7話 近すぎる人
黒瀬先輩と夕焼けを撮った翌日、私はいつもより少し早く教室へ着いた。
窓際の席へ鞄を置き、カメラのケースを机の上に出す。
昨日撮った写真は、家に帰ってから一通り確認した。
夕日に染まった雲。
光を反射する校舎の窓。
橙色から薄紫へ変わっていく空。
その中に立つ黒瀬先輩。
文化祭に使えそうな写真には印をつけた。
けれど、先輩が写っている二枚には何もつけていない。
文化祭へ出すつもりがないからだ。
見返すつもりはなかったはずなのに、気づけばまた画面を開いていた。
空の方を向いて立つ黒瀬先輩。
こちらへ背中を向けているだけなのに、画面の中の先輩は、私の知らない空を見ているように見えた。
「朝から何見てるの?」
耳元で声がした。
慌ててカメラの画面を消す。
振り向くと、ひかりが机へ身を乗り出し、私のすぐ隣から画面をのぞき込んでいた。
「近い」
「おはよう」
「先に挨拶して」
「おはよう、澪」
「おはよう」
返事をすると、ひかりは満足そうに笑った。
今日は朝から私のクラスへ来たらしい。
「今の、先輩が写ってる写真?」
「見えてたの?」
「後ろ姿だけ」
「勝手に見ないで」
「勝手に見たんじゃなくて、見えるところにあったの」
ひかりがもう一度カメラへ顔を近づけようとする。
私はケースごと胸元へ引き寄せた。
「見せない」
「一枚くらいいいじゃん」
「撮る許可しか取ってないから。ほかの人に見せるとは言ってない」
「ちゃんとしてるね」
「普通です」
「じゃあ、先輩にはもう送った?」
「昨日の夜に」
「返事は?」
「届いたとだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
黒瀬先輩から届いたメッセージは短かった。
『受け取りました。ありがとう』
そのあとに、
『後ろ姿の写真も好きです』
と続いていた。
どちらも特別な言葉ではない。
それなのに、何度か読み返してしまった。
「澪?」
「何?」
「今、先輩からの返事を思い出してた?」
「違う」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てるよ」
ひかりがさらに顔を近づける。
私はその額を手で押し返した。
「本当に近い」
「昔からこれくらいでしょ」
「昔から近すぎる」
「でも、避けないよね」
言われてから、考える。
無理に離れるほどではない。
ひかりがこうすることには慣れている。
小学生の頃から、私が何かを隠すと横からのぞき込み、歩くときには腕を組もうとする。
何度注意しても、大きくは変わらなかった。
「朝倉さん」
静かな声が聞こえた。
月城さんが教室の入口に立っている。
「おはよう、月城さん」
「おはようございます」
月城さんは自分の席へ鞄を置き、私たちを見る。
「白石さんが困っているように見えます」
「困ってる?」
ひかりが私へ尋ねる。
「少し」
「じゃあ離れる」
ひかりはすぐに机から身を起こした。
「最初からそうしてください」
「でも、澪は嫌なら言うから」
「言わないと続けるんですか?」
「嫌じゃないときもあるでしょ」
「ありますか?」
月城さんが私を見る。
二人に答えを待たれ、少し困る。
「毎回嫌なわけではないです」
「ほら」
ひかりが胸を張る。
「許可を得たことにはなりません」
「月城さんは厳しいね」
「確認しているだけです」
月城さんはそう言いながら、私の隣の席へ座った。
「ですが、白石さんも慣れすぎていると思います」
「そうですか?」
「朝倉さんが急に近づいても、あまり驚いていません」
「小学生の頃からなので」
「何年くらいですか?」
「十年くらい?」
ひかりが答える。
「正確には九年」
「数えてるんだ」
「ひかりが一年多く言ったから」
「ほとんど十年でしょ」
「一年は大きい」
「そういうところだけ細かいよね」
ひかりは笑い、私の机に置かれたカメラケースを指した。
「それ、放課後に見せるんだよね?」
「文化祭に使えそうな写真だけ」
「先輩が写ってる方は?」
「見せない」
「即答だ」
「文化祭に使わないから」
月城さんがカメラを見る。
「映像へ使用する写真は、今日選ぶ予定です」
「分かってます」
「昨日の夕焼けなら、少なくとも候補として確認できます」
「見てないのに?」
「昨日の空を撮った記録であることは確かです。使用できるかは、見てから判断します」
「月城さんらしい答え」
「どういう意味ですか?」
「慎重」
「必要なことです」
ひかりは月城さんの返事に笑った。
月城さんは納得していない顔をしながらも、それ以上は言い返さなかった。
教室の扉が開き、担任が入ってくる。
「朝倉、自分の教室へ戻れ」
「今行きます」
ひかりは私の机を軽くたたき、入口へ向かう。
「昼休み、ここで食べようね」
「勝手に決めないで」
「嫌?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ決まり」
ひかりは笑いながら教室を出ていった。
担任が黒板へ日付を書く。
私はカメラをケースへ戻した。
隣から視線を感じる。
「何ですか?」
「白石さんと朝倉さんの会話は、結論が分かりにくいですね」
「ひかりが勝手に決めるので」
「ですが、白石さんも最後には認めています」
「断るほどではないからです」
「そうですか」
月城さんは前を向いた。
それ以上は何も言わなかった。
けれど、少しだけ納得していないように見えた。
◇
昼休みになると、ひかりは宣言どおり私の教室へ来た。
今日は購買のパンを二つ持っている。
「澪、半分交換しよう」
「何と何を?」
「私の焼きそばパンと、澪の卵サンド」
「自分で買えばよかったのに」
「二種類食べたいから」
ひかりは机を寄せ、私の隣へ椅子を置いた。
月城さんも反対側へ座る。
「朝倉さんは、毎日ここで食べるんですか?」
「迷惑?」
「そうは言っていません」
「月城さんも一緒だからいいでしょ」
「私を理由にしないでください」
ひかりは焼きそばパンを半分に分け、片方を私のパンの袋へ入れた。
代わりに、私の卵サンドを当然のように一つ取る。
「まだ交換するって言ってない」
「嫌だった?」
「もう取ったあとに聞かないで」
「返す?」
「いい」
「ありがとう」
ひかりは卵サンドを食べ、満足そうにうなずいた。
「おいしい」
「購買のものだから、いつも同じ味です」
「澪と交換したから、少しおいしい」
「味は変わらない」
「気分の話」
月城さんが私たちのパンを見る。
「以前も、よく交換していたんですか?」
「小学生の遠足の頃から」
ひかりが答える。
「お菓子も交換してたよね」
「ひかりが私の分を先に食べることが多かった」
「その代わり、私の分もあげたでしょ」
「選んでから」
「好きなものを選んでもらった方がいいと思って」
「自分が苦手なものを残しただけ」
「そんなこともあったかも」
ひかりは悪びれずに笑う。
月城さんは小さく首を傾けた。
「白石さんは、それで怒らなかったんですか?」
「怒ったと思います」
「覚えてない」
「ひかりが忘れてるだけ」
「でも、次の日には普通に話してたよね」
「ずっと怒っているほどではなかったから」
「澪は優しいんだよ」
「諦めているだけです」
「それでも一緒にいてくれる」
ひかりはそう言って、私の肩へ頭を寄せた。
「重い」
「少しだけ」
「食べにくい」
「じゃあ、食べ終わるまで」
「今すぐ離れて」
「はい」
ひかりは素直に頭を上げる。
月城さんは一度ひかりを見てから、自分のお弁当へ視線を戻した。
「どうしました?」
「朝倉さんは、白石さんに触れることが多いですね」
「幼なじみだから」
「幼なじみなら、普通なんでしょうか」
「人によると思います」
私が答える。
「ひかりは距離が近いので」
「澪には特にね」
「自分で言うんだ」
「幼なじみだから」
ひかりは同じ理由を繰り返す。
窓の外では、昨日より雲が増えていた。
夕焼けを撮った空は、もうどこにも残っていない。
同じ場所でも、毎日違う。
それなのに、ひかりとの距離だけは昔からあまり変わっていなかった。
「澪、昨日の写真、本当に見せてくれないの?」
「文化祭用なら放課後に」
「先輩が写ってる方は?」
「見せない」
「月城さんも見たいよね?」
「許可のない写真を見るつもりはありません」
「真面目」
「当然です」
「じゃあ、先輩に聞いてみよう」
「やめて」
「本人がいいって言ったら?」
「それでも見せない」
「どうして?」
「私が見せたくないから」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
ひかりが目を瞬く。
「分かった」
「それだけ?」
「澪がそこまで言うなら見ないよ」
もっとからかわれると思っていた。
けれど、ひかりはすぐに引き下がった。
それから卵サンドの残りを食べる。
「大事なんだね」
「また言ってる」
「悪い意味じゃないよ」
ひかりは口元を拭きながら笑った。
「澪が自分の気持ちを言えるの、いいことだと思う」
「写真を見せないと言っただけです」
「それでも」
ひかりは焼きそばパンへ手を伸ばす。
「前の澪なら、私が何度も頼んだら、仕方ないって見せてくれたかもしれないから」
否定できなかった。
見せたくなくても、相手が見たいと言うなら、その方がよいのかもしれない。
以前なら、そう考えていたと思う。
「変わった?」
私が尋ねる。
「少しだけ」
「どこが?」
「自分が嫌なことを、嫌って言えるようになった」
ひかりは笑う。
「私は、今の方がいいと思う」
「そう」
何と答えればよいか分からず、それだけ返した。
月城さんは会話へ入らず、静かにお弁当を食べていた。
ただ、いつもより少しだけひかりの方を見る回数が多かった。
◇
放課後、部室では昨日撮った写真を選ぶことになった。
机の中央に私のカメラを置き、黒瀬先輩、ひかり、月城さんが画面を囲む。
「先輩が写った写真は飛ばします」
先に伝えると、ひかりが小さく笑った。
「分かってる」
黒瀬先輩がひかりを見る。
「私が写った写真?」
「昨日、澪が先輩を撮ったんですよね」
「聞いたの?」
「本人が言いました」
「言わされた」
「会話の流れだよ」
黒瀬先輩は私へ視線を向けた。
「見せたくないの?」
「文化祭には使わないので」
「私は構わないけど」
「私が構います」
答えると、先輩は少しだけ目を見開いた。
ひかりが隣で笑いをこらえている。
「何?」
「何でもありません」
「絶対何かある」
「ないです」
月城さんが机を指先で軽くたたいた。
「写真の確認を始めませんか?」
「そうね」
黒瀬先輩がうなずく。
私は昨日撮った最初の写真を表示した。
雲の橙色が少し薄く、校舎の窓は白く光っている。
「一枚目は明るすぎます」
「比較用に残してもいい」
黒瀬先輩が言う。
「失敗したものも?」
「設定の違いを見る資料にはなる」
「月城さんと同じことを言ってる」
ひかりが言う。
「失敗も記録になるって」
「正しいから」
「やっぱり似てる」
「似ていません」
月城さんは即座に否定した。
写真を順番に進める。
露出を下げたもの。
雲の形を大きく入れたもの。
校舎と空を半分ずつ写したもの。
同じ場所で撮った写真なのに、少しずつ色も構図も違う。
「これ、好き」
ひかりが一枚を指す。
空よりも校舎の窓を大きく入れた写真だった。
「星が写ってないよ」
私は言った。
「文化祭の最初に使うんでしょ。夕方から夜になる前の場面」
「そうですね」
月城さんが画面を見る。
「窓の光から始めて、空の色へ切り替えることができます」
「使えますか?」
「映像にしてみないと分かりません。ただ、候補には入れたいです」
候補。
その言葉だけで、少し緊張する。
自分だけで見ていた写真が、文化祭で使う映像の候補になる。
「次」
黒瀬先輩が言う。
写真を送る。
橙色の雲。
薄紫の空。
さらに送ろうとして、指が止まった。
次は、黒瀬先輩の顔が写った写真だった。
「飛ばします」
「待って」
黒瀬先輩が言う。
「どうして?」
「私も確認したい」
「昨日見ましたよね」
「送ってもらったものとは、画面の見え方が違うかもしれない」
「同じです」
「飛ばす必要はないと思うけど」
先輩は平然としている。
見られたくないのは、私だけらしい。
「先輩がいいなら、私も――」
「ひかりは見ないで」
「分かったよ」
ひかりと月城さんが画面から目をそらす。
私はカメラを持ち上げ、黒瀬先輩にだけ見える角度へ向けた。
撮られた本人だから見せる。
それだけのはずなのに、三人の中で先輩だけに見せていることを意識すると、画面を送る指が少し落ち着かなかった。
先輩が写真を確認する。
昨日、夕焼けを背に立っていた姿。
空の色は残っている。
先輩の顔は少し暗い。
「やっぱり少し暗い」
「昨日も言ってました」
「でも、このままでいいと思う」
「直さなくていいんですか?」
「明るくしすぎると、空の色が変わるから」
黒瀬先輩はしばらく写真を見ていた。
「白石さんは、どう思う?」
「何がですか?」
「この写真」
「私は――」
言いかけて、答えに迷う。
うまく撮れたとは思っていない。
もっと明るくできたかもしれない。
髪も少し乱れている。
けれど、撮り直したいとは思わなかった。
「残しておきたいです」
黒瀬先輩は私を見る。
「そう」
短く答え、画面から離れた。
「もう次へ進んでいい」
先輩の後ろ姿が写った写真も飛ばし、その次へ進む。
「もういいよ」
ひかりと月城さんが画面へ視線を戻した。
◇
写真を一通り選び終えると、月城さんが候補をメモへまとめた。
「夕方の写真は、四枚程度使用できそうです」
「そんなに?」
「すべてを長く表示するわけではありません。二秒から三秒で切り替えることもできます」
「それなら、すぐ終わるね」
ひかりが言う。
「上映全体が五分から十分なら、一枚を長く映し続ける必要はありません」
「澪の写真、もっと見せたいのに」
「夕焼けだけの上映ではありません」
「分かってるけど」
ひかりは椅子の背へ寄りかかり、私の肩へ腕を回した。
カメラはすでに机へ置いてある。
危険ではない。
「ひかり、重い」
「写真選びで疲れた」
「見ていただけでしょ」
「真剣に見てたから」
「離れて」
「少しだけ」
ひかりはそう言いながら、完全には離れない。
私は肩を動かし、腕の位置を少し下げさせた。
その様子を、黒瀬先輩が見ていた。
「何ですか?」
私が尋ねると、先輩は一度だけ瞬いた。
「何でもない」
「何でもない顔ではないよ」
ひかりが先に反応する。
「どんな顔?」
「先輩らしい無表情だけど、少しだけ考えてる顔」
「分からない」
「私は分かります」
「朝倉さんの思い込みでは?」
月城さんが言う。
「澪はどう思う?」
ひかりが尋ねる。
黒瀬先輩を見る。
いつもと大きく違うようには見えない。
けれど、視線は私ではなく、肩に回されたひかりの腕へ向いていた。
「ひかりの腕を見てる?」
口にすると、先輩の視線が私へ戻る。
「見ていた」
「どうして?」
「近いと思ったから」
「ひかりはいつもこんな感じです」
「そう」
黒瀬先輩は短く答えた。
ひかりが私の肩から腕を下ろす。
「邪魔でした?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ何ですか?」
「ただ、白石さんが慣れているように見えたから」
先輩の言葉に、私は少し考える。
「小学生の頃からの友達なので」
「長いんだね」
「九年くらいです」
「ほとんど十年」
ひかりが訂正する。
「昨日もその話をしてた」
「九年は九年」
「来年には十年だから」
「今はまだ九年」
二人で言い合っていると、黒瀬先輩が少しだけ目を細めた。
「仲がいいのね」
「幼なじみだから」
ひかりが答える。
黒瀬先輩の視線が、もう一度私たちの間へ向く。
「朝倉さんは、人との距離が近いのね」
「違います」
考える前に答えていた。
三人の視線が私へ集まる。
「ひかりは、私には昔からこんな感じです」
黒瀬先輩がわずかに目を見開いた。
「そう」
それだけ答えた。
どうして、すぐに否定したくなったのだろう。
ひかりのことを誤解されたくなかっただけなのか。
それとも別の理由なのか、自分でも分からなかった。
「澪が、私には昔から近いって認めてくれた」
ひかりがうれしそうに言う。
「ひかりが勝手に近いだけです」
「またその言い方」
ひかりは不満そうにしながらも笑っていた。
黒瀬先輩は会話を打ち切るように、机の上の予定表を引き寄せた。
「次の活動について話す」
いつもより少しだけ早口に聞こえた。
「夏休みの校外観測について、水野先生から許可をもらえそう」
「合宿ですか?」
ひかりがすぐに身を乗り出す。
「まだ正式決定ではない。ただ、候補日と場所を決めるように言われた」
「泊まり?」
「一泊を予定している」
「やった!」
ひかりが両手を上げる。
「星、見られますか?」
月城さんが尋ねる。
「街明かりの少ない場所を探す。天候次第だけど」
「カメラを持っていってもいいですか?」
私は尋ねた。
「もちろん。星を撮る練習もする」
「先輩が教えてくれますか?」
「そのつもり」
黒瀬先輩はすぐに答えた。
昨日の夕焼けとは違う。
今度は夜の空を撮る。
文化祭へ使える写真になるかもしれない。
「私も教えてもらおうかな」
ひかりが言う。
「スマートフォンで星って撮れますか?」
「機種と設定による」
「先輩、私にも教えてください」
「白石さんとは違う説明になるけど」
「どうして?」
「使う機材が違うから」
「そっか」
ひかりは納得したようにうなずく。
その会話を聞きながら、胸の奥に小さな違和感が残った。
先輩がひかりへ撮影方法を教える。
それは当然のことだ。
天文部の活動なのだから、私だけが教わるわけではない。
分かっている。
それでも、昨日先輩から教えてもらったことが、私だけに向けられたものではなかったのだと改めて気づいた。
「白石さん」
黒瀬先輩に呼ばれる。
「はい」
「どうしたの?」
「何でもありません」
「そう」
先輩はそれ以上聞かなかった。
私は机の上に置かれたカメラへ視線を落とす。
画面の中には、昨日選んだ夕焼けの写真が表示されている。
誰かと同じ場所にいても、見ているものは違う。
黒瀬先輩から教わったことだった。
けれど、自分が見ているものをほかの誰かにも見てほしいのか。
それとも、自分だけが見ていたいのか。
その違いは、まだ分からなかった。
◇
下校時刻になり、四人で部室を出た。
廊下を歩きながら、ひかりは合宿へ持っていくお菓子の話をしている。
「一人五百円くらい?」
「遠足ではありません」
月城さんが言う。
「でも夜はお腹が空くよ」
「夕食は出ると思います」
「夜食は別」
「食べすぎると眠くなります」
「星を見るなら起きてないといけないもんね」
「だから控えた方がよいと言っています」
「じゃあ、眠くならないお菓子を探す」
「そのようなものがあるんですか?」
二人は並んで歩いていた。
ひかりが話すたびに少し身体を寄せても、月城さんはもう離れなかった。
その口元が、わずかに緩んでいる。
「先輩」
私は黒瀬先輩の隣へ並んだ。
「何?」
「どうして、ひかりの距離を気にしたんですか?」
先輩の足が少しだけ遅くなった。
「近かったから」
「それだけですか?」
「それだけ」
黒瀬先輩は前を向いたまま答える。
その横顔を見ても、考えていることは分からない。
「白石さんは、あの距離に慣れているのね」
「はい。昔からなので」
「嫌ではない?」
「近すぎるとは思います。でも、嫌なときは言っています」
「それならいい」
先輩の声が少しだけ柔らかくなった。
「黒瀬先輩は、近いのが苦手ですか?」
「苦手というより、慣れていない」
「お姉さんとは?」
「姉は、朝倉さんほど近くなかった」
先輩がひかりのことを思った以上によく見ていたことが、少し意外だった。
「先輩は?」
「私?」
「誰かと近くなることはありますか?」
尋ねると、黒瀬先輩は少し黙った。
「分からない」
「先輩も分からないんですね」
「そうね」
校舎の出口が近づく。
前を歩いていたひかりが振り返った。
「澪、先輩と何話してるの?」
「距離の話」
「私の?」
「少し」
「また近すぎるって言われた?」
「言われた」
ひかりは少し考え、黒瀬先輩を見る。
「先輩も、そんなに離れなくていいのに。近い方が話しやすいですよ」
「ひかり」
思わず強い声が出た。
ひかりが驚いて口を閉じる。
黒瀬先輩も私を見る。
「私は普通の距離だと思うけど」
「私は近い方が話しやすいです」
「朝倉さんを基準にしないで」
「それもそうですね」
ひかりは笑い、再び前を向いた。
月城さんが小さな声で、
「朝倉さんは、ときどき余計なことを言いますね」
と注意する。
「ごめん」
ひかりは素直に謝った。
私は隣を歩く黒瀬先輩を見ることができなかった。
先輩も何も言わない。
ただ、さっきより少しだけ歩く位置が近くなっていた。
袖が触れるほどではない。
手を伸ばしても届かない距離でもない。
ひかりのように、当たり前に触れられる近さではなかった。
それでも私は、その距離を少しも遠いとは思わなかった。




