ep24 魔王城の朝と湖の主
アルトバイエルでの数日を終え、ザークは帰り道湖畔の道を見ながら整備箇所を検討しながら魔王城へと帰った。
窓の外には、見慣れた黒い城壁と、どんよりとした魔族領特有の曇り空。
(うんうんただならぬ雰囲気、帰ってきたな……)
ほっと一息ついたのも束の間、部屋の扉がすっと開き、城の門兵達が扉を開けた。
「お帰りなさいませ、魔王様」
「ああ、ただいま」
リリアはふと足を止め、じっとザークの顔を見つめてきた。
「……ザーク様」
「な、なんだ」
「打ち上げがあったあの夜、セレナと何かありましたか?」
「なっ――」
その一言で、ザークの心臓が、一気に跳ね上がった。
「な、なぜそう思うんだ! 何もない、何もないぞ!」
盛大に狼狽えるザークを、リリアは無言でじっと観察している。
――《ザーク、声が裏返っています》
(うるさい! 今それを言うな!)
「……別れ際の、セレナ様のあのお顔」
リリアが、そっと目を細める。
「女性の勘、というやつです」
「か、勘て。そんな曖昧な根拠で……」
「曖昧、でしょうか」
リリアの目が、すっと光った。
「アルトバイエルでは、到底理解されないでしょうから。くれぐれも、お気をつけてくださいね」
低く、それでいて有無を言わせない声。
ザークは、思わず背筋を伸ばした。
「は、はい……」
「返事は一度で結構です」
「……はい」
きつめのお叱りに、ザークはすっかり縮こまってしまった。
(やはり、リリアには敵わないな……)
――《リリアの恋愛関係の察知能力に関しては、私でも敵いません。女は怖いですよ。》
(お前まで負けを認めるのか)
気を取り直し、ザークは久しぶりに魔王城の中を見て回ることにした。
長い廊下を歩いていると、帰るや否や執務室の隅の机で、誰かが書類に向かっているのが見えた。
「……ガレオン?」
覗き込んでみると、ガレオンが右手にウインナー、左手にペンを持って、真剣な顔で書類とにらめっこをしている。
「こら、ガレオン。行儀が悪いぞ」
「はっ! ザーク様、おはようございます!」
ガレオンが、慌てて背筋を伸ばした。
「朝から、魔獣の分布の資料をまとめてるのか」
「はい! アルトバイエルへ行っている間の分も、まとめて片付けようと思いまして」
「そうか。えらいぞ」
ザークは、感心しながら書類を覗き込んだ。
そこに描かれていたのは、魔獣の生息域を示す地図――のはずだった。
だが、地図の余白という余白に、小さなウインナーの絵が、びっしりと描き込まれている。
「……お前、ウインナーが好きすぎて、ウインナーの絵、描いとるー」
「うっ」
「どれだけ好きなんだ、お前は」
思わず笑ってしまうザークに、ガレオンは耳まで赤くしていた。
「あ、あの、それは、その……」
「まあいい。それより」
ふと、ガレオンが視線をザークの方に上げた。
「ザーク様。お行儀が悪いのは、僕だけですか?」
「な――」
ザークの体が、ぴしりと固まる。
(まさか、こいつにもバレているのか……?)
――《残念ながら、女性陣はすでにそういう雰囲気になっております》
(なんと!)
ガレオンの目が、少しだけ、ガルガルと不穏な光を帯びていた。
「……ザーク様」
「な、なんだ」
低い声だった。
ザークが身構えていると、ガレオンは不意に、両手でザークの手をぎゅっと取った。
「ザーク様が決めたことなら、僕は何も言いません」
「ガレオン……」
「でも」
その目は、まっすぐだった。
「決めたなら、しっかり、僕だけじゃなくて、みんなを守ってほしいんです。悲しい思いは、させないでほしい」
いつものはしゃいだガレオンとは、まるで違う顔だった。
まだ幼さの残る表情の奥に、確かな覚悟が見える。
ザークは、その手を、しっかりと握り返した。
「分かっている」
静かに、けれどはっきりと告げる。
「お前たちに、決して悲しい思いはさせないと誓う」
「……本当ですね?」
「本当だ」
ガレオンは、しばらくザークの目を見つめていたが、やがて、いつもの人懐こい笑顔に戻った。
「じゃあ、いいんです!」
ぱっと表情が晴れやかになる。
切り替えの早さは、相変わらずだった。
「あっこの匂いは」
「来ますよザーク様」
「何が来るんだ?」
そんなやり取りをしていると、廊下の向こうから、いい匂いが漂ってきた。
「ザーク様、ガレオン様。朝食の準備が整いました」
顔を出したのは、キャロットだった。
ガレオンはすごい速さで食卓へ走って行った。
「どれだけ鼻がいいんだか」
「さあ、朝食にしましょう」
窓から差し込む朝の光が、いつも通りの魔王城の廊下を、静かに照らしていた。
(……色々あったが、やっぱりここが一番落ち着くな)
――《本日の予定は、通常業務プラス、リリア様からの追加質問攻めが予想されます》
(言わなくてもいい)
朝食を終えたザーク達は、さっそく橋の建設現場へと向かった。
アルトバイエルとシャウエッセルを隔てる、あの大きな湖。
その岸辺には、すでに資材が運び込まれ、ちょっとした作業場のような空気が漂っていた。
「ザーク様、お待ちしておりました」
出迎えたのは、ボルガだった。手には、丸めた大きな図面を抱えている。
「設計図は仕上がったか」
「はい。橋脚の間隔、強度計算、耐水処理まで、全て詰め込みました」
広げられた図面には、細かい文字と数式がびっしりと書き込まれている。
「相変わらず、仕事が速いな」
「魔王様のためですから」
ボルガは、いつものように胸を張った。
その姿に、ザークはふと苦笑する。
(また無理をしてないだろうな、こいつ)
《先日の吐血事件のことを覚えていらっしゃるようですね》
(忘れるわけないだろ)
「では始めまゴフッ」
「やっぱり無理してだじゃないか」
「すいません。設計図完成間近に城壁を歩いていましたら外堀に落ちまして…」
「ただの不注意!」
しれっと回復魔法をかけとく。
「よし。役割分担を確認する。設計はボルガ、形にするのは小鉄、魔力は俺が出す」
「かしこまりました」
呼ばれた小鉄が、とてとてと足音を立てて駆け寄ってくる。
チワワそっくりの丸い顔が、期待に満ちた目でザークを見上げていた。
「小鉄、頼むぞ」
「クゥン!」
任せろと言わんばかりに、尻尾がぶんぶんと揺れる。
湖畔に立ったザークは、静かに両手を掲げた。
「まずは、柱からだ」
図面の指示通りに、魔力を練り上げていく。
「小鉄、頼む」
小鉄が、湖に向かって小さく吠えた。
ズズズ、と地鳴りのような音が響く。
湖の水面から、太い石の柱が、ゆっくりと姿を現し始めた。
一本、また一本。
対岸に向かって、等間隔で、次々と柱が突き立っていく。
その光景は、まるで湖の上に、巨人の足跡が刻まれていくかのようだった。
「な……」
ボルガが、口を開けたまま立ち尽くしている。
「まさか、こんな短時間で……」
柱は、あっという間に湖の中央あたりまで到達していた。
水しぶきを上げながら、規則正しく、まっすぐに、対岸へと続いていく。
「これは……これは、神の力ではないかと、思ってしまうほどです」
ボルガが、震える声で呟いた。
「大袈裟だな。ただの土木工事だ」
「ザーク様普通の土木工事で柱を建てるにはまず水をせき止めたりなど行う必要が」
――《ボルガの言っていることは正しいです。そのまま水の中から柱を出す事など普通は出来ませんよ。》
(確かに前世ではそう言う光景を見た事があったな)
「ま、まあ、よし、これで土台は完成だ」
湖面には、対岸まで一直線に並んだ、頑丈な柱の列ができていた。
「では、次は橋桁だ。小鉄、いけるか」
「クゥン!」
小鉄が再び吠えると、柱と柱の間に、木材と石材を組み合わせた橋板が、次々と架けられていく。
まるで編み物が仕上がっていくように、橋は着実に、その姿を伸ばしていった。
「ちょうど半分ぐらいだな」
ザークが、額の汗を拭いながら湖の中央を見やった。
対岸まで、あと少し。
その時だった。
ざざざ、と湖の水面が、不自然に波立ち始めた。
「……ん?」
風もないのに、波が次第に大きくなっていく。
――《ザーク。湖の底から、強い魔力の波を感じます》
(魔力の波?)
ザークは、眉をひそめて湖面を見つめた。
水の下から、じわりと、こちらを見透かすような気配が伝わってくる。
「ザーク様……!」
ボルガの声が、緊張で強張っていた。
「これは……もしかすると、この湖の主かもしれません」
「主?」
「はい。はるか昔からこの湖には、主が棲むという言い伝えがあります。滅多に姿を見せないと聞いていましたが……」
言い終わらぬうちに、湖の中央――ちょうど橋が途切れている場所から、水柱が轟音と共に噴き上がった。
「うわっ!」
小鉄が驚いて、ザークの足元にしがみつく。
「お前黒龍の次に強いゴーレムだったのに完全に犬じゃないか」
水しぶきの向こうに、巨大な影が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
水中から巨大な瞳が光った。
噴き上がった水柱が、ゆっくりと収まっていく。
その中心に、長い首をもたげた、蛇のような巨躯が浮かび上がってきた。
全身を覆う鱗は、深い群青色。陽の光を受けて、ぬめりと不気味に光っている。体の太さだけでも、成人男性が数人並んで手をつないでようやく囲めるほどだろう。
湖面から突き出た首の高さは、すでに橋の柱を優に超えていた。
「……でかいな」
ザークは、思わず素直な感想を漏らした。
《体長、推定80メートル以上。魔力反応は、先の黒龍に匹敵します》
(黒龍クラスかよ)
小鉄が、ザークの足元でぷるぷると震えながら、それでも歯を剥いて唸っている。健気だが、正直、あまり役には立たなそうだった。
「よしよし、小鉄は隠れてろ」
「クゥーン……」
ザークが優しく頭を撫でると、小鉄は少しほっとした様子で、それでも警戒だけは崩さずにいた。
巨大な影は、しばらくの間、ただじっとこちらを見下ろしていた。
攻撃してくる様子はない。
「ボルガ。さっき、主の言い伝えがあると言ってたな」
「は、はい……」
ボルガは、湖の主から目を離せないまま答えた。
「詳しく聞かせてくれ」
「え、あ、はい。昔からこの湖には、主が棲むと言われております。滅多に人前には姿を現さず、湖の秩序を守る存在だとか」
「秩序を守る、ね」
ザークは、腕を組みながら考え込む。
「なあ、ボルガ。一つ聞きたいんだが」
「はい、なんでしょう」
「なぜ橋の計画が出た時にみんな言わなかったんだ?」
「あ……すっかり頭から忘れておりまして。」
ボルガが、勢いよく頭を下げる。
「忘れてたって、お前……」
――《ザーク、ボルガは生粋の職人気質です。橋の設計に集中すると、他のことが頭から抜け落ちる傾向があるようです》
(それにしたって、限度があるだろ!)
ザークは、こめかみを押さえながら、深いため息をついた。
(先に言ってくれれば、もう少し違う準備をしてたのに……)
「ちなみに、これまでその主とやらの姿を、実際に見た者はいるのか?」
「いいえ。誰一人として」
ボルガは、首を横に振った。
「言い伝えだけが、ずっと語り継がれてきただけです。姿を見た者も、戦った記録も、何一つ残っていません」
「つまり、実在するかどうかも定かじゃなかった、と」
「……お恥ずかしい話ですが、その通りです」
「今、目の前にいるけどな」
「はい。今、目の前にいますね」
二人揃って、湖面に浮かぶ巨大な影を見上げた。
伝説上の存在だったものが、今まさに、現実として目の前に立ちはだかっている。
「セレナやリーゼは、この話を知ってたのか?」
「伝承としては知っていたかと思います。ただ、実在すると信じている者は、ほとんどいなかったはずです」
「だったら、両国が橋をかけようとしなかったのは、単に『言い伝えを信じていたから』ってことか?」
「そう……なりますね」
ザークは、額を押さえたまま、もう一度ため息をついた。
(先代からの言い伝えってやつは、馬鹿にできないもんだな)
――《伝承や迷信の類は、時に、科学的な根拠以上に人の行動を縛ります。今回のように》
(お前が言うと、妙に説得力があるな)
そうこうしている間にも、湖の主は、じっと動かないまま、こちらを見つめ続けていた。
ザークは、静かに湖の主に向き合う。
敵意を放っている様子はない。
だが、明確な威圧感が、ひたひたと肌を刺してくる。
「なあ、お前は、俺たちが橋をかけようとしてるのが、気に入らないのか?」
問いかけてみたが、当然のように、返事はない。
ただ、巨大な首が、わずかに傾いた。
まるで、値踏みでもするように。
「……ザーク様、お下がりください」
ボルガが、剣の柄に手をかけながら、ザークの前に進み出ようとする。
「いや、待て」
ザークは、片手でそれを制した。
「まだ、何もしてきてない。話し合いで済むなら、それに越したことはない」
――《慎重なご判断です。とはいえ、油断はなさらないでください》
(分かってる)
その時だった。
湖の主の、鱗に覆われた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
これまで閉ざされていた双眸が、まっすぐに、ザークを捉える。
ぎょろりと、その両目が、鈍く、怪しい光を帯びた。
だが、それ以上、主が動くことはなかった。
しばらく睨み合う形になったが、やがて水面下へと、ゆっくり姿を沈めていく。
「……行ったか」
ザークは、詰めていた息を、静かに吐き出した。
「よし。あいつが完全に潜った今のうちに、正体をはっきりさせておくぞ」
――《かしこまりました。これまでに得られた情報を基に、分析を行います》
「頼む」
――《まず、外見の特徴について整理します。体長は推定八十メートル以上。全身は深い群青色の鱗に覆われ、水面から突き出した部分は、細長く、まっすぐに伸びていました》
「ああ。蛇みたいだったな」
――《その点について、一つ訂正がございます》
「訂正?」
――《当初、ザーク様が『首』と認識されていた部位ですが、あれは首ではなく、長い触腕の一本だった可能性が高いです》
「触腕……?」
ザークは、眉をひそめた。
――《はい。水中に沈んでいた本体は、蛸や烏賊に近い、頭足類特有の構造を持っていたと推測されます。水面に現れていたのは、その一部――無数にある触腕のうちの、一本にすぎません》
「じゃあ、あの水柱は」
――《おそらく、複数の触腕が、同時に水を掻き分けて浮上した際に生じたものです》
(つまり、あれ一本だけじゃなくて、もっと何本もあるってことか……)
ザークの背筋に、ひやりとしたものが走った。
「その特徴、何か心当たりはあるか?」
《はい。伝承や外見的特徴を総合する――と、これに近い存在が、一つ考えられます》
《――クラーケンです》
「クラーケン?」
――《かつての世界のはるか昔、北方の海に伝わっていたとされる伝説の怪物です。巨大な蛸、あるいは烏賊のような姿をしており、無数の触腕で船を絡め取り、そのまま海の底へと引きずり込むと言われていました》
「船を、引きずり込む……」
――《伝承によれば、クラーケンが動くと、周囲に巨大な渦潮が発生し、近づいた船は為す術もなく飲み込まれるとされています。また、その巨躯ゆえに、目撃者の多くは、海面から突き出た一部だけを見て、これを島や岩礁と誤認したという記録も残っています》
「島や岩礁って……とんでもない図体だな」
――《一説には、体長は数百メートルに達するとも言われています。今回確認された個体は、それに比べれば、まだ小柄な部類かもしれません》
「小柄って言われても、全然安心できないんだが」
ザークは、こめかみを押さえた。
――《なお、伝承の中には、クラーケンは決して好戦的な生物ではなく、縄張りに近づいた者を排除しようとするだけだ、とする説もあります。今回の個体も、積極的に攻撃してきたわけではなく、様子を窺っている段階でした》
「つまり、こっちが余計なことをしなければ、案外話は通じる可能性もある、と」
――《可能性は、ゼロではありません》
「ゼロではない、か」
ザークは、静まり返った湖面を見据えながら、小さく息を吐いた。
正体不明の化け物ではなく、名前のある存在だと分かっただけで、不思議と、少しだけ肝が据わった気がした。
「なあ、ボルガ。主の弱点とか、何か知ってるか?」
「い、いえ……申し訳ございません。存在自体、今初めて聞きました」
「そういえば伝承の最後に名前らしきものが記されていたのを思い出しました。」
「それはなんだった?」
「確か」
「クランケン」だったと
(フランケンみたいなったな)
ザークは、苦笑した。
――《弱点に関する明確な記録は、現時点では見つかっておりません。ただし、頭足類である以上、急所は本体――触腕の付け根に集中している中枢部にある可能性が高いです》
「本体、ね」
問題は、その本体が、今もまだ湖の底に隠れたままだということだった。
「よし。とりあえず、正体は分かった」
ザークは、拳を握りしめる。




