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5-2 望郷


     × × ×     


 北大西洋では時計回りに風が吹いている。

 新大陸北部から奥州ヨーロッパに向かう帆船は『偏西風』の後押しを受け、文字通り順風満帆に進んでいく。

 出港から一ヶ月も経たないうちに、水平線の向こうに陸地が見えてきた。


 僕は甲板から前方の海を見渡す。

 正直。特筆すべき事柄が少ない船旅だった。ほとんど荒波に揉まれることなく、底冷えに苦しむこともなかった。

 強いて挙げるなら一度だけ海賊船(と思われる船)に追いかけられそうになった程度だ。僕の風魔法で振り切ったが。


「ファニョンきょう。おかげ様で助かった。一時はヒヤヒヤしたもんだわ」


 初老の男性が声をかけてくる。

 よほど気が抜けていたらしい。毛皮の中折れ帽が横風で吹き飛んでいくのが見えた。

 すかさず彼の従者たちが拾いに向かう。海に落ちるまでに間に合うかな。


「おっと失礼。本国の紳士どもに美しい高級毛皮ビーバーの帽子を見せつけてやろうと企んでおったのだが。おお、ナイスキャッチ! いいねえ!」


 男性は従者の元に駆け寄り、接吻キスを与えた。

 彼の名はサイモン・ホワイトマン氏。

 愛嬌のある顔は周囲からたこに例えられる。分厚い唇で所構わず接吻を繰り返す悪癖の持ち主で、僕も航海中に被害にあった。

 この人がニューバストン新政府の外交使節団長でなければ、その場で日干しレンガ(乾パン)をぶつけていたかもしれない。ジーナが。


「にょはははは。グレート・バストン島が見えてきた。久しいわい、久しいわい。我が故郷よ!」

「ホワイトマン大使閣下は本国生まれなのですか?」

「大昔に両親と大西洋を渡ったんだわ。独立前まで何度も商売で戻ったが、いつ見ても故郷は良いのよ!」


 ホワイトマン氏は茶色の中折れ帽を被りなおし、目を細める。


 故郷と言えば。

 ファニョン家の城館は今頃鮮烈な緑葉と、小麦畑の黄金に染まっているはずだ。

 木漏れ日の運河にはブロシェ、サンドルといった美味しい川魚が姿を見せ、地元の子供たちがよだれと釣り糸を垂らす。

 その中には往年の兄の姿もあり──。


 こういう時に日本時代の光景が出てこないあたり。僕も異世界このせかいの生活が長くなった。

 某県某市の思い出など学習机との対話が大半を占めるのだが。それでも愛すべき故郷のはずだ。

 近頃はあちらの両親の顔を思い出しづらくなり、時々寂しい気持ちに陥る。


 前世の安藤三郎が死んだのは二十歳だった。

 もうすぐジャン・ド・ファニョンはその年を迎えようとしている。


「ファニョン卿」

「は、はい。何でしょうか。大使閣下」

「そなたも早く故郷に戻れる日が来るとよいな」


 ホワイトマン氏に元気づけられた。

 彼が奇行の持ち主でありながら外交使節団長を任された理由がよくわかる。愛嬌のある笑顔に絆されてしまうのだ。



     × × ×     



 一七九三年・七月中旬。

 木造帆船『ラストフライト』号はテムズ川の船着き場に到着した。

 僕たちは大使閣下に付き従う形で船を降りる。


「大使、講和条約はどうなりますか!」「植民地が単独でやっていけるというのは田舎者の思い上がりでは!」「庶民院の反応は!」「女王陛下にお悔やみの言葉をかけられますか!」


 荷捌き場は地元の新聞記者であふれかえっていた。

 ホワイトマン氏は質問に答えることなく、例の笑顔を振りまきながらバストン外務省の公用馬車に向かう。

 僕は外交官身分ではないが、特別に同乗を許された。大使曰く「護衛を頼む」とのこと。


 御者ぎょしゃ輓馬ばんばの尻を鞭打ち、車窓の景色が流れ始める。

 バストン連合王国の首都であるシティ・オブ・ブリスレンは、古代帝国の要塞グスターから発展した町だという。

 現在の人口は約四十万人。奥州屈指の大都市だ。


 灰色のレンガで組み立てられた街並みからは気品を感じられる。曇天も相まって落ち着いた雰囲気だ。

 街路は石灰岩で舗装され、丁字路の突き当たりには守護聖人の像が飾られていた。

 女主人が切り盛りする商店からは揚げ物の匂いがする。古書店街には魔法関係の事務所もあった。探偵事務所のようだ。


 川沿いのいくつかの街区を抜けると赤レンガの王宮が見えてくる。

 近衛兵と鉄柵に守られた女王陛下のお住まいである。


 ホワイトマン氏は車止めで馬車を降りた。黒基調の礼服と、首元の白いスカーフが映えている。

 後は自慢のビーバー生地の中折れ帽をかぶり、杖を持ち歩けば、元果物屋の自分も一端の紳士に見えるのだよ!

 そんな強弁が大きな背中から聞こえてきそうだった。


 王宮に向かう大使閣下を見送り、僕もまた馬車を降りる。さすがにバストン外務省の馬車で宿舎に送ってもらうわけにはいかない。


 周辺の街路にはホワイトマン氏の部下である新大陸の外交官たちが集まってきていた。

 彼らは暗殺を逃れるために帆船も馬車も分乗してきたそうだ。

 一人でも生き残れば、ニューバストン代表として女王陛下と話し合いができる。

 今この場所は平和な街角だが、彼らにとっては戦場と地続きのようだった。



     × × ×     



 僕はブリスレン市内を散策しながら宿舎に向かう。

 時には一人で歩くのも悪くない。


 川沿いでは製糖所が建設されていた。工場内に巨大な蒸気機関が見える。鉄製の湯沸かし器が蒸気の力でシリンダーを往復させる形式だ。

 人力・家畜・自然・魔法より効率的な動力源の出現は、奥州史の推進力となるだろう。

 産業革命、工場制機械工業、生産手段の私的所有、資本の蓄積、資本家の勃興──前世の世界史用語が脳裏に浮かぶ。


 人間が手作りできる物量には限界がある。

 恋する乙女が毛糸のマフラーを一ヶ月かけて手編みする間に、縫製工場の労働者は機械の力で数百枚のズボンを生産できる。

 資本家は生産物を売り捌き、手にした利益を新たな工場の建設に投じる。社会全体で生産力の拡大が加速していく。

 資本家の献金を受けた政治家は原料供給源と販売先(市場)を求め、海外進出の傾向を強める。


 遠くない未来、異世界は工場で作られた「商品」に席巻されるはずだ。

 前世の僕たちが歩んできた歴史と同じように。


 もっとも。必ずしも連合王国が「世界の工場」に成り上がるとは限らないが。

 どこかのタイミングでライム国内の内乱が終結すれば、膨大な労働人口を保有するライム国内にも近代的な工場が作られるはずだ。

 軽工業──繊維産業の原料となる木綿(綿花)は、異世界では奥州で自給自足できる。炭鉱・鉄鉱山も潤沢にある。


 工業製品の原材料が奥州ヨーロッパに存在する。いわば低難易度イージーモードな状況が、逆説的に海運大国・連合王国の優位性を失わせている。

 だからこそ、連合王国はライム国内の王党派を支援し、革命派との内戦を長引かせようとしているのだろう。

 自国が世界経済の主導権を握り続けるために──。


「お帰りなさいませ。ジャン様」


 僕が宿舎の玄関口に到着すると、ジーナが出迎えてくれた。傍らにはマケル老人の姿も見える。

 二人とも長旅の後だけに立ち姿に疲労が滲んでいる。

 僕は途中の店で手に入れた揚げ菓子の袋を彼らに手渡した。


「二人ともわざわざ外で待ってくれていたの? 別にゆっくりしてたらいいのに」

「そういうわけには参りません。ジャン様に客人が来られています」

「客人?」

「あたしらはドーナツをいただきますから。ジャン様は水入らずの再会を味わってくださいな」


 ジーナに手を引かれ、僕は宿舎の二階に上がる。

 廊下の応接机に家族が座っていた。

 思わず涙がこぼれそうになったが、その前に母親に抱きしめられた。懐かしい匂いがした。


「ジャンよ。久しいな」

「元気だったか?」


 父であるファニョン伯と、ラファエル兄さんの声が聞こえる。

 決して望んでいたわけではないが。

 不思議と、夢の中にいるような気分だ。


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