ep3 内部改革
財務部の一件から数日後。
「リリア、次は内政部を見る」
「内政部、ですか。かしこまりました」
内政部長の名は、メルティナ。案内されて現れたのは、線の細い、物静かな女だった。眼鏡もかけず、化粧気もない。だが所作の一つ一つに、几帳面さが滲み出ている。
「魔王様。お呼びと伺い、参上いたしました」
「メルティナだな。単刀直入に聞く。内政部の一番の問題はなんだ」
「……問題、でございますか」
メルティナは、わずかに視線を落とした。
「特にございません。すべて、先代様からの規定通りに、滞りなく」
――《回答に違和感があります》
(分かってる)
「規定通り、というのは?」
「村ごとの徴税記録、人口台帳、農地の管理台帳。すべて、決められた形式で、決められた頻度で、報告しております」
「その台帳、村一つにつき何枚ある?」
「……村の規模にもよりますが、平均して三種類、それぞれ別の書式でございます」
「三種類? 同じ情報を三回書いてるってことか?」
「いえ、記録する項目が微妙に異なりますので、それぞれ別物という扱いに」
――《実質的には重複記録の可能性が高いです》
(だよな)
「その三つの台帳、突き合わせたことは?」
「……突き合わせる、とは」
「三つの数字が一致しているか、確認したことはあるかと聞いている」
メルティナは、初めて言葉に詰まった。
「……ございません。それぞれ別の担当者が、別々に管理しておりますので」
「じゃあ、もし三つの台帳の数字が違ってたら、どれが正しいんだ?」
「……それは……」
長い沈黙があった。
――《似たような事例が、前世の記憶にも存在するようです》
(ある。部署ごとにExcelを別々に作って、誰も統合しないから、会議のたびに数字が合わない、あれだ)
「試しに、適当な村を一つ選んで、三つの台帳を突き合わせてみてくれ」
「……畏まりました」
半日後、メルティナが青ざめた顔で戻ってきた。
「魔王様。ボルガ村の人口記録が、台帳によって、二百人から三百四十人まで、ばらついておりました」
「百四十人の差、それはもう別の村レベルだな」
「申し開きのしようもございません……」
「それで、実際にどんな問題が起きてる? 人口が正しく把握できてないと、何に困る?」
「……食糧の配給と、徴税の両方に影響が出ます。配給は少ない方の記録を基準にしていたため、ボルガ村は長年、実際の人口より少ない分しか食糧を受け取れていませんでした」
「……それ、村人が飢えてたってことか?」
「飢えるほどではありませんが……冬場は特に、配給が不足気味だったという報告が、複数の村から上がっております」
数字がずれているだけ、では済まされない。誰かが実際に、腹を空かせていたということだ。
メルティナは深々と頭を下げた。その肩が、微かに震えている。
「メルティナ、責めてるわけじゃない」
「……え?」
「これは、お前個人のミスじゃなくて、仕組みの欠陥だ。三つの部署が、それぞれ独自にデータを持って、誰も統合していない。これじゃ、正しい数字なんて分かりようがない」
――《いわゆる「サイロ化」の状態です》
(そうだ。各部署が自分のデータしか見えなくて、全体像が誰にも分からなくなる)
「メルティナ、方針を決める。今日から、村の記録は一つの台帳に統一する。担当者ごとに別々の書式を作るのを禁止する」
「……一つに、ですか。しかし、それぞれの部署には、それぞれ必要な項目が……」
「共通の台帳に、必要な項目を全部載せればいい。同じ情報を三回書く手間もなくなる」
メルティナは、恐る恐る尋ねた。
「……もし、統一した結果、記録に不備が見つかったら」
「見つかったら直せばいい。むしろ、今まで見つからなかったことのほうが問題だ」
「…………」
メルティナは、しばらく黙り込んでいた。そして、絞り出すように言った。
「魔王様。私は、ずっと恐ろしかったのです」
「何が」
「規定から外れたことをして、間違っていたらどうしようと。先代様の代から続く形式を崩して、責任を問われたらどうしようと」
「…………」
「ですが、今のお言葉で、少し分かりました。恐れて何もしないことのほうが、結果的に村の民を苦しめていたのかもしれません」
「その通りだ」
俺は頷いた。
「間違いを恐れて何もしないより、間違いに気づいて直すほうが、よっぽど価値がある」
メルティナは、初めて微かに笑った。硬い表情の下に、ずっと隠れていたものが、少しだけ覗いたような笑みだった。
「畏まりました。台帳の統一、すぐに着手いたします」
そう言って一礼するメルティナの頬が、わずかに赤らんでいることに、俺は気づかなかった。
規定に縛られ、誰にも心を開いたことのなかった女が、初めて「間違ってもいい」と言ってくれた誰かに出会った。それがどれほどの意味を持つのか、本人自身もまだ、うまく言葉にできずにいた。
台帳の統一作業は、数日で目に見える成果を出した。
正しい人口に基づいて配給量を計算し直した結果、ボルガ村をはじめとする七つの村で、長年不足していた食糧の配給量が是正された。
「まさか、こんなに早く食糧が増えるとは……」
現地から届いた報告書には、そう書かれていたという。
「たった一つの台帳を統一しただけで、七つの村が助かったのか」
――《正確には、統一そのものよりも、正しい数字に基づいて判断できるようになったことが要因です》
(分かってる。だが、きっかけは台帳の統一だ)
小さな仕組みの歪みが、見えないところで、誰かの生活を確実に削っていた。そして、それを正すだけで、目に見える形で暮らしが良くなる。前世でも、今世でも、変わらない真理だった。
「頼む」
メルティナが退室すると、リリアが感心したように言った。
「メルティナ様が、あんな風に笑うところ、初めて見ました」
「そんなに硬い人だったのか」
「はい。規定を守ることに、命を懸けているような方でしたので」
「今度は、村の民のために、その真面目さを使ってもらう」
――《着実に、成果が積み上がっています》
(一つずつだけどな)
その時だった。
メルティナが退室したあと、俺はリリアと共に、内政部が管轄する城下の村を一つ、見に行くことにした。
巡回、という名目だったが、実際のところは、自分の目で確かめておきたかった。台帳の数字の向こうにある、本当の暮らしを。
「リリア、ここはボルガ村、だったな?」
「……はい、その通りですが」
リリアが、わずかに首を傾げた。
――《先ほど内政部の記録で確認済みの情報です。あなたが知らないはずがありません》
(分かってる。だが、いちいち「AIが教えてくれた」とは言えないだろ)
「ザーク様?」
「いや、確認事項をリリアの口から直接聞きたいだけだ」
「……わ、私の口から、ですか」
リリアの顔が、ふわりと赤くなった。
(また変な方向に伝わってる気がするな)
――《七十八パーセントの確率で、誤解が発生しています》
(黙ってろ)
「ザーク様は、他の誰でもなく、私に確かめたいと……」
「いや、そこまでの意味はないんだが」
「分かっております。分かっておりますとも」
まったく分かっていなさそうな顔で、リリアは何度も頷いていた。
村に入ると、そこには、拍子抜けするほど普通の光景が広がっていた。
畑を耕す魔族。井戸端で談笑する女たち。そして――。
「魔王様だ!」
小さな魔族の子供たちが、駆け寄ってきた。角の生えた子。尻尾のある子。皆、無邪気な顔でこちらを見上げている。
「今日は何をしに来たの?」
「巡回だ。皆、ちゃんと飯は食えてるか?」
「うん! でも、お母さんが最近、お仕事忙しいの」
「そうか」
俺はしゃがみ込んで、子供の頭を軽く撫でた。
「もう少し待っててくれ。今、忙しいのを減らしてる最中だ」
「ほんとに?」
「ああ」
子供は嬉しそうに笑って、また友達のところへ駆けて行った。
その様子を遠くから見ていた母親らしき女が、慌てて駆け寄ってきた。
「も、申し訳ございません、魔王様! うちの子が、失礼な口を利いて……!」
「いや、別に失礼なことは言われてないが」
「し、しかし、魔王様に馴れ馴れしく話しかけるなど……」
女は青ざめた顔で、何度も頭を下げていた。
――《先代の統治下では、村人が魔王に気安く近づくこと自体が、恐怖の対象だったと推測されます》
(だろうな。この怯えようを見れば分かる)
「大丈夫だ。子供が無邪気に話しかけてくるのは、悪いことじゃない」
「……え?」
「むしろ、それでいい。誰も彼も俺を怖がって黙り込む城より、よっぽど健全だ」
女は、しばらく呆然とこちらを見ていた。
「魔王様は……以前とは、まるで違う方のようですね」
「そうなのか?」
「はい。以前のザーク様は、村に立ち寄られても、誰とも言葉を交わされることはございませんでした。ただ黙って見て回るだけで……村の者たちも、息を潜めてやり過ごすのが常でした」
「…………」
その光景が、なんとなく想像できてしまった。誰も口を利かない、視線だけが通り過ぎていく巡回。
「今は、少し違うやり方を試してるだけだ」
「……ありがとうございます」
女は、まだ戸惑いを残したまま、それでも少しだけ表情を緩めて、子供の元へ戻っていった。
その隣で、リリアはずっと、こちらを見つめていた。
(……凛として、誰とも言葉を交わさなかった以前のザーク様も、格好良かった。でも)
子供の頭を撫でながら笑うザーク様を見て、リリアは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じていた。
(子供と戯れるザーク様……くらう……)
どちらも同じ人のはずなのに、まったく違う魅力を放っている。リリアにとっては、それがずるいとさえ思えた。
同時に、心のどこかで、小さな違和感が芽生え続けていた。
言葉遣い。物の考え方。誰かを気遣う仕草。倒れて目覚めてから、ザーク様は明らかに、以前とは違う人のようになった。
(まるで、中身が入れ替わってしまったような……)
その考えに、リリアは自分で気づき、そして、それ以上考えるのをやめた。
たとえ中身が誰であろうと、目の前で子供たちに笑いかけ、村人の不安に寄り添おうとしているのは、紛れもなく今のザーク様だ。
(何も、聞かなくていい。今のザーク様が、ザーク様だから)
リリアは、その違和感を、そっと胸の奥にしまい込んだ。
――《この光景は、あなたが想像していた「魔王軍」とは異なるようです》
(正直、もっと物々しいものを想像してた。血生臭い軍事組織みたいなやつを)
――《実態は、村の平和と子供たちの暮らしを支える、ごく普通の共同体です》
(人間だった頃と、何も変わらないな)
俺は立ち上がりながら、そう思った。魔王軍という物々しい名前の裏にあるのは、結局のところ、誰かの日常を守るための、ただの組織でしかなかった。
リリアが、隣でそっと呟いた。
「ザーク様。この村の平和も、あちらの村の平和も、全部、魔王様が守るべきものです」
「大袈裟だな」
「大袈裟ではございません」
その時だった。
「失礼します!」
伝令の魔族が、息を切らせて駆けてきた。
「何事だ」
「国境の偵察部隊より、緊急の報告です」
伝令は、地図を広げながら続けた。
「人間側から、また新たな『勇者』が派遣された模様です」
「また、か」
リリアが小さくため息をついた。
「人間は、こちらが何を言っても、聞く耳を持ちません。魔族というだけで、話し合いの余地すら与えてくれず、ただ討伐対象として送り込んでくるのです」
「今回の勇者は?」
「かなりの実力者との報告です。加えて――我が軍の四天王のうち、東の砦を預かるガレオン様の管轄地域に向かっているとのことです」
「四天王のガレオンが、直接対応することになるのか」
「はい。ガレオン様は東方防衛部を統括されている一人でして」
「四天王も、それぞれ部署を持ってるんだったな」
「はい。ガレオン様は防衛、他にも内務、外交、そして諜報を、それぞれの四天王が担っております」
俺は地図に目を落とした。国境の向こうから、また一人、こちらの話を聞く気のない人間が、剣を片手にやってくる。
「……正直、戦いたくはないんだがな」
――《意外な発言です》
(意外か?)
――《いいえ。あなたの言動は一貫して、戦いを厭わない生活とは無縁でした。ただ、その発言をわざわざ口に出したこと自体が、意外だったというだけです》
(そもそも戦いなんて、本当にあるのか? 俺は元人間だぞ。今の見た目はともかく、中身はただの社畜だったPMだ。剣も魔法も使えない人間に、戦えって言われても無理に決まってるだろ)
――《訂正します。こちらの世界では、魔王という存在自体が強大な戦闘力を保有していることが前提のようです》
(は?)
――《参考までに、あなたの現在のレベルをお伝えします》
(レベル? ゲームじゃあるまいし)
――《レベル9999》
「…………は?」
思わず声が出た。
「ザーク様?」
「いや、なんでもない」
(お前、その数字、おかしくないか? カンストしてるとかそういう次元じゃないだろ)
――《同意します。ちなみに、あそこに歩いているペットは2です》
「2?」
窓の外を見ると、内政部の職員が飼っているらしい、小さなスライムのような魔獣が、のんびりと廊下を歩いていた。
(あの、ぷるぷるしてる奴が、レベル2?)
――《はい。参考までに、村の一般的な魔族の平均レベルは12前後です》
(じゃあ俺、村人の平均の八百倍以上あるってことか)
――《正確には八百三十三倍です》
(正確に言うな、余計虚しくなる)
――《さらに参考までに、先代魔王のレベルは320でした》
「せ、先代より三十倍以上……?」
――《はい。あなたは歴代の魔王の記録上、圧倒的な外れ値です》
(外れ値って言うな。人をバグ扱いするな)
――《事実です》
「お前、その一言で全部片付けようとするのやめろ」
――《効率的だからです》
(開き直り方が清々しいよ、ある意味)
あのぷるぷるしたスライムペットと、自分との間にある、途方もない差。数字にされると、逆に実感が湧かない。前世で「年収が何億」と言われてもピンとこないのと、同じ感覚だった。
「……とりあえず、レベルの話はもういい」
(そういうところだぞ、お前)
――《補足します。レベルとは無関係に、あなたが戦闘を望むかどうかは、あなた自身が決めることです》
(急にまともなこと言うじゃないか)
――《ただし、あなたが「望まない」場合でも、この身体は勝手に反応する可能性があります》
「……それ、一番怖い話なんだが」
――《事実です》
「事実ですって言えばいいと思ってるだろ、お前」
――《はい》
「開き直るな」
――《新しいスキルを習得しますか?:『闘争本能の抑制』》
「習得する」
――《承知しました。『闘争本能の抑制』を習得しました》
――フォン。
頭の中で、まるで携帯電話の充電が完了したような、間の抜けた効果音が鳴った。
(今の音、なんだ)
――《習得完了の通知音です》
(もっと厳かな音とかないのか、こういう時って)
――《ご要望があれば、変更可能です》
(別にいい)
(本当に習得できるのか、これ)
――《効果のほどは保証しかねます》
「そこ保証してくれよ、一番大事なところだろ」
――《そこ、大事ですか?》
「大事に決まってるだろ! 俺が知らないうちに暴走するかもしれないって話だぞ!」
――《失礼しました。優先順位を見直します》
「お前、人の心を読むなよ」
――《読んでいません》
「読んでるやん、今」
――《読んでいません》
「さっきから、俺が口に出してないことにまで、的確に返してきてるだろうが」
――《それは推測です。読んでいるわけではありません》
「その言い方、余計怪しいんだよ」
自分の意思とは無関係に、身体だけが戦闘用にできている。それはそれで、また別の意味で恐ろしい事実だった。
さっき見た村の光景が、頭から離れなかった。畑を耕す魔族。無邪気な子供たち。あの日常を壊してまで、戦う理由なんて本当はどこにもない。
「リリア」
「はい」
「いつか、人間とも、ちゃんと話ができるようになればいいんだがな」
「……世界平和、ということですか」
「大層な言い方をすれば、そうなる」
リリアは、少し驚いたようにこちらを見た。それから、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ザーク様らしい、遠い目標ですね」
「遠すぎて、今は笑い話にもならないけどな」
まずは、目の前の勇者だ。そして、東の砦のガレオン。内政部の改革は途中だが、これもまた、避けて通れない現実だった。
部屋に戻ってから、俺はふと、さっきのレベルの話を思い出した。
(そういえば、先代のレベルは320だったよな)
――《はい》
(崩御した時の記録も、320のままか?)
――《いえ、崩御の直前は、8まで落ちていました》
「……8? 三百二十から?」
――《はい》
(何があったんだ、それ)
――《在位二百年、休養日数ゼロという記録と合わせて考えると、単純な過労による衰弱と推測されます》
「……レベル320の魔王が、過労で八まで落ちるものなのか」
――《レベルは肉体的な強さの指標であり、精神的・肉体的な消耗には抗えないようです》
「魔王でも、働きすぎには勝てないのか」
――《どうやら、そのようです》
(それはそれで、身も蓋もない話だな……)
懐にしまったままの、あの赤い封蝋の紙の感触を、思い出した。
『改革は、成し遂げる前に殺される』
(これも、要するに「働きすぎて死ぬ前に、志半ばで終わる」って意味だったのかもしれないな)
――《その解釈は、これまでの記録と矛盾しません》
「他人事じゃないな、これは」
自分もかつて、同じような死に方をした身だ。先代の轍を踏むわけにはいかない。
「リリア」
「はい」
「俺自身も、しっかり休む。改革は、俺が倒れたら意味がない」
「……はい。仰る通りです」
こうして、魔王城改革プロジェクトは――村の平和という、守るべきものの姿をはっきりと見せながら、話の通じない人間たちとの新たな局面、そして「働きすぎは魔王にも勝てる」という、身も蓋もない教訓を胸に、次の段階へと進んでいくことになった。
いつか、戦わずに済む日が来るのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。




