外伝シークレット 月湯の湯船
晩餐会の幕が下り、設計のたたき台も出揃った頃には、城の廊下はすっかり静まり返っていた。
ザークが廊下を歩いていると、後ろから控えめな足音がついてくる。
「ザーク殿」
「ああ、セレナか。ちょうどよかった」
振り向いたザークは、少しだけ声を落として言った。
「二人だけで話したいことがある。……お前の寝室に、行きたいんだが」
セレナの足が、ぴたりと止まった。
(寝室、二人きり、夜……)
彼女の顔が、ゆっくりと、首筋まで赤く染まっていく。
「…………はい」
消え入りそうな声だった。
彼女は、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめ、覚悟を決めたように、まっすぐ前を向いて歩き出した。
――《ザーク様。今、セレナ様が何か盛大に誤解されているように見えます》
(誤解? 何をだ)
《ご自分の胸に、お聞きください》
(聞いても分からん)
セレナの寝室は、広かった。
大きな窓から月明かりが差し込み、天蓋付きのベッドと、部屋の隅の広い空きスペースを、青白く照らしている。
「セレナ。あの隅っこ、何か置いてるか?」
「え? いえ、何も……」
「そうか。ちょうどよかった」
ザークは、腰のマジックバッグに手を突っ込むと、ずしりと重たい音を立てて、檜の香りがする湯船を取り出した。
「今日見せた風呂だ。お前のこの部屋に、据えてやりたくてな」
「…………」
「魔石も一式つけておく。水と湯の切り替えは、この石を指で押すだけだ。排水は、下の浄化石を通して……セレナ?」
「あ、はい。お風呂。お風呂、ですね」
セレナは、ぽかんとした顔で、湯船とザークの顔を交互に見つめていた。
一気に力が抜けたのか、肩がすとんと落ちる。
(私、何を一人で覚悟を決めて……)
だが、すぐに彼女は、そっと口元を押さえて微笑んだ。
「このお風呂に、この城で入れるなんて、夢のようです。ザーク殿、ありがとうございます」
「喜んでもらえたなら、何よりだ」
ザークは、ほっと息をつく。
その様子を、セレナはじっと見つめていた。
少しだけ、悪戯っぽい光を目に宿して。
「では、試してみましょう」
「ん? 何をだ?」
「湯加減です。せっかくですから、一緒にどうですか?」
「いや、俺は――」
「ザーク殿。動かないでくださいね」
言うが早いか、セレナの指が、ザークの上着のボタンにかかった。
「お、おい! 自分で脱げるから、待て!」
「だめです。私が、するのです」
「なんで急に強気なんだよ!」
――《胡椒の効果でしょうか》
(胡椒にそんな作用はない!)
気づいたときには、ザークは半ば強引に服を脱がされていた。
月明かりの下、湯船から立ち上る湯気が、ふわりと部屋を満たしていた。
向かい合って湯に浸かる二人は、どちらも目を合わせられず、湯面ばかりを見つめている。
(なんだこの状況は。)
ザークの心臓は、太鼓のように鳴っていた。
「ザーク殿」
「な、なんだ」
「お背中を、お流しします」
「いや、自分で洗える」
「いえ。洗いたいんです」
有無を言わせない口調だった。
ザークは、観念して湯船の縁に座り、背を向ける。
泡立てた石鹸を手にしたセレナの指が、そっと、彼の背中に触れた。
「……っ」
柔らかくて、温かい。
肩から、首筋、そして腕へ。
ゆっくりと、丁寧に、彼女の手が肌の上をすべっていく。
(落ち着け。これはただの入浴だ。ただの入浴……)
そう自分に言い聞かせても、心臓の音がうるさくて、思考がまとまらない。
やがて、その手が前へと回り込み、胸元へ。そして、さらに下へと向かおうとした。
「そ、そこは、いい!」
「大丈夫です」
セレナは、静かに囁いた。
「私に、任せてください」
その声があまりにも優しくて、ザークは、抵抗する気力を失った。
(……ああ、もう、いいか)
彼は、目を閉じて、セレナに身を委ねた。
前世でも今世でも、経験したことのない感覚。
体の内側から、何かが溶けていくような心地よさ。
(意識が飛びそうだ)
《生存確認です。ザーク生きていますか?》
(……なんとか)
やがて、セレナの手がゆっくりと離れた。
「次は、ザーク殿の番です。洗っていただいても、よろしいですか?」
「あ、ああ……」
石鹸を受け取ったものの、ザークの手は、緊張で微かに震えていた。
どこに触れればいいのか、どうすればいいのか、頭の中が真っ白になる。
すると、セレナがそっと、ザークの手を取った。
そして、そのまま、自分の胸元へと導く。
「……っ!」
手のひらに伝わってくる、早鐘のような鼓動。
(この人も、こんなにドキドキしていたのか)
そう気づいた瞬間、ザークの中の緊張が、ふっとほどけた。
「……大丈夫だ。ゆっくり、やるよ」
「はい……」
泡のついた手が、優しく、丁寧に、彼女の肌を撫でていく。
セレナは、唇を噛みしめて声を殺していた。
それでも、こらえきれない小さな吐息が、湯気の中に溶けていく。
「セレナ。苦しくないか?」
「いいえ……あの、やめないで……ください」
ひとしきり体を洗い終えた頃、セレナは、そっとザークの手を取った。
その手を、さらに下へと導こうとする。
「セレナ、そこは……」
「さっき、ザーク殿だって、私の手を止めなかったじゃありませんか」
「うっ……それは、そうだが」
「……意地悪です」
拗ねたように唇を尖らせる彼女に、ザークは思わず笑ってしまった。
(はっ、可愛いな)
彼は、そっと彼女の願いに応えた。
湯船の中で、セレナの肩がびくりと震え、細い体が、湯気の向こうで小さく身をよじる。
その姿を目にした瞬間、ザークの中で、何かがぷつりと切れた。
(もうだめだ。我慢できるわけがない)
濡れた体のまま、二人は、ベッドの上に倒れ込んでいた。
月明かりが、シーツの上に二つの影を落としている。
ザークは、セレナの顔の横に手をつき、静かに口を開いた。
「セレナ。俺は、魔族の王だ。そしてお前は、アルトバイエルの国王だ」
「……はい」
「俺たちが、こうなることが、何を意味するか。分かってるか?」
セレナは、まっすぐにザークの目を見つめ返した。
「大切なのは、互いの事をどう思っているか、です」
「セレナ……」
「私は、ザーク殿……いえ、ザークのことが好きです。魔族の法律のことは、ちゃんと理解しています。それでも、この気持ちに、嘘はつけません」
彼女の瞳は、迷いなく澄んでいた。
「ザークは、私のことを、どう思っていますか?」
その問いに、ザークは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
けれど、答えはもう、とうに決まっていた。
「……愛おしい、と思う」
飾らない、まっすぐな言葉だった。
「お前が笑うと嬉しいし、お前が困ってると放っておけない。そういうのを、たぶん、愛おしいって言うんだろう」
セレナの目が、みるみるうちに潤んでいく。
「なら、大丈夫です」
そう言って、彼女は、ザークの首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
温もりと、鼓動と、微かな石鹸の香り。
ザークの体は、衝動に突き動かされるように動いていた。
もはや、止める理由など、どこにもなかった。
窓の外では、アルトバイエルの月が、ただ静かに、二人の夜を照らしていた。
翌朝。
ベッドの中で、ザークは天井を見つめながら、しみじみと考えていた。
(風呂を置きに来ただけだったのに、なんでこうなった……)
――《ご自身の胸に、お聞きください》
(聞いても分からん、と昨日も言っただろ)
――《人間のセレナとのこの関係到底理解される物ではないかと》
(確かにそうだよな)
――《詰んだな》
(…………)
隣で、セレナが幸せそうな寝息を立てている。
ザークは、そっと彼女の髪を撫でた。
(……まあ、悪くない朝だ)
しばらくして、セレナのまつげが、ゆっくりと動いた。
「……おはようございます」
「おはよう」
寝ぼけ眼のまま、セレナはザークの胸に頬を寄せてくる。
しばらく、そのまま二人で、朝の光をぼんやりと眺めていた。
「セレナ」
「はい」
「魔王と国王、か」
ザークは、天井に向かってぽつりと呟いた。
「人間の世界じゃ、きっと理解されないよな。種族も立場も違う二人が、こうなるなんて」
セレナは、少し黙ってから、静かに口を開いた。
「そうですね。表立って認められる関係ではないと思います」
「……だよな」
「でも」
セレナが、体を起こして、ザークの顔をのぞき込む。
「毎日じゃなくていいんです。たまに、こうして時間を作っていただけるだけで、私は十分幸せです」
「セレナ……」
「だから――」
彼女は、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「この関係は、私とザークだけの秘密にしましょう」
「秘密、か」
「ええ。誰にも言わない、二人だけの秘密です」
ザークは、その提案に、思わず笑ってしまった。
「分かった。約束する」
「約束、ですよ」
セレナは、ザークの胸に、もう一度そっと顔をうずめた。
「昨晩は、とても幸せでした。……たくさん、愛を感じました」
囁くような声に、ザークの胸が、じんわりと温かくなる。
「ザーク、朝から元気ですね」
「ん?」
胸だけではなくもう一つ熱くなってる場所が
「俺の意思とは無関係に!」
胸に埋もれていたセレナがくるっと体を返し上に乗ってきた。
「秘密ですよ」
ともう一度言ったセレナの唇が重なる。
胸が高鳴った。
(朝からいいのか)
なんて一瞬考えたが気づけばたわわな胸に俺は手をかけていた。
窓の外から差し込む朝日が、二人を、優しく包み込んでいた。
この先の事は言うまでもない。
――《ザーク様。綺麗にまとまったようですね》
――《おめでとうございます》
(……あ、ありがとう、とだけ言っておくよ)




