうだか。こう言っちゃなんだけど。オレたちの父上の頭には『旗竿の家紋』と『禁色のローブ』以外、何も無いぞ」
ラファエル兄さんが話した『旗竿の家紋』とはファニョン伯爵家の紋章のことだ。
初代以来、脈々と受け継がれてきた。
禁色のローブは言わずもがな。国王から院試合格者に与えられる「進士及第」の証である。
今は王都の市場で高値で取引されているらしい。
兄は傍らの野戦砲を撫でる。
「オレも他人のことは言えないけど。オレの場合は家名のこと以上に……自分の名を上げたいってのが強いからな」
「ファニョン伯ラファエルの称号では兄さん的に不満なの?」
「伯爵家はジャンが継げば良いだろ。学校の友達にもう伯爵って呼ばせてやがるくせに」
「あれは勝手に付けられた渾名だから」
「わはは。冗談抜きでお前にやるよ。美人な嫁さんと後継ぎ作って、気楽にやってくれ。全部オレのお下がりで悪いけどな」
ラファエル兄さんは高笑いしながら司令部に戻っていった。
何となくジーナに目を向けると、不服そうに頬を膨らませていた。
「違いますからね」
「僕は何も言ってないよ」
「ジャン様以外に身体を許した覚えはありませんから」
「それはまあわかってるよ」
「……あのカス野郎。昔から気に入らないのよ。あの何でも茶化すところが」
「ジーナもわりと他人の話の腰を折りがちだと思うけど」
「何か言ったかしら?」
往年の家庭教師時代のように圧をかけてきた彼女だが。今となっては上目遣いが愛らしいばかりだ。
僕は彼女のおでこに口づけした後。
今度は南のほうに飛んでみることにした。




