第8話 星の見えない合宿
夏休みに入って最初の土曜日、私たちは校門前に集まっていた。
時刻は午前八時。
空には薄い雲が広がっている。
晴れてはいないが、雨が降りそうな色でもなかった。
「澪、おはよう!」
先に来ていたひかりが、大きく手を振った。
明るい色のパーカーに動きやすそうな服装で、朝からいつも以上に目立っている。背中にはリュックがあり、右手にはそれとは別の大きな袋を持っていた。
「おはよう」
「それだけ?」
「何が?」
「私服の感想」
「似合ってる」
「もう少し考えてから言って」
「似合ってると思ったから」
「じゃあ、いいけど」
ひかりは今度は私の服を上から下まで見る。
私は白いシャツに紺色のカーディガン、長めのスカートを選んだ。
「澪はいつもどおりだね」
「悪い?」
「落ち着いてて似合ってる」
「ひかりも同じことしか言ってない」
「本当に思ってるから」
先ほどの私と同じ答えだった。
「その袋は?」
「お菓子」
「全部?」
「一泊するから」
ひかりが袋を少し開く。
中には、一泊では食べきれそうにない量のお菓子が入っていた。
「多すぎる」
「四人分だよ」
「夕食も朝食も出るんでしょう」
「星を見るとお腹が空くかもしれない」
「空を見るだけで?」
「集中するから」
理由になっているのか分からない。
「おはようございます」
声の方を向くと、月城さんが歩いてきた。
白いシャツに黒いパンツという簡単な服装で、肩には小さな鞄をかけ、片手で機材用のケースを持っている。
「おはよう、月城さん」
「おはようございます」
月城さんは私たちへ挨拶したあと、ひかりの袋を見た。
「それは何ですか?」
「非常食」
「お菓子ですね」
「夜食です」
「食べきれないと思います」
「月城さんも食べれば大丈夫」
「私は一つか二つで十分です」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮ではありません」
ひかりが月城さんの服を見る。
「今日も大人っぽいね」
「そうでしょうか」
「似合ってる」
「ありがとうございます」
月城さんは少し目を伏せた。
「朝倉さんらしい服装だと思います」
「褒めてる?」
「感想を言っただけです」
「それでもうれしい」
ひかりが月城さんの腕へ手を伸ばしかける。
月城さんは、その手を見て半歩だけ動いた。
避けたのかと思ったが、ひかりの荷物を持つためだった。
「その袋を貸してください」
「持ってくれるの?」
「機材のケースをバスへ積む間だけです。地面に置くと邪魔になります」
「ありがとう」
ひかりは素直に袋を渡した。
月城さんは受け取った直後、予想より重かったのか腕を少し下げた。
「本当に何を入れたんですか?」
「お菓子」
「これだけの重量になる量を持ってくる必要がありましたか?」
「みんなで食べるから」
「計画性がありません」
「黒瀬先輩みたいなこと言うね」
「先輩なら、持ってくる量も予定表に書いていそう」
私が言うと、二人がこちらを見る。
「ありそう」
ひかりがうなずいた。
「実際に書かれているかもしれません」
月城さんも否定しなかった。
そのとき、校門の向こうから黒瀬先輩が歩いてきた。
黒いシャツに細身のパンツ。普段の制服より少し柔らかい印象だが、背筋の伸び方はいつもと変わらない。
肩には大きなバッグをかけ、片手には透明なファイルを持っている。
「おはよう」
「おはようございます」
三人で挨拶する。
黒瀬先輩は全員の顔を確認したあと、腕時計を見た。
「全員そろってる」
「集合時間の十分前です」
月城さんが答える。
「予定どおりね」
黒瀬先輩はファイルを開いた。
中には印刷された紙が何枚も入っている。
「それ、予定表ですか?」
ひかりが尋ねる。
「そう。移動時間、休憩、施設へ着いてからの行動、観測準備まで書いてある」
「お菓子を食べる時間は?」
「書いてない」
「追加できます?」
「必要ない」
「月城さんの予想、当たったね」
「何の話?」
「先輩なら細かい予定表を作ってそうって」
黒瀬先輩が手元の紙を見る。
「細かすぎる?」
「いえ。先輩らしいです」
私が答えると、先輩は少しだけ紙を持つ手を止めた。
「そう」
短く答え、人数分の予定表を配る。
受け取った紙には、十五分単位で予定が書かれていた。
途中には、天候が悪かった場合の代替活動まで記載されている。
「雨の場合は、室内で星図の確認と撮影講習」
私は書かれた文字を読む。
「降る可能性もあるから」
黒瀬先輩が空を見上げた。
「今の予報では夜まで曇り。そのあと晴れる可能性がある」
「星、見られますよね?」
ひかりが尋ねる。
「分からない」
「せっかく合宿なのに」
「天候は決められない」
先輩の声はいつもどおりだった。
けれど、予定表の端を押さえる指に、少し力が入っているように見えた。
◇
今回泊まるのは、学校からバスで二時間ほど離れた場所にある青少年自然学習施設だった。
周囲を山に囲まれ、街の光が少ない。
晴れていれば、学校からでは見えない星まで観測できるらしい。
水野先生は助手席に座り、私たち四人はバスの後方にまとまって座った。
黒瀬先輩と私が前の列。
その後ろに、ひかりと月城さん。
「合宿って初めて?」
ひかりが座席の隙間から顔を出す。
「学校行事以外では」
「私も天文部では初めて」
「ひかりは今年入ったんだから当然でしょ」
「そうだった」
ひかりは笑う。
私は窓の外へ視線を戻した。
見慣れた町並みが少しずつ遠ざかっていく。
四人で学校の外へ出かけることが、まだ不思議だった。
誰かと放課後を過ごすことには慣れてきた。
けれど休日に待ち合わせをして、同じバスに乗り、一晩泊まることは今までほとんどなかった。
「緊張してる?」
隣から黒瀬先輩が尋ねた。
「少しだけ」
「観測?」
「それもあります」
「ほかには?」
答えようとして、言葉を探す。
「四人で出かけることに、慣れていないので」
「嫌だった?」
「嫌ではありません」
すぐに答える。
「ただ、どうしていればいいのか分からないだけです」
「何もしなくていいと思う」
「何もしなくて?」
「話したいときに話して、休みたいときに休めばいい」
「それでいいんですか?」
「合宿は活動だけど、ずっと何かをしている必要はないから」
先輩は窓の外を見る。
「私も、姉以外の部員と合宿へ行くのは初めて」
「去年は行かなかったんですか?」
「部員が少なくて、許可が出なかった」
「そうだったんですね」
「だから、私も慣れてない」
黒瀬先輩なら、何でも迷わず進められると思っていた。
細かな予定表を作り、必要なものを確認し、誰より早く集合場所へ来る。
けれど先輩にとっても、今日は初めてのことがある。
「少し安心しました」
「私が慣れていないことに?」
「私だけではないと思えたので」
「そう」
先輩はわずかに口元を緩めた。
「でも、予定どおりには進める」
「そこは変わらないんですね」
「予定がない方が落ち着かないから」
黒瀬先輩らしい答えだった。
「澪、先輩」
後ろからひかりが呼ぶ。
「飴、食べる?」
「昼食前です」
月城さんの声も続く。
「飴なら大丈夫でしょ」
「車内を汚さないものにしてください」
黒瀬先輩が振り返る。
「月城さんと先輩、同じこと言ってる」
「当たり前です」
「澪は?」
「飴ならもらう」
「澪だけ優しい」
「条件は二人と同じです」
「三対一だ」
ひかりは小さな袋から飴を取り出し、三人へ一つずつ渡した。
月城さんは受け取ると、包装を静かに開いた。
「月城さんも食べるんだ」
「受け取らないと、朝倉さんが三つ食べると思ったので」
「食べたかも」
「だからです」
月城さんの返事に、ひかりが楽しそうに笑う。
私も飴を口に入れた。
甘い味が広がる。
観測はまだ始まっていない。
星も見えていない。
それでも、合宿はすでに始まっているのだと思った。
◇
施設へ到着した頃には、空の雲が朝よりも厚くなっていた。
荷物を部屋へ運ぶ前に、職員から施設の説明を受ける。
消灯時間。
浴室の利用方法。
観測広場までの道。
雨天時に使用できる研修室。
説明を聞く間、黒瀬先輩は予定表へ何度か書き込みをしていた。
「変更がありますか?」
私は小声で尋ねる。
「夕食の時間が、聞いていたものより十五分早い」
「修正するんですか?」
「その方が分かりやすいから」
部屋は四人で一室だった。
畳敷きの部屋に、折り畳まれた布団が並んでいる。
「広い!」
ひかりが荷物を置き、部屋の中央へ進む。
「走らないでください」
月城さんがすぐに注意する。
「走ってないよ」
「今から走りそうでした」
「分かるの?」
「朝倉さんを見ていれば」
月城さんは機材ケースを壁際へ置き、中身を確認し始めた。
予備バッテリーやケーブル、録音機器を取り出し、一覧表と照らし合わせている。
「月城さんも先輩みたい」
ひかりが言う。
「機材は確認が必要です」
「私の荷物も確認してくれる?」
「ご自分で確認してください」
「冷たい」
「自分の荷物です」
ひかりは私の横へ座った。
「澪はどこで寝る?」
「まだ決めなくていいでしょう」
「先に決めた方が安心」
「布団は同じです」
「隣の話」
「どこでもいい」
「じゃあ、私が隣」
ひかりが即座に決める。
月城さんの手が一瞬止まり、すぐにバッテリーの確認へ戻った。
「朝倉さんは窓際で寝ない方がよいと思います」
「どうして?」
「夜中に何度も窓を確認しそうだからです」
「星が出てるか気になるでしょ」
「ほかの人を起こします」
「静かに見るよ」
「朝倉さんが静かに動けるとは思えません」
「ひどい」
ひかりは笑いながら、月城さんの隣へ移動する。
「じゃあ、月城さんが隣で止めて」
「なぜ私が?」
「起きたら一緒に星を見に行けるよ」
「許可なく部屋から出てはいけません」
「ちゃんと先輩か先生に聞く」
「夜中に起こすつもりですか?」
「星が出てたら」
「月城さんは来ない?」
ひかりが尋ねる。
月城さんはケーブルをまとめながら、少しだけ黙った。
「許可があれば行きます」
「じゃあ、隣ね」
「まだ決めていません」
「嫌?」
「嫌とは言っていません」
月城さんの言い方が、少しだけ私に似ていた。
ひかりも気づいたらしく、こちらを見る。
「澪と同じ答え」
「私は白石さんではありません」
「でも、嫌とは言ってない」
「言っていませんが、決定したとも言っていません」
月城さんはそう言いながら、ひかりの荷物の隣に自分の鞄を置いた。
ひかりは満足そうに笑った。
「白石さんは、入口から二番目でいい?」
黒瀬先輩に聞かれる。
「はい」
「私が入口側にする。何かあったときに動きやすいから」
「先輩が隣ですね」
言ってから、声が少し明るくなった気がした。
黒瀬先輩がこちらを見る。
「嫌?」
「嫌ではありません」
「それなら、そうする」
結局、入口側から黒瀬先輩、私、ひかり、月城さんの順で寝ることになった。
先輩は布団の位置まで確認し、予定表の余白に小さく書き留めた。
「そこまで書くんですか?」
「忘れないように」
「四人しかいないのに?」
「あとで変わると困るから」
困るほどのことではないと思う。
けれど、先輩がそれで落ち着くなら、止める必要もなかった。
◇
昼食を終えたあと、私たちは観測広場の下見へ向かった。
施設から歩いて十分ほどの場所に、広い草地がある。
周囲には高い建物がなく、空が大きく開けていた。
晴れていれば、どれほど多くの星が見えただろう。
今は灰色の雲が、空を端から端まで覆っている。
「雲、厚くなってるね」
ひかりが見上げる。
「予報では、夕方に一度弱い雨が降る可能性があります」
月城さんがスマートフォンを確認する。
「夜にはやむ?」
「降水確率は下がります。ただし、雲がなくなるとは限りません」
「晴れる可能性はある」
黒瀬先輩が言った。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
先輩は草地の中央まで進み、方角を確認する。
「北はあちら。機材はこの辺りに置く。足元が暗くなるから、移動経路には小さな灯りを置く」
「赤い光の方がいいんですよね」
私は尋ねた。
「暗さに慣れた目へ影響しにくいから、白い光はできるだけ避ける」
「準備してありますか?」
「ある」
黒瀬先輩はバッグから赤いフィルムを取り出した。
「先輩、本当に何でも持ってる」
ひかりが感心する。
「必要なものを考えただけ」
月城さんは広場の端で、地面の状態を確かめていた。
「昨夜も雨が降ったようです。三脚を立てる場所は選んだ方がよいと思います」
「柔らかい?」
「場所によっては沈みます」
「分かった。少し高い方へ移す」
黒瀬先輩は予定表へ書き込もうとする。
「先輩」
「何?」
「まだ観測できると決まっていません」
月城さんが静かに言った。
黒瀬先輩のペンが止まる。
「準備は必要です。ただ、雨天時の研修室も確認した方がよいと思います」
「分かってる。戻ったら確認する」
「はい」
先輩は予定表を閉じた。
返事は落ち着いていた。
けれど、表紙を押さえる指に少しだけ力が入っていた。
◇
午後は研修室で星図の確認と、夜間撮影の練習をした。
黒瀬先輩が、三脚の使い方や暗い場所での操作を説明する。
「夜はピントを合わせにくい」
先輩が私の隣に立つ。
「明るい星か、遠くの光を使って合わせる。今は窓の外の木で練習する」
画面を拡大し、枝の輪郭へピントを合わせる。
先輩の操作を見たあと、私も同じように試した。
何度か行きすぎてから、ようやく枝の形がはっきりする。
「合いました」
「うん。夜も慌てずにやればいい」
「夜も、先輩が隣にいてくれますか?」
自然に尋ねたつもりだった。
黒瀬先輩が一瞬黙る。
「そのつもり」
「よかったです」
「一人でもできるようにはなってもらうけど」
「分かっています」
断られなかったことに、少し安心した。
「私のスマートフォンは?」
ひかりが横から入ってくる。
「夜景モードがあるなら、それを使う」
黒瀬先輩が答える。
「先輩、澪と話すときより説明が短い」
「機材が違うから」
「前にも聞いた」
「同じ質問をしたから」
「ひかり、私が調べます」
月城さんが自分の端末を持って近づく。
「機種名を教えてください」
「これ」
「設定画面を開いてください」
「月城さんが教えてくれるの?」
「映像担当として、使用できる機能は把握しておきたいので」
「ありがとう」
ひかりは月城さんのすぐ横へ立った。
二人で一つの画面をのぞき込む。
肩が触れそうな距離だったが、月城さんは離れなかった。
「澪」
ひかりが顔を上げる。
「合宿の写真も撮ってよ」
「星の写真?」
「四人の写真」
「私は人物をあまり撮らない」
「文化祭の準備風景に使えるかもしれないでしょ」
「それなら、月城さんの映像で足りると思う」
「澪が撮った写真も見たい」
すぐには答えられなかった。
以前なら、ひかりに頼まれたから撮ると言っていたかもしれない。
けれど今は、自分が撮りたいかどうかを先に考える。
黒瀬先輩を見る。
月城さんを見る。
ひかりを見る。
三人が同じ部屋で、それぞれの機材を確認している。
「撮りたいと思ったら撮る」
私は答えた。
「うん。それでいいよ」
ひかりはあっさりうなずいた。
その返事に、少し安心した。
◇
夕食の頃から、窓に小さな雨粒が当たり始めた。
最初は数えるほどだった。
食事を終えて部屋へ戻る頃には、途切れず音が続いていた。
「降ってるね」
ひかりが窓を開けようとする。
「濡れます」
月城さんが止めた。
「少しだけ」
「窓を開けなくても分かります」
ガラスの向こうは、すでに暗い。
山の形もほとんど見えなかった。
部屋の時計は午後七時を示している。
本来なら、観測広場へ機材を運び始める時間だった。
「雨雲はいつ抜ける?」
黒瀬先輩が月城さんへ尋ねる。
「現在の予報では、九時頃まで弱い雨です。その後も雲は残ります」
「十時なら可能性はある」
「施設の規則では、観測広場を利用できるのは十時までです」
「先生に延長を相談する」
「雨で地面が濡れています。やんでも機材を設置できる状態かは分かりません」
「少し高い場所なら」
「先輩」
月城さんの声は静かだった。
「外へ出るかどうかは、水野先生の判断です」
「分かってる」
黒瀬先輩は予定表を開いた。
紙には、観測準備、星座確認、撮影練習、休憩と細かく時刻が並んでいる。
そのすべてが、今は実行できない。
「研修室へ移動しよう」
先輩が言った。
「雨天時の予定に変更する。星図の確認と、文化祭用の構成を進める」
「分かりました」
私は答えた。
ひかりと月城さんもうなずく。
黒瀬先輩は予定表へ線を引き、時刻を書き直した。
ペン先が紙の上を強く走った。
◇
研修室では、施設から借りた小型のプラネタリウム投影機を使った。
本格的なものではない。
白い天井へ、星座の位置を簡単に映すための機械だった。
部屋の灯りを消すと、天井に小さな光が広がる。
「外で見たかったな」
ひかりが言った。
「私もです」
月城さんが隣で答える。
「でも、星座の位置を確認するには使えます」
「本物とは違うけどね」
「違うから、見られることもあります」
「どういうこと?」
「雲や月明かりに邪魔されません。星座線も表示できます」
「便利」
「本物の空に線はありませんから」
月城さんが操作盤を動かす。
天井の星がゆっくり回転した。
ひかりは椅子へ深く座り、上を見上げている。
「月城さん、あれは?」
「夏の大三角です」
「どれとどれとどれ?」
「今、指します」
月城さんが細い指示棒を持つ。
ひかりはその先を追いながら、何度もうなずいた。
私は少し離れた席で、カメラの画面を確認していた。
天井の星を撮っても、実際の夜空とは違う。
それでも、光の下で空を見上げる二人の後ろ姿は残しておきたいと思った。
カメラを構える。
シャッター音を小さく設定し、一枚だけ撮った。
月城さんがこちらを見る。
「撮りましたか?」
「はい」
「文化祭用ですか?」
「まだ決めていません」
「見せて」
ひかりがすぐに立ち上がろうとする。
「あとで」
「今度は見せてくれる?」
「二人が写っているので、二人がよければ」
「私はいいよ」
ひかりが答える。
月城さんは少し迷ってから、
「確認してからなら」
と言った。
「分かりました」
私はカメラを下ろす。
自分が撮りたいと思って撮った。
頼まれたからではない。
その違いは、自分にしか分からないほど小さなものだった。
けれど、私には大きかった。
「白石さん」
黒瀬先輩に呼ばれる。
研修室の後方で、一人で予定表を見ていた。
「少し手伝って」
「何をですか?」
「文化祭の上映順を確認したい」
先輩の隣へ座る。
机の上には、これまでに選んだ写真の一覧と、上映内容の案が並べられている。
「最初は夕方の写真。そのあとに、街の明かりが少ない場所へ移る」
「今日の星空を入れる予定だったんですよね」
「そう」
黒瀬先輩の指が、空白になった欄で止まる。
「撮れなかった」
「まだ雨がやむかもしれません」
「時間がない」
「別の日に撮れます」
「全員で来られる日は多くない」
先輩は紙から目を離さなかった。
「私が、もう少し天候の安定する時期を選べばよかった」
「でも、夏休みの予定もあります」
「候補日はほかにもあった」
「今日が一番、四人の予定が合ったんですよね」
「それでも、予報は曇りだった」
「晴れる可能性もありました」
「可能性に頼りすぎた」
黒瀬先輩は自分を責めている。
誰も先輩を責めていないのに。
「先輩のせいではありません」
「部長が決めた予定だから」
「天気まで先輩が決めることはできません」
「分かってる」
声は小さかった。
分かっていても、納得できていないのだと思う。
「合宿を別の日にすれば、星が見られたかもしれない」
「別の日も曇るかもしれません」
「でも――」
「私は、来てよかったです」
黒瀬先輩が顔を上げる。
「星が見えていないのに?」
「はい」
「観測合宿なのに」
「星が見えなかったことは残念です」
それは本当だった。
学校より暗い場所で、空いっぱいの星を見たかった。
黒瀬先輩に教えてもらいながら、初めて星を撮りたかった。
「でも、先輩と来られたことは残念じゃありません」
言葉にしたあと、研修室の音が急に遠くなった気がした。
ひかりと月城さんは、少し離れた場所で投影機を操作している。
雨は窓を細かくたたいている。
黒瀬先輩は何も言わなかった。
私を見たまま、長く黙っている。
「先輩?」
「聞こえてる」
「変なことを言いましたか?」
「違う」
先輩は視線を紙へ戻した。
けれど、上映順を示す文字を追っているようには見えなかった。
「私も、来られてよかった」
しばらくして、先輩が小さく言った。
「それなら、失敗ではないと思います」
「観測はできなかった」
「でも、合宿全部が失敗したわけではありません」
黒瀬先輩がまた黙る。
私は先輩の返事を待った。
「白石さんは」
「はい」
「そういうことを、急に言うのね」
「何かおかしかったですか?」
「おかしくない」
先輩は予定表を閉じた。
「ただ、少し考えていただけ」
「何を?」
「自分でも、まだ分からない」
「そうですか」
何を考えていたのかは分からなかった。
けれど、無理に聞かない方がよい気がした。
「上映順を続けますか?」
「今日はここまででいい」
「予定より早いです」
「予定どおりにする必要はないでしょう」
黒瀬先輩がそう言った。
予定表を何度も書き直していた先輩が。
「先輩が言うんですね」
「今日は予定どおりにならないことが分かったから」
少しだけ疲れたように笑う。
「部屋へ戻ろう。朝倉さんのお菓子も、少しは減らさないと持って帰ることになる」
「予定にありませんでしたよね」
「変更する」
先輩は予定表を開き、午後九時の欄へ小さく書き込んだ。
『自由時間』
その文字の横へ、少し迷ってから、
『夜食』
と加える。
「ひかりが喜びます」
「食べすぎないように見ていて」
「先輩も一緒に見てください」
「分かった」
先輩は予定表をファイルへ戻した。
◇
部屋へ戻ると、ひかりは大きなお菓子の袋を畳の中央へ置いた。
「ついに出番!」
「全部は開けないで」
黒瀬先輩が言う。
「予定表にお菓子の時間を入れたって本当ですか?」
「自由時間と夜食」
「見せてください」
ひかりが予定表を受け取り、手書きの文字を見る。
「本当に書いてある」
「必要になったから追加しただけ」
「先輩も食べますよね?」
「少しだけ」
「月城さんも」
「一つか二つです」
「澪も」
「食べます」
「やった。全員参加」
ひかりは袋から菓子をいくつか選び、畳の上へ並べた。
月城さんが残りの袋を引き寄せる。
「これ以上は出さないでください」
「まだあるのに」
「明日もあります」
「朝から食べる?」
「持ち帰ってください」
「月城さんが管理するの?」
「朝倉さんに任せると、全部開けるからです」
「信用がない」
「今の行動を見れば当然です」
ひかりは不満そうにしながらも、月城さんへ袋を預けた。
四人で畳に座り、お菓子を囲む。
窓の外では雨が続いている。
「星、見たかったね」
ひかりがポテトチップスを一枚取る。
「はい」
月城さんが答える。
「次は見られるでしょうか」
「次があれば」
「あるよ」
ひかりは迷わず言った。
「文化祭までに、もう一回くらい撮りに行こう」
「学校の近くであれば可能かもしれません」
「四人で?」
「活動ですから」
「月城さんも来るよね?」
「予定が合えば」
「またその言い方」
「行かないとは言っていません」
「じゃあ、来るね」
ひかりは満足そうに笑う。
月城さんも、否定しなかった。
「先輩」
私は隣に座る黒瀬先輩へ声をかけた。
「何?」
「今日も悪くなかったです」
先輩の手が、クッキーへ伸びる途中で止まる。
「もう分かった」
「何がですか?」
「白石さんが来てよかったと思っていること」
「はい」
「何度も言われると困る」
「どうして?」
「分からないなら、そのままでいて」
黒瀬先輩はクッキーを一枚取ったまま、しばらくこちらを見なかった。
「澪、先輩と何話してるの?」
ひかりが向かい側から尋ねる。
「今日のこと」
「私たちにも聞かせて」
「星が見えなくても、来てよかったという話です」
「私も来てよかったよ」
ひかりが言う。
「バスも楽しかったし、ご飯もおいしかったし、月城さんと同じ部屋だし」
「最後は関係ありますか?」
月城さんが尋ねる。
「あるよ」
「どういう意味ですか?」
「一人より楽しい」
ひかりは簡単に答えた。
月城さんは少し目を伏せる。
「私も、一人よりはよいと思います」
「本当?」
「四人で来た意味はあったと思います」
「月城さんが素直」
「事実を言っただけです」
「その言い方も好き」
「何がですか?」
「月城さんらしくて」
ひかりは笑う。
月城さんは困ったように視線をそらしたが、離れようとはしなかった。
黒瀬先輩が窓を見る。
「雨、少し弱くなった」
全員で耳を澄ます。
確かに、窓をたたく音が先ほどより小さい。
けれど、外へ出られるほどではない。
「晴れる?」
ひかりが期待を込めて尋ねる。
「今夜は難しいと思う」
先輩が答える。
「そっか」
ひかりは少しだけ残念そうにしたあと、チョコレートを一つ取った。
「じゃあ、今日は四人で話そう」
「何を?」
私が尋ねる。
「何でも」
「決めてないの?」
「決めたら予定になるでしょ」
ひかりが黒瀬先輩を見る。
「今日は予定どおりにしなくていいんですよね?」
「そうね」
「じゃあ、自由」
ひかりは笑った。
そのあとは、本当に何でもない話をした。
好きな食べ物。
夏休みの宿題。
学校へ入って最初に迷った場所。
月城さんが以前いた学校のこと。
黒瀬先輩が中学生の頃、姉と初めて土星を見た日のこと。
私は話すより、三人の言葉を聞いている時間の方が長かった。
それでも、黙っていることを気まずいとは思わなかった。
窓の外に星はない。
天井にも、先ほどの投影機の光はない。
あるのは、部屋の照明と、四人の声だけだった。
星の見えない夜だった。
けれど、一人で空を眺めていた頃よりも、ずっと多くのものが見えている気がした。




