第6話 先輩と夕焼けを撮る
文化祭で使う写真を選ぶことになってから、私はいつも以上に空を気にするようになった。
前から空は見ていた。
けれど今は、ただ眺めるだけではない。
雲の形。
光の向き。
校舎の影。
昨日と今日で、どこが違うのか。
文化祭で誰かに見せる写真になるかもしれないと思うと、いつもの空も少し違って見えた。
「今日は晴れそうだね」
昼休み、窓の外を見たひかりが言った。
朝は薄い雲が広がっていたが、今は西の空に青い部分が増えている。
「夕焼けになるかな」
「天気予報では、夕方まで晴れです」
月城さんが答える。
転入してきたばかりの頃より、月城さんが昼休みに教室へいる時間は増えていた。
今日も私の机の横へ椅子を持ってきて、ひかりと三人で昼食を食べている。
「月城さん、天気予報も確認してるの?」
「文化祭の映像に使う写真を撮る予定がありますから」
「まだ撮るって決まってないよ」
私は言った。
「昨日、黒瀬先輩がカメラを持ってくるように言っていたでしょう」
「夕焼けを撮るとは聞いてない」
「撮影できそうなら、と話していました」
「それなら、撮る予定なんじゃない?」
ひかりが私の顔をのぞき込む。
「カメラは持ってきてるんでしょ?」
「持ってきてるけど」
「じゃあ逃げられないね」
月城さんが言う。
「逃げるつもりはないです」
「少し嫌そうな顔してるよ」
「嫌ではない」
「じゃあ、緊張してる?」
「少しだけ」
文化祭で使うための写真。
その言葉がつくと、今までより失敗してはいけないような気がしてしまう。
黒瀬先輩は、失敗しても構わないと言うかもしれない。
それでも、自分の写真が企画の一部になるなら、少しでもよいものを撮りたかった。
「先輩と二人で撮るんでしょ?」
ひかりが聞く。
「たぶん」
「また、たぶんですか」
月城さんが言う。
「黒瀬先輩から、今日は二人で撮影すると聞いています」
「月城さんは知ってるんだ」
「昨日、機材の話をしていたときに」
「私はカメラを持ってきてとしか聞いてない」
「黒瀬先輩は、夕焼けを撮るところまで伝えたつもりなのかもしれません」
そうかもしれない。
黒瀬先輩は、必要なことだけを簡潔に伝える。
だから、ときどき言葉が足りなくなる。
「澪、顔が少し赤くない?」
「赤くない」
「夕焼けを撮る前から夕焼け色」
「ひかり」
「はい」
私が名前を呼ぶと、ひかりは笑いながら自分の弁当へ戻った。
月城さんは私とひかりを交互に見たあと、何も言わずに卵焼きを口へ運んだ。
◇
放課後、部室へ入ると、黒瀬先輩はすでにカメラと三脚を準備していた。
ひかりと月城さんは、水野先生へプロジェクターの貸し出しについて確認しに行っている。
今日は部室に、私と黒瀬先輩しかいない。
「こんにちは」
「こんにちは」
先輩は私の鞄を見る。
「カメラは?」
「持ってきました」
「出して」
机の上へケースを置き、中からカメラを取り出す。
黒瀬先輩も自分のカメラを持ち上げた。
「今日は夕焼けを撮る」
「はい」
「昨日、カメラを持ってきてと言ったでしょう」
「夕焼けを撮るとは聞いていません」
黒瀬先輩の手が止まる。
「そこまで伝えたつもりだった」
「月城さんには伝わっていました」
「月城さんと機材の話をして、そのまま白石さんにも話した気になっていたみたい」
「そうだったんですね」
「ごめんなさい」
黒瀬先輩が素直に謝った。
「いえ。カメラは持ってきていたので」
「でも、直接伝えるべきだった」
先輩は小さく息を吐き、三脚を肩へかけた。
「次から気をつける」
「はい」
その短いやり取りだけで、不思議と緊張が少しほどけた。
「どこで撮るんですか?」
「校舎の西側」
「いつもの階段ではなくて?」
「あそこでも撮れる。でも今日は、もう少し空が広く見える場所へ行く」
「校内にありますか?」
「ある」
黒瀬先輩は部室の鍵を閉め、先に廊下へ出た。
私はカメラを首から下げ、そのあとを追う。
◇
向かったのは、特別棟のさらに奥にある非常階段だった。
普段はほとんど使われていないらしい。
扉を開けると、外の空気が流れ込んできた。
階段の踊り場は金属製の柵に囲まれている。
目の前には校舎の屋根が低く広がり、その向こうに西の空が見えた。
「ここ、初めて来ました」
「部員以外はあまり来ない」
「先輩はよく来るんですか?」
「前は」
「前?」
黒瀬先輩はすぐには答えなかった。
三脚を広げ、足の長さを調整する。
「二年生の頃、姉と何度か」
黒瀬先輩のお姉さん。
以前、この天文部に所属していた人。
第1話で天文部へ入った理由を尋ねたとき、先輩が少しだけ話してくれた。
「お姉さんと?」
「夕焼けや月を撮った」
「ここで」
「そう」
先輩は柵の外へ視線を向ける。
空はまだ明るい。
西の端にある雲だけが、少しずつ黄色へ変わり始めていた。
「今日は、私がいてもいいんですか?」
聞いたあと、自分でも変な質問だと思った。
「どうして?」
「お姉さんとの場所なら」
「今は天文部の撮影場所でもある」
黒瀬先輩は迷わず答えた。
「白石さんに教えたくないなら、連れてこない」
「そうですよね」
「嫌だった?」
「違います」
慌てて首を横へ振る。
「大切な場所なのかなと思っただけです」
「大切ではある」
先輩はカメラを三脚へ取りつけた。
「でも、誰にも見せない場所ではない」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
私も自分の三脚を出そうとして、鞄の中を探した。
けれど、持ってきたのはカメラだけだった。
「三脚、忘れました」
「今日は手持ちでもいい」
「大丈夫ですか?」
「夕焼けなら、まだ光がある」
黒瀬先輩は私のカメラを受け取り、設定画面を確認した。
ISO感度と露出を調整し、明るさを少し抑える。
「最初は、この設定で撮ってみて」
「全部覚えた方がいいですか?」
「今は必要ない。確認しながらでいい」
カメラを返される。
「まず、撮りたいものを決める」
「夕焼けです」
「夕焼けの何を撮りたい?」
また、その質問だった。
何を撮りたいのか。
何を残したいのか。
私は空を見る。
雲の下側が淡い橙色に染まり始めている。
校舎の窓にも光が反射し、細長い帯のように輝いていた。
「雲の色」
「それだけ?」
「校舎に光が映っているところも」
「なら、両方入れてみて」
私はカメラを構えた。
画面の上半分に空。
下半分に校舎。
シャッターを押す。
一枚目を確認すると、空が思っていたより白く写っていた。
「明るすぎます」
「露出を少し下げる」
黒瀬先輩が私の横へ立つ。
画面を見るために、いつもより少し距離が近くなる。
「ここをマイナスへ動かす」
言われたとおりに操作する。
もう一度、同じ構図で撮る。
今度は雲の橙色が残った。
「違う」
「どちらが近い?」
「二枚目の方です」
「なら、その設定を基準にする」
黒瀬先輩は自分のカメラへ戻った。
私は画面を見ながら、小さく息を吐く。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「手が止まってる」
「設定を確認してました」
「そう」
先輩はそれ以上聞かなかった。
◇
空の色は、数分ごとに変わっていった。
黄色だった光が橙色へ変わり、その奥に薄い桃色が混じる。
同じ場所から撮っているのに、一枚ごとに違う写真になる。
「先輩は、何を撮っているんですか?」
「雲」
「私と同じです」
「同じ雲でも、見ている場所は違う」
黒瀬先輩のカメラ画面を見せてもらう。
私の写真には校舎と空が半分ずつ入っていた。
先輩の写真では、校舎は画面の下端に少しだけ写り、雲の重なりが大きく捉えられている。
「全然違います」
「どちらが正しいわけでもない」
「でも、先輩の方がきれいです」
「白石さんは、校舎に光が当たっているところを撮りたかったんでしょう」
「はい」
「なら、私と同じ構図にする必要はない」
「上手な人のまねをした方が早くないですか?」
「設定をまねるのはいい。構図まで同じにすると、白石さんが撮る意味がなくなる」
黒瀬先輩は自分のカメラを下ろした。
「私が見ていないものを、白石さんが見つけることもあるから」
月城さんが雲の切れ間を見つけたときのことを思い出す。
あのとき私は、言われるまで気づかなかった。
けれど今、私が見ている校舎の反射を、黒瀬先輩は撮っていない。
誰かと同じ場所にいても、同じものを見ているとは限らない。
「先輩は、私の写真のどこがいいと思ったんですか?」
前から聞きたかったことだった。
けれど、質問するのが怖かった。
もし、文化祭で使うと言ったのも、部員だから気を遣っただけだったら。
そんなことを考えて、聞けずにいた。
黒瀬先輩は空から私へ視線を移した。
「どうして今聞くの?」
「文化祭で使うと言ってくれたから」
「理由が必要?」
「知りたいです」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
先輩は少し黙った。
「白石さんの写真には、人が見ていない時間が写っている」
「人が見ていない時間?」
「雨上がりの階段。授業が始まる前の窓。誰もいない廊下から見た空」
先輩は一つずつ挙げた。
どれも、私が普段撮っていた写真だった。
「きれいな星空の写真は、探せばたくさんある」
「はい」
「でも、白石さんが見ていた場所と時間は、白石さんにしか撮れない」
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけた。
「だから、文化祭で使いたいと思ったんですか?」
「それだけではない」
先輩は再び空を見る。
「白石さんが普段どんな空を見ているのか、もっと見たいと思った」
風が吹き、髪が頬へかかる。
手で押さえながら、先輩の横顔を見る。
写真のことだ。
きっと、それ以上ではない。
それでも、すぐには返事ができなかった。
「私も」
声が出たあと、何を続けるべきか迷った。
黒瀬先輩がこちらを見る。
「私も、先輩の写真をもっと見たいです」
本当は、写真だけではなかった。
先輩がどこで空を見ていたのか。
どんなときに写真を撮るのか。
何を大切にしているのか。
もっと知りたいと思った。
けれど、そこまでは言えなかった。
「部室にある」
「全部ですか?」
「全部ではない」
「ほかにもあるんですね」
「家に」
「いつか見せてもらえますか?」
聞いた瞬間、踏み込みすぎたと思った。
先輩の表情は変わらない。
ただ、返事までに少し間があった。
「見せられるものなら」
「ありがとうございます」
「まだ約束してない」
「でも、断ってもいません」
自分でも珍しい言い方だった。
黒瀬先輩が、わずかに目を見開く。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そうね」
今まで見た中で、一番分かりやすい笑顔だった。
私は反射的にカメラを持ち上げかけて、途中で止めた。
「撮らないの?」
先輩が気づく。
「人は撮りません」
「どうして?」
「勝手に撮るのはよくないので」
「空は勝手に撮るのに」
「空には許可を取れません」
「撮りたいと思ったなら、聞けばいい」
黒瀬先輩は空を背にしたまま立っている。
夕日の光が横から差し、黒い髪の輪郭だけが淡く明るくなっていた。
「撮ってもいいんですか?」
「今はいい」
許可をもらった。
それでも、すぐにはカメラを構えられなかった。
「どうしたの?」
「先輩を撮るとは思ってなかったので」
「嫌なら撮らなくていい」
「嫌ではありません」
私はカメラを持ち上げた。
画面の中央に黒瀬先輩が映る。
背景には、橙色から薄紫へ変わり始めた空。
先輩はもう笑っていなかった。
けれど、普段より表情が柔らかい。
「そのままでいてください」
「どのくらい?」
「少しだけ」
「分かった」
シャッターを押す。
一枚。
画面を確認する。
先輩の顔は少し暗く、空の色だけが強く出ていた。
「どう?」
「先輩が暗いです」
「逆光だから」
「設定を変えます」
露出を上げると、今度は空の色が薄くなる。
先輩を明るくすると夕焼けが消え、夕焼けを残すと先輩が影になる。
何を残したいか。
以前教えられた言葉を思い出す。
「両方残したいです」
「今の条件では、工夫が必要」
黒瀬先輩は夕日が直接入らない位置へ少し移動した。
背景の空には色が残り、顔にも横から光が当たる。
「ここなら?」
「さっきより見えます」
「撮ってみて」
もう一度カメラを構える。
黒瀬先輩が、まっすぐこちらを見る。
レンズ越しに目が合う。
シャッターを押す指が、少しだけ遅れた。
「白石さん」
「はい」
「撮らないの?」
「撮ります」
息を整え、シャッターを押す。
今度は、先輩の顔も空の色も残っていた。
完璧ではない。
少し暗いし、髪の一部は風で乱れている。
けれど、さっき笑ったあとの柔らかさが、まだ表情に残っていた。
「見せて」
黒瀬先輩が隣から画面をのぞき込む。
いつもより近い距離に、画面を送る指が少しだけ止まった。
「どうですか?」
「少し暗い」
「やっぱり」
「でも、嫌いではない」
先輩は画面を見たまま言った。
「送って」
「先輩に?」
「私が写っているから」
「分かりました」
文化祭には使わない写真。
天文部の記録でもない。
黒瀬先輩が、自分のために欲しいと言った写真。
そのことが、なぜかうれしかった。
◇
日が沈むと、空の橙色は急速に薄くなった。
青と紫の間のような色が広がり、校舎の窓に映っていた光も消えていく。
「そろそろ戻る」
黒瀬先輩が三脚を畳む。
「もう少し撮れませんか?」
「下校時刻が近い」
「あと一枚だけ」
口にしてから、以前の私なら言わなかったと思った。
決められた時間だから。
先輩が戻ると言ったから。
それだけで諦めていたかもしれない。
黒瀬先輩は時計を確認する。
「三分」
「ありがとうございます」
私は柵の近くへ戻り、最後の一枚を撮る場所を探した。
夕焼けはほとんど消えている。
西の空に残った細い桃色。
その下に、暗くなり始めた校舎。
画面の端に、三脚を片づけている黒瀬先輩の姿が少しだけ入った。
人を撮るつもりはなかった。
けれど、先輩がいることで、今日の空になっている気がした。
「先輩」
「何?」
「少しだけ、そこにいてください」
黒瀬先輩は手を止めた。
「私も入るの?」
「後ろ姿だけです」
「許可は?」
「お願いします」
「いいよ」
先輩は空の方を向いた。
私は構図を整える。
広い空。
暗い校舎。
端に立つ一人の後ろ姿。
シャッターを押した。
「撮れました」
「見せて」
先輩が近づく。
画面を二人で見る。
最初に撮った夕焼けより、色は少ない。
人物も小さい。
けれど、今日撮った中で一番好きだと思った。
「どう?」
黒瀬先輩が尋ねる。
「好きです」
考える前に答えていた。
先輩の視線が、画面から私へ移る。
「写真が?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「写真です」
急いで答える。
「そう」
黒瀬先輩は画面へ視線を戻した。
私もカメラへ目を落とした。
けれど、しばらくは画面に表示された文字が頭に入らなかった。
◇
部室へ戻ると、ひかりと月城さんが机の上へ資料を広げていた。
「遅かったね」
ひかりがすぐにこちらを見る。
「撮影してたから」
「夕焼け、撮れた?」
「少し」
「見せて」
ひかりが立ち上がりかける。
「明日」
「どうして?」
「まだ整理してないから」
「今見たいのに」
「白石さんが選んでからでよいのでは?」
月城さんが止める。
「映像へ使えるかどうかも、そのあと確認します」
ひかりは私のカメラを気にしながらも、無理に手を伸ばさなかった。
「澪」
ひかりが私の隣へ来て、小さな声で呼ぶ。
「何?」
「先輩と二人で、どうだった?」
「写真を撮っただけ」
「楽しかった?」
私はカメラの画面を思い出す。
夕焼け。
校舎。
少しだけ笑った黒瀬先輩。
最後に撮った後ろ姿。
「楽しかった」
正直に答えると、ひかりが少し驚いた顔をした。
「澪がすぐ答えた」
「何?」
「いつもなら、少し考えるのに」
「今回は考える必要がなかったから」
ひかりは意味ありげに私を見る。
「撮った写真、ずいぶん見られたくなさそうだね」
「整理してないだけ」
「先輩のカメラだけじゃなくて、先輩本人も写ってたりする?」
「どうして分かるの?」
言ってから、間違えたと気づいた。
「写ってるんだ」
「文化祭用ではありません」
「見たい」
「駄目」
「本人の許可を取ればいい?」
「駄目」
「澪の写真なのに?」
「駄目」
ひかりは少し考えたあと、にやりと笑った。
「大事なんだ」
「撮った写真は大事にするものです」
「そういうことにしておく」
「ひかり」
「何も言ってないよ」
十分に言っている。
ひかりが私の肩へ手を回しかけたところで、月城さんがカメラを指した。
「あ、危ないね」
ひかりは途中で手を止める。
私はカメラをケースへ戻した。
今日撮った写真は、まだ誰にも見せていない。
文化祭に使えるものがあるかも分からない。
それでも、一枚だけは企画とは関係なく残しておきたいと思った。
黒瀬先輩が夕焼けの前に立っている写真。
誰かと一緒に空を見た時間まで写っているような気がした。




