第9話 雨音の向こうの話
夜食を片づけても、消灯までは少し時間が残っていた。
窓をたたく雨音は、弱くなったり、急に強くなったりを繰り返している。
私たちは布団を敷かず、畳の上へ座ったままだった。
「まだ寝るには早いよね」
ひかりが鞄の中を探りながら言う。
「予定表では、就寝準備の時間です」
月城さんが答えた。
「準備を始める時間であって、寝る時間じゃないでしょ」
「入浴と歯磨きは終わっています」
「じゃあ準備完了」
「布団がまだです」
「あとで敷けばいいよ」
ひかりは鞄から小さな箱を取り出した。
「持ってきた」
「何ですか?」
「トランプ」
「観測合宿に必要ですか?」
「雨が降ったときに必要」
「結果を見てから理由を作っていませんか?」
「でも、今は必要でしょ?」
月城さんは答えなかった。
その代わり、ひかりが箱を開ける手元を見ている。
「やりますか?」
私が尋ねる。
「白石さんも参加するんですか?」
「四人でできるなら」
「やった」
ひかりは畳の中央へカードを広げた。
「先輩もやりますよね?」
黒瀬先輩は予定表から顔を上げる。
「何をするの?」
「大富豪」
「四人で?」
「ちょうどいい人数です」
「ルールは?」
「知らないんですか?」
「知っているけど、地域によって違うでしょう」
「先輩、真面目」
「途中で揉めるより先に決めた方がいい」
地域ごとに違うルールを簡単に確認し、革命と八切りだけを採用することになった。
黒瀬先輩はそれを聞きながら、予定表の余白へ何かを書き始める。
「先輩」
「何?」
「まさか、トランプのルールまで書いていませんよね?」
「途中で分からなくならないように、少しだけ」
「覚えられます」
「白石さんは覚えられても、朝倉さんが途中で変えるかもしれない」
「変えませんよ」
ひかりが抗議する。
「たぶん」
「今、たぶんって言った」
「澪のが移った」
「私のせいにしないで」
カードが四人分に配られる。
私は手札を扇形に広げた。
同じ数字が二組。
大きな数字は少ない。
強いのか弱いのか、まだ分からない。
「澪、顔に出てるよ」
向かい側のひかりが言った。
「何が?」
「弱そう」
「見ないで」
「カードは見えてないよ。澪の顔」
「白石さんは感情が分かりやすいときがあります」
月城さんまで言う。
「いつもではないです」
「黒瀬先輩と話しているときは、特に――」
「月城さん」
思わず名前を呼ぶ。
月城さんは口を閉じた。
「何?」
黒瀬先輩が尋ねる。
「何でもありません」
「そう」
先輩はそれ以上追及せず、場へ三を一枚出した。
「始める」
「先輩、切り替えが早い」
ひかりが笑いながら四を出す。
◇
最初に上がったのは月城さんだった。
カードを一枚ずつ出し、最後までほとんど表情を変えなかった。
「強い」
ひかりが手札を持ったまま言う。
「運です」
「絶対違う。出したカード覚えてたでしょ」
「すべてではありません」
「ほとんどは覚えてた?」
「必要な範囲だけです」
「先輩と同じ種類の人だ」
「どういう意味ですか?」
「計画的」
黒瀬先輩は残った手札を見ながら、
「私は最下位だから、同じではない」
と答えた。
「先輩、トランプ弱いんですか?」
「考えすぎた」
「遊びなのに?」
「勝つなら、できるだけよい手順を選びたいでしょう」
「それで出すタイミングを逃したんですね」
私が言うと、先輩がこちらを見る。
「白石さんまで言うの?」
「見ていたので」
「次は勝つ」
「負けず嫌いだ」
ひかりが楽しそうに笑う。
二回目は、黒瀬先輩が最初に上がった。
本当に、前の勝負で出たカードの流れを覚えていたらしい。
「次は勝つって言って、本当に勝つ人初めて見た」
「ルールが分かれば対応できる」
「これ、遊びですよ」
「分かってる」
そう答えながら、先輩は少しだけ満足そうに見えた。
三回目の途中で、ひかりがあくびをした。
「眠い?」
月城さんが尋ねる。
「少しだけ」
「消灯時間が近いです」
「この勝負が終わるまで」
「先ほども同じことを言っていました」
「次は勝てそうだから」
「手札を見てから言っていますね」
「勝負には希望が必要」
ひかりはそう言ってカードを出した。
月城さんがその上へ重ねる。
私は出せるカードがなく、黒瀬先輩も続けて手札を伏せた。
そのとき、雨音が急に強くなった。
全員の視線が窓へ向く。
ガラスに当たる粒が、さっきよりはっきりと聞こえる。
「また強くなったね」
ひかりが言った。
「明日の朝まで残るかもしれません」
月城さんが答える。
「帰る頃も雨?」
「予報では、朝には弱まります」
「星は最後まで見られないか」
「今回は難しいと思います」
ひかりは残念そうに窓を見たあと、手札へ視線を戻した。
「じゃあ、次に来たときのお楽しみだね」
「次があることを前提にするんですね」
「月城さんも来るでしょ?」
「まだ日程も決まっていません」
「来ないの?」
「そうは言っていません」
「じゃあ来る」
「朝倉さんは、いつも結論を急ぎますね」
「月城さんが遅いんだよ」
「慎重なだけです」
「でも、最後は来てくれる」
ひかりは迷いなく言った。
月城さんは少し黙ったあと、手札からカードを一枚出した。
「今は、勝負を続けてください」
「否定しないんだ」
「続けてください」
月城さんの声はいつもどおりだった。
けれど、カードを出す指が少しだけ早く動いた。
◇
勝負が終わると、黒瀬先輩が時計を確認した。
「そろそろ布団を敷く」
「あと一回は?」
「消灯時間まで十五分」
「間に合います」
「布団を敷いて、荷物をまとめて、明日の準備もある」
「明日の私がやります」
「今の朝倉さんがやって」
「はい」
ひかりは素直にカードを集め始めた。
月城さんも散らばったカードをそろえ、箱へ戻す。
「朝倉さん」
「何?」
「ジョーカーがありません」
「本当?」
四人で畳の上を探す。
ひかりの足元にも、カードの箱にもない。
やがて月城さんが、ひかりのパーカーの裾を指した。
「そこです」
振り向いたひかりの裾に、ジョーカーが一枚張りついていた。
「あった」
「どうしてそこに?」
「静電気?」
「大事にしてください」
月城さんはカードを受け取り、向きをそろえて箱へ入れた。
私たちは押し入れから布団を運んだ。
入口側から、黒瀬先輩、私、ひかり、月城さんの順。
昼に決めたままの並びだった。
「澪、本当に先輩の隣でいいの?」
ひかりが布団を広げながら尋ねる。
「昼に決めたでしょう」
「交換してもいいよ」
「どうして?」
「昔は泊まりのとき、いつも隣だったから」
小学校の宿泊行事では、ひかりと隣の布団になったことがある。
眠るまで話しかけられ、先生に何度も静かにするよう注意された。
「今回は四人だから」
「私は月城さんの隣でいいけど」
ひかりが振り向く。
「月城さんは?」
「すでに決めた配置です」
「嫌じゃない?」
「昼にも聞きましたね」
「確認」
「嫌ではありません」
「よかった」
ひかりは自分の布団を月城さんの方へ少しだけ寄せた。
「近すぎます」
「これくらいならいいでしょ」
「間を空けないと、掛け布団が重なります」
「じゃあ少しだけ」
ひかりは布団を戻す。
完全には元の位置まで戻っていない。
月城さんはそれを見たが、もう何も言わなかった。
私は自分の布団を広げ、端を整える。
隣では黒瀬先輩が、四隅をきれいに伸ばしていた。
「先輩、布団まで真っすぐですね」
「曲がっていると気になるから」
「寝たら動きます」
「寝る前は整っていた方がいい」
「先輩らしいです」
そう言うと、先輩は手を止めた。
「白石さんは、よく私にそう言うね」
「先輩らしいと思ったときに言っています」
「どういう意味なのか、分からないときがある」
「悪い意味ではありません」
「それは分かってる」
先輩は布団の端を一度見てから、少しだけ緩めた。
「白石さんに言われるなら、嫌ではないから」
「そうですか」
「うん」
それだけの会話なのに、返事まで少し時間がかかった。
◇
部屋の照明を消すと、雨音が近くなった。
暗闇の中では、窓をたたく音だけが部屋全体に広がっているように聞こえる。
「眠れない人いる?」
ひかりが小さな声で尋ねた。
「まだ消灯したばかりです」
月城さんが答える。
「月城さん、起きてるね」
「起きています」
「澪は?」
「起きてる」
「先輩は?」
「起きてる」
「全員起きてる」
ひかりの声が少しうれしそうになる。
「だから話そう」
「静かにしてください」
「小さい声ならいいでしょ」
「ほかの部屋にも利用者がいます」
「分かってる」
ひかりは声をさらに小さくした。
「何の話をする?」
「決めなくてもいいんじゃない?」
私が答える。
「澪がそう言うの珍しい」
「何でもいいと言ったのはひかりでしょう」
「じゃあ、今日一番楽しかったこと」
「それは決めています」
「細かい」
「朝倉さんが話題を決めたからです」
「月城さんから答えて」
「なぜ私から?」
「言い出した人は最後」
「朝倉さんが有利になる規則ですね」
「考える時間が増えるから」
「ずるいです」
そう言いながらも、月城さんは少し考えた。
「投影機を操作したことです」
「機械を触ったから?」
「それもあります」
「ほかには?」
「星座の位置を説明できたので」
「私に?」
「朝倉さん以外に聞いていた人はいません」
「じゃあ、私に教えたのが楽しかったってこと?」
「説明が役に立ったなら、よかったと思います」
「私は楽しかったよ」
「それなら、よかったです」
暗くて月城さんの表情は見えない。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
「次は澪」
「私は――」
今日一日を思い返す。
バスの中。
観測広場。
撮影の練習。
天井に映った星。
黒瀬先輩との会話。
「一つに決めないと駄目?」
「二つでもいいよ」
「予定どおりにならなかったあと、四人で話したこと」
「今も入る?」
「入ると思う」
「まだ終わってないのに?」
「終わっていなくても、楽しいから」
言葉にすると、少し恥ずかしくなった。
「澪が楽しいって言う回数、増えたね」
ひかりが言う。
「そう?」
「前は聞いても、普通って答えることが多かった」
「普通だと思っていたから」
「今は?」
「楽しいと思ったら、楽しいと言うようにしてる」
「いいね」
ひかりはすぐに答えた。
「私も、その方が分かりやすくて好き」
「そう」
暗闇で顔が見えないことに、少しだけ助けられた。
「黒瀬先輩は?」
ひかりが尋ねる。
隣の布団から、短い息遣いが聞こえる。
「予定表に夜食を書いたこと」
「そこですか?」
ひかりが小さく笑う。
「最初は、観測できなかった時点で今日の活動は失敗だと思った」
先輩の声は静かだった。
「でも、予定に入れていなかった時間の方が、覚えている気がする」
「お菓子がよかった?」
「それだけではない」
「じゃあ何ですか?」
「四人で話したこと」
黒瀬先輩が答えた。
「私も、白石さんと同じ」
名前を呼ばれたわけではない。
それでも、隣から聞こえた言葉に意識が向いた。
「最後は私だね」
ひかりが言う。
「私は全部」
「決めていませんね」
月城さんが指摘する。
「バスも、部屋も、トランプも、夜食も楽しかったから」
「観測できなかったことは?」
「残念。でも、それだけで全部がつまらなくなるわけじゃないでしょ」
「朝倉さんらしいです」
「褒めてる?」
「今度は褒めています」
「本当?」
「はい」
「月城さんが素直」
「暗いので、顔が見えないからです」
「見えたら言わないの?」
「そういう意味ではありません」
ひかりが笑いをこらえる声がした。
「じゃあ、次の話」
「まだ話すんですか?」
「眠くなるまで」
少しの沈黙のあと、ひかりが続けた。
「月城さんって、前の学校でも天文部だったの?」
「天文部がある学校もありました」
「入ってた?」
「いいえ」
「どうして?」
「長くいられるとは限らなかったので」
雨音の間に、月城さんの声が落ちた。
「途中でいなくなるなら、最初から深く関わらない方がよいと思っていました」
「転校、多かったんだよね」
「はい」
「どれくらい?」
「小学校から数えれば、今の学校で六校目です」
「そんなに」
ひかりの声から、軽さが少し消えた。
「毎回、友達と離れたの?」
「友達と呼べる人がいた学校もありました」
「連絡は?」
「最初は取っていました。でも、少しずつ減りました」
「寂しくなかった?」
月城さんはすぐには答えなかった。
「慣れたと思っていました」
「思ってた?」
「場所が変わっても、空は同じでしたから」
月城さんの言葉に、誰も続かなかった。
雨で空は見えない。
それでも、月城さんがどこへ行っても見上げてきた空は、今も窓の向こうにある。
「でも」
ひかりが言った。
「今は一人で見なくていいよ」
「朝倉さん」
「天文部に四人いるから」
月城さんの返事は、少し遅れて聞こえた。
「そうですね」
短い言葉だった。
けれど、それ以上を聞く必要はないと思った。
「先輩は?」
今度は私が尋ねた。
「何?」
「初めて星に興味を持ったときのこと」
少し前までなら、自分から話題を向けることはできなかったかもしれない。
黒瀬先輩は隣の布団で、小さく寝返りを打った。
「中学生のとき」
「お姉さんと土星を見た日ですか?」
「そう」
先輩の声が、少しだけ近くなる。
「姉に連れられて、地域の観望会へ行った。私は最初、あまり興味がなかった」
「そうなんですか?」
「姉が行くから、ついていっただけ」
「意外」
ひかりが言う。
「望遠鏡をのぞいたら、小さな輪が見えた」
暗い部屋の中で、先輩の言葉だけが続く。
「写真で見たことはあった。でも、本当に空にあるものだと思っていなかったのかもしれない」
「偽物だと思ってたんですか?」
「そうではない。ただ、遠すぎて自分とは関係のないものだと思っていた」
黒瀬先輩は少し黙った。
「でも、望遠鏡の向こうにあった。姉が見たものを、私も見た」
姉と同じものを見たことが、先輩にとって始まりだった。
「お姉さんは、今も星を見ますか?」
「大学が忙しいから、前ほどではないと思う」
「連絡は取っていますか?」
「取ってる」
「合宿のことも?」
「話した」
「何て言っていました?」
「晴れるといいねって」
「見られなかったって伝えるんですか?」
「明日、帰ったら」
先輩の声が少し低くなる。
「前なら、失敗したとだけ伝えていたと思う」
「今は?」
「星は見られなかったけど、悪くなかったと伝える」
「それがいいと思います」
私が答えると、
「うん」
と返ってきた。
「澪は?」
ひかりが尋ねた。
「何が?」
「中学の頃の話」
身体が少し硬くなる。
暗い部屋なのに、三人の視線がこちらへ向いたように感じた。
中学の頃。
二人の友人。
どちらにも嫌われたくなくて、両方の話を聞いた。
どちらの味方にもならないようにしたつもりだった。
最後には、どちらからも責められた。
『澪はどっちの味方なの?』
思い出すと、今でも答えが分からない。
「話したくなかったら、話さなくていいよ」
ひかりが言った。
いつもの明るさを少し抑えた声だった。
黒瀬先輩も、月城さんも何も聞かない。
待たれているようにも、急かされているようにも感じなかった。
「友達が二人いました」
私はゆっくり話し始めた。
「二人の仲が悪くなって、私は両方に合わせようとしました」
その先を言うか迷う。
「でも、うまくできませんでした」
雨音が続いている。
「それから、人に合わせるのが苦手になりました」
伝えたのは、それだけだった。
誰が悪かったのか。
何を言われたのか。
最後にどんな別れ方をしたのか。
詳しく話すことはできなかった。
「そうだったんだね」
ひかりが答えた。
「うん」
そのあとに質問は続かなかった。
もっと話さなければならないと思っていた。
話し始めた以上、最後まで説明しなければ、相手は納得しないかもしれない。
けれど、誰も続きを求めなかった。
分からない部分を残したまま、そこにいてくれた。
「今は」
黒瀬先輩が言う。
「無理に合わせなくていいと思う」
「はい」
「白石さんが違うと思ったら、違うと言っていい」
「言えるでしょうか」
「少しずつ言えてる。朝倉さんに、写真を見せたくないと言っていたでしょう」
「聞こえてたんですね」
「同じ部屋にいたから」
「そうでした」
先輩は、私自身が忘れかけていた小さな変化を覚えていた。
「無理に変わらなくてもいいけど」
先輩の声が続く。
「白石さんが決めたことなら、私は聞く」
「先輩が違うと思っても?」
「違うと思ったら、そう言う。でも、決めるのは白石さん」
胸の奥に残っていた硬いものが、少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではない」
「それでも」
「そう」
先輩はそれ以上言わなかった。
ひかりも月城さんも、別の話題へ変えようとはしなかった。
沈黙が続く。
けれど、気まずくなかった。
話せなかった部分があっても、ここにいてよいのだと思えた。
◇
いつの間にか、ひかりと月城さんの方から規則正しい寝息が聞こえていた。
二人とも眠ったらしい。
私は目を閉じていたが、なかなか眠れなかった。
雨音はまだ続いている。
強くはない。
細かな音が一定の間隔で窓をたたいている。
隣から布団が動く音がした。
目を開ける。
黒瀬先輩が静かに起き上がっていた。
「先輩?」
小さな声で呼ぶ。
「起こした?」
「起きていました」
「そう」
先輩は窓の方を見る。
「雨を確認するだけ」
「私も見ます」
「眠らなくていいの?」
「まだ眠くないので」
二人で音を立てないように布団を出る。
窓際まで歩き、カーテンを少しだけ開けた。
外は暗い。
ガラスには細い雨の跡が残り、その向こうには空も山もほとんど見えなかった。
「星はないですね」
「うん」
黒瀬先輩は窓枠へ手を置く。
「朝まで難しそう」
「残念ですか?」
「残念」
先輩はすぐに答えた。
「でも、前ほどではない」
「どうしてですか?」
「もう失敗だとは思っていないから」
昼から何度も書き直された予定表を思い出す。
先輩が『自由時間』と『夜食』を書き加えたことも。
「澪が言ったから」
突然、名前を呼ばれた。
これまでは、ずっと白石さんだった。
聞き間違いかと思い、先輩を見る。
暗くて表情はよく見えない。
「今、何て?」
先輩の肩がわずかに動く。
「白石さんが言ったから」
呼び方は、いつものものに戻っていた。
「そうですか」
聞き間違いだったのかもしれない。
そう思うことにした。
それでも、先ほどの音だけは耳に残っている。
「先輩」
「何?」
「さっきの話、途中までしかできませんでした」
「中学のこと?」
「はい」
「話したくなったら聞く」
「今、話さなくてもいいですか?」
「いい」
先輩は迷わず答えた。
「理由が分からなくても?」
「白石さんが話したくないことは分かるから」
それで十分だと言われた気がした。
「先輩は、無理に聞かないんですね」
「聞いてほしいときもある?」
「分かりません」
「なら、話せるようになるまで待つ」
「はい」
窓の外に星はない。
雨に隠され、空の色さえ分からない。
それでも私は、隣に黒瀬先輩がいることを確認できた。
会話が途切れる。
先輩も私も、窓の向こうを見たまま動かない。
一人で空を見ていた頃なら、何も見えない夜に長く立っている理由はなかった。
今は違う。
星が見えないことよりも、同じ窓の前に二人で立っていることの方が、少しだけ大切に思えた。




