29. 嵐の前の
「申し訳ありません。フォジュト様。」
「いいえ。私も途中で行きたくなるだろうと思っていました。…エヴァさんたちに感謝ですね。」
少し恥ずかしがりながら返事を返す。ユディタは付き合わせてしまったことを申し訳なく思っているようだったけれど、私だって年頃の娘。殿方もいる前で「お手洗いに行きたいから待って」と言うのに抵抗があるのは同じなので、自然な流れで休憩を取れてホッとしていた。
「——どうかしたのですか?」
じっとこちらを眺める視線に問う。
「ええっと、その、フォジュト様がお優しい方で良かったなって。」
「へ?」
予想外の言葉に、間抜けな声が出てしまった。少し恥ずかしそうにチラリとこちらを伺うユディタは、私の困惑した視線に応えて続ける。
「貴族様というだけで、私にとっては遠い存在ですし、フォジュト様は特に有名ですから。平民と一緒に行動することに抵抗がおありではないかと…本当は今日の課外授業、心配だったんです。でも、私達にも普通に接してくださいますし。」
嬉しいのだと言って小さく微笑みかけてくれる彼女は、森の精ように愛らしい。
「ありがとう。私も皆さんと同じ班で良かったと思います。グスタフさんは…うん。彼も、裏表はありませんし…。正直に言うと貴族同士の、あの腹を探り合うような社交は苦手ですから。」
貴族の社交は打算塗れなものが多い。上辺だけの社交辞令に、腹の探り合い、他人の粗探しと、ドス黒くてほんとに恐い。それに加えて、シアと契約を交わした後は『数世代ぶりにゾエの精霊と契約を成したフォジュト家の令嬢』を、自分の陣営に取り込もうと近づく者が後を絶たない。
私欲で恩恵に預かろうとする者を、シアが許すはずなかったが、強引な手段をとる者までいた…。『貴族だから』と一括りに捉えるのは間違いだとわかっていても、これまでの出来事は、貴族に対して苦手意識を持つには十分過ぎた。
「あー。やったこと無いからわからないですけど…楽しくはなさそうですね。」
「ええ、本当に。」
ユディタの『想像しただけで御免です。』という態度が可笑しくて思わず笑うと、彼女も笑い出し、2人でくすくすと笑い合う。その後も、とりとめのない話しをしてだいぶ打ち解けることができた。初めは遠慮していたユディも、自然な話し方をしてくれるようになった。
「そういえばエヴァンジェリンさんはとても気配りのできる方ね。」
エヴァは記憶を無くした所をオリヴィアに助けられたらしい。名前はオリヴィアがくれたもので、姓はオリヴィアと同じ『ベルカ』を名乗っているのだと言っていた。自然体なのに美しい所作は、『実は貴族でした』と言われた方が納得できる。失った記憶に何があったのかしら?と気になってしまう。
「エヴァちゃんはとっても聡いの。特にヴィアの変化にはすぐに気づくよ。」
ユディは普段の様子を思い出したのか、暖かいけれど少し呆れの混じった笑顔を浮かべている。第一印象では少し気が弱くて、妖精のようにふわふわした少女という雰囲気だったユディ。その実、彼女は商人の血をしっかりと受け継いでいるようで、良く人のことを観ている。商家のご令嬢にしては体力もあるし、森の虫に怯えることもなく、見た目よりずっとしっかりした子みたいだ。そんなユディが、『聡い』と評するエヴァ——
今日の彼女の様子を思い返してみる。森に入ってから、オリヴィアが汗をかけばタオルで拭い、適度に水分を取らせて、躓けば転ぶ前に支え——『友達』というか、随分と過保護な親か何かのよう。
「ユディから見て2人はいつもああなの?」
「うん。本当の家族より仲良しかも。」
「ディエ、それからユディ、だったかしら?」
いつも間にか戻って来て、2人の交流を見守っていたシア。普段あまり会話に混ざらないシアの声に、振り返って彼女の顔を見ると、思いのほか真剣で、思わず立ち止まる。
「シア様?」
「——そのエヴァ、という子のことなのだけれど。」
「エヴァンジェリンさんがどうかしたのですか?」
エヴァンジェリンさんの話が出てから思案気な表情をしていたが、ゆっくりと、けれどしっかりとした口調で続ける。
「絶対に敵に回さないようになさい。」
「——?どういうことですか?」
どうしてそのようなことを言うのか気にかかる。ユディも不思議そうにしているし。
「…兎に角、仲良くなさい。わかった?」
「え…。あ、はい。」
なんだか腑に落ちないと思っていると、シアが首に腕を回して後ろから覆いかぶさってくる。そっと耳元に口を寄せると、
——わからないの、私にも。だけどあなたを守りきる自信が、ない…。ねえ、だから言う通りに。いい子にして?
そのままぽそりと囁いた声は弱々しい。こんなに自信のなさそうなシアは初めてかも知れない。
(エヴァさんって、いったい何者なのかしら…?)
回された腕をぎゅっと握り返して「大丈夫ですよ、何も心配いりません。」と伝える。さっきエヴァのことを過保護だと思ったけれど、この背に負ぶさったままの精霊様も随分と過保護な一面が会ったことを思い出す。
そうして微妙な空気になったところで、
「リーデちゃんさえ良ければヴィアやエヴァとも、もっとお喋りしてみたらどうかな?きっと仲良くなれると思うよ?」
「そうね。…手伝って、くれる?」
「もちろん!」
シアの様子を気遣ってか、提案してくれる。ユディの、心からの優しい言葉にほっこりした気持ちになる。
(今日、ユディと同じ班になれて本当に良かった。)
「ありが…」
ガアアアアアアァ———!
「きゃっ!」
「っ!…魔獣!?」
和やかな空気をぶち壊す猛獣の咆哮が聞こえた。
「ディエ。」
シアが魔獣のいる方角を示す。それは、班のみんなが休憩を取っているはずの方角。
「そんな…」
「大丈夫よ、ユディ。私の側を離れないでね。」
(ここまで大きな声で啼く魔獣がこの辺りに出るなんて…)
実習前に聞いた情報では、遭遇する可能性があるのはコボルトなどの低ランクの魔獣のはずだった。けれどもさっきの咆哮は、低ランクの魔獣が出したものとは思えない。ユディも同じことを考えたようで、顔を青くしている。
焦る心をどうにか押さえ込んで、みんなの元へ走る——




