第4話 四人目ではなく、月城さん
月城さんが転入してきてから、三日が過ぎた。
私と月城さんは、どちらも口数が少ない。
けれど、黙る理由はたぶん違う。
「白石さん」
朝のホームルームが始まる前、隣から名前を呼ばれた。
「はい」
「昨日借りた本ですが、今日返してもよいでしょうか」
月城さんの机には、天文部から借りた古い星座の本が置かれていた。
昨日の放課後、彼女は約束どおり部室へ来た。
入部の話はしなかった。
本を一冊借り、黒瀬先輩と短く星の話をしたあと、下校時刻になる前に帰っていった。
「部室へ持っていけば大丈夫です」
「今日も活動していますか?」
「今日は活動日です。黒瀬先輩から聞いています」
「今日は、たぶんではないんですね」
月城さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「一昨日のこと、気にしてますか?」
口にしてから、聞かない方がよかったかもしれないと思った。
一昨日、ひかりは月城さんを「四人目」と呼んだ。
黒瀬先輩とひかりは謝ったが、それで月城さんの警戒が消えたとは限らない。
「何についてでしょう」
「天文部の人数のことです」
月城さんは、すぐには答えなかった。
窓の外へ一度だけ目を向ける。
今日の空には薄い雲が広がっていたが、雨は降らないらしい。
「気にしていない、と言えば嘘になります」
「そうですよね」
「ですが、謝っていただきました」
「それなら、もう気にしていませんか?」
「気にしなくなったかは、まだ分かりません」
月城さんは正直に答えた。
「ただ、見学をやめる理由にもならないと思っています」
「天文部には興味があるんですね」
「本と機材には」
月城さんはそこで言葉を切った。
「部にいる人たちのことは?」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。
「すみません。今のは――」
「まだ、分かりません」
月城さんは静かに答えた。
「ですが、嫌ではありません」
その言葉に、少しだけ安心した。
「白石さんは、どうして天文部へ入ったんですか?」
「空を見るのが好きだからです」
「それだけですか?」
問い返され、言葉に詰まった。
最初は、写真について教えてもらうためだった。
部室なら無理に話さなくてもよさそうだった。
そして黒瀬先輩が、言えない日があってもいいと言ってくれた。
「ここなら、無理をしなくてもいいと思ったからです」
「無理をしない」
「話し続けなくてもいいし、何か言いたくなったときには聞いてもらえるので」
「黒瀬先輩に?」
「はい」
答えると、月城さんが少し考えるように私を見た。
「黒瀬先輩の言葉を、よく覚えているんですね」
「入部を決めた理由なので」
「そうですか」
黒瀬先輩のことを、まだ詳しく知っているわけではない。
それでも、無理に答えを求めない人だとは分かっていた。
担任が教室へ入ってきた。
月城さんは前を向き、会話はそこで終わった。
◇
放課後、月城さんと一緒に特別棟へ向かった。
渡り廊下へ入ると、前方からひかりが歩いてくる。
いつものように走ってはいない。
私たちを見つけると片手を上げたが、そのまま少し離れた場所で立ち止まった。
「澪、月城さん。お疲れさま」
「お疲れさまです」
月城さんが頭を下げる。
ひかりはすぐ隣へ並ばず、私たちの少し前を歩き始めた。
一昨日のことを気にしているのだろう。
普段なら月城さんへ次々に質問するのに、今日は何も言わない。
「ひかり、今日は静かだね」
「静かな方がいいかなと思って」
「どうして?」
「私、距離が近いってよく言われるから」
ひかりは前を向いたまま答えた。
「この前も、勝手に四人目って決めちゃったし。しばらく大人しくしようかなって」
「しばらくとは?」
月城さんが尋ねる。
「一週間くらい?」
「長いですね」
「三日?」
「短くする問題でしょうか」
月城さんの返事に、ひかりが足を止める。
「話しかけてもいいの?」
「必要なことなら」
「必要ではない話は?」
「内容によります」
「難しい」
「普通に話せばいいと思う」
私が言うと、ひかりは振り返った。
「この前みたいに押しつけなければいいんだよね」
月城さんは少し考え、うなずいた。
「はい」
「じゃあ、今日のお昼は何を食べた?」
「それは必要な話ですか?」
「仲よくなるためには必要かもしれない」
「お弁当です」
「好きなおかずは?」
「卵焼きです」
「甘い方?」
「はい」
「私も!」
ひかりの声が急に明るくなる。
そのまま月城さんの隣へ移動しようとして、一度だけ足を止めた。
月城さんの様子を確かめてから、半歩離れた位置へ並ぶ。
月城さんもその距離を一度確認し、それから歩調を合わせた。
「朝倉さんは、なぜ天文部へ入ったんですか?」
「澪とクラスが離れて、放課後に時間が余るようになったから。でも、入ってみたら思ったより楽しかった」
「星が好きだったんですか?」
「嫌いではなかったけど、詳しくはなかったよ。黒瀬先輩に誘われて、そのまま入ったの」
「今は何を担当しているんですか?」
「場を明るくする係」
「正式な役割ですか?」
「私が決めた」
「正式ではないんですね」
「でも重要だよ」
ひかりは胸を張った。
一昨日までなら、そのまま月城さんへ入部を勧めていたかもしれない。
今日は言わなかった。
その代わり、月城さんが部室へ向かっていることを、ただ喜んでいるように見えた。
◇
部室へ入ると、黒瀬先輩は本棚の前に立っていた。
何冊かの天文雑誌を取り出し、机の上へ並べている。
「こんにちは」
私たちが挨拶すると、先輩が振り返った。
「こんにちは」
月城さんが借りていた本を両手で差し出す。
「ありがとうございました」
「もう読んだの?」
「興味のある部分は」
「別の本も見たい?」
「よいでしょうか」
「構わない。好きなものを選んで」
月城さんは本棚へ向かった。
昨日、長く見つめていた色あせた天文雑誌を一冊取り出す。
表紙には、十年以上前の日付が印刷されていた。
「そんなに古いのでいいの?」
ひかりが尋ねる。
「昔の観測記事に興味があります」
「星って、昔と今で変わるの?」
「短い期間では、大きく変わりません」
「じゃあ、新しい本と同じ?」
「観測機材や写真の撮り方は変わっています」
月城さんは雑誌を開いた。
「当時の機材で、どのように撮影したのかを見るのは面白いです」
「へえ」
ひかりも隣からページをのぞき込む。
一昨日のように顔を近づけすぎない。
月城さんも、一歩下がらなかった。
私は自分の席へ鞄を置き、カメラを取り出した。
「黒瀬先輩」
「何?」
「一昨日の写真です」
画面を表示して渡す。
黒瀬先輩は一枚ずつ確認した。
雲の間から夕日が差し込んだ写真。
月城さんに教えてもらって撮った、光の筋が残る写真。
「月城さんが、雲の切れ間を教えてくれました」
「そう。よく気づいたわね」
「雲の動きを見ていただけです」
黒瀬先輩はもう一度写真を見る。
「それを写真に残した白石さんもよかった」
褒められているのだと分かるまで、少し時間がかかった。
「ありがとうございます」
「次は、自分でも空全体を見るといい」
「はい」
黒瀬先輩からカメラを受け取る。
その横で、ひかりがスマートフォンを差し出した。
「先輩、私の写真も」
表示された写真には、夕空よりも窓ガラスに映ったひかりの顔の方がはっきり写っている。
「窓へ近づけすぎないように言ったはずだけど」
「近づいた方がきれいに撮れると思って」
「反対」
「次は気をつけます」
月城さんが、ひかりの画面を横から見る。
「これはこれで、面白いと思います」
「本当?」
「空を撮ろうとした朝倉さんの顔も記録されています」
「失敗写真じゃない?」
「失敗した理由も含めて記録です」
月城さんの言葉に、ひかりが目を輝かせた。
「月城さん、優しい」
「事実を言っただけです」
月城さんは声を出して笑わなかったが、口元がわずかに緩んでいた。
◇
しばらくして、黒瀬先輩が机の上へ一枚の紙を置いた。
「今日は今後の活動について決めたい」
「活動?」
ひかりが椅子へ座る。
「部員が三人になったから、昨年よりできることは増えた」
月城さんが本から顔を上げる。
黒瀬先輩は彼女へ一度だけ視線を向けたが、入部の話はしなかった。
「まず、今月中に一度、校内で観測をしたい」
「何を見るんですか?」
私が尋ねる。
「天候次第。月か、明るい星」
「夏の大三角は?」
ひかりが月城さんを見る。
「下校時刻まででは難しいと思います。日が長い時期なので」
「じゃあ、学校では見られない?」
「活動時間を延ばせれば、可能性はあります」
「延長には顧問の付き添いが必要」
黒瀬先輩が補足する。
「水野先生に相談する」
先輩は紙へ予定を書き込んだ。
「それから、部が存続できるなら、夏休みに校外観測も考えている」
「合宿?」
ひかりの声が弾む。
「まだ決まっていない」
「泊まりですか?」
「まだ決まっていない」
「お菓子は持っていっていいですか?」
「決まってから考えて」
「大事なことなのに」
ひかりが不満そうに頬を膨らませる。
「もう一つ、文化祭の企画も四人で決めたい」
黒瀬先輩の言葉に、月城さんが予定表へ視線を落とした。
「文化祭で活動実績を残す必要があるんですか?」
「そう。人数だけでは、部として残すのは難しい」
「どのような企画を?」
「まだ決めていない」
「本当に、これから決めるんですね」
「だから四人で考える」
黒瀬先輩が答える。
月城さんは文化祭と書かれた欄を見つめたあと、校外観測の予定へ視線を移した。
「校外観測は、部員でなくても参加できますか?」
部室の空気が少しだけ止まった。
ひかりが口を開きかける。
けれど、一昨日のことを思い出したのか、黒瀬先輩を見るだけに留めた。
「学校の活動として行くなら、原則は部員だけ」
黒瀬先輩は正直に答えた。
「そうですか」
「ただし、まだ計画段階。今決める必要はない」
「分かりました」
月城さんはそれ以上聞かなかった。
けれど、予定表からすぐには目を離さなかった。
「月城さん」
ひかりが、いつもより慎重な声で呼ぶ。
「何ですか?」
「一緒に行けたら、私は楽しいと思う」
入ってほしいとは言わなかった。
四人目とも呼ばない。
ただ、自分の気持ちだけを伝えた。
「どうしてですか?」
「一昨日、一緒に空を見たのが楽しかったから」
ひかりは迷わず答えた。
「星は見えなかったよ」
「夕焼けは見えたでしょ。それに、月城さんが雲の動きを教えてくれた」
「それだけですか?」
「それだけじゃ駄目?」
月城さんは黙った。
ひかりも、答えを急かさなかった。
私は二人の間にある沈黙を見つめる。
一昨日までのひかりなら、すぐに「じゃあ入ろう」と続けていたと思う。
けれど今日は待っている。
月城さんが、自分で言葉を選ぶのを。
「駄目ではありません」
やがて月城さんが答えた。
「ただ、私は途中で転校するかもしれません」
「一昨日、聞いた」
「部へ入っても、最後までいられない可能性があります」
「それも聞いた」
「それでもよいんですか?」
ひかりは一度だけ黒瀬先輩を見る。
先輩は何も言わなかった。
ひかり自身に答えさせるつもりらしい。
「途中でいなくなるかもしれないから、最初からいない方がいいとは思わない」
ひかりは言った。
「私は、月城さんともっと空を見たい」
月城さんの表情が、わずかに揺れた。
驚いたようにも、困ったようにも見える。
「私のことを、まだほとんど知らないのに」
「だから、これから知りたいんだよ」
ひかりは笑った。
「星に詳しいからでも、四人目が必要だからでもなくて。月城さんと一緒にいたら楽しそうだから」
一昨日とは違う言葉だった。
空いている一席を埋めてほしいのではない。
月城さん自身に来てほしい。
その違いは、私にも分かった。
「私も、月城さんに来てほしいです」
考え終わる前に、言葉が出ていた。
月城さんとひかりが、私を見る。
「月城さんは、私が気づかなかった空の変化を教えてくれました」
途中で言葉が止まりそうになる。
それでも、続けた。
「これからも、そういうものを一緒に見られたらいいと思います」
自分から誰かに来てほしいと伝えたことが、すぐには思い出せなかった。
月城さんはしばらく私を見たあと、黒瀬先輩へ視線を移した。
「黒瀬先輩は、どう思っていますか?」
「あなたは機材も、空も、本もきちんと見ている」
黒瀬先輩はまっすぐ月城さんを見る。
「役に立つからですか?」
「役割は後から決めればいい」
月城さんが静かに待つ。
「私でなくても、人数が増えればよいのではと言ったわね」
「はい」
「今は違う」
黒瀬先輩は短く言った。
「今は、あなたに来てほしいと思っている」
部室が静かになる。
ひかりも、私も、何も言わなかった。
月城さんは机の上の古い天文雑誌へ視線を落とした。
表紙の端を、指でそっと押さえる。
「私は、人と親しくなることが得意ではありません」
「私も得意ではありません」
思わず答える。
「でも、ひかりが何度も来るうちに、嫌ではなくなりました」
「澪、もう少しいい言い方なかった?」
「嘘は言ってない」
「それはそうだけど」
ひかりは不満そうにしながらも、少し笑っていた。
月城さんの口元もわずかに緩む。
しばらくしてから、彼女は天文雑誌を閉じた。
「入部届は、ありますか?」
ひかりが勢いよく立ち上がる。
「ある!」
「座って」
黒瀬先輩が止める。
ひかりは立ったまま動きを止めた。
「職員室へ取りに行く必要があります」
「私、行ってきます」
「今度は走らないで」
「歩きます」
「本当に?」
「急いで歩きます」
「それを走ると言うの」
ひかりは靴音を立てないように、不自然な早歩きで部室を出ていった。
その背中を見送り、月城さんが小さく息を吐く。
「にぎやかな人ですね」
「かなり」
私が答える。
「嫌になった?」
「いいえ」
月城さんは首を横へ振った。
「静かな場所は好きですが、静かでなければいられないわけではありません」
その言葉に、黒瀬先輩の目元がわずかに柔らかくなった。
◇
ひかりが戻ってくると、入部届を月城さんの前へ置いた。
部活動名以外は何も書かれていない。
月城さんが紙を見下ろす。
「今、書いてもよいですか?」
「もちろん」
ひかりが即答する。
黒瀬先輩は口を挟まなかった。
私は、自分が名前を書いたときのことを思い出していた。
同じ紙。
同じ欄。
けれど、月城さんがそこへ向ける気持ちは、私と同じではない。
彼女はペンを取り、ゆっくりと名前を書く。
月城静香。
日付を書き終え、黒瀬先輩へ差し出した。
「入部します」
黒瀬先輩が書類を受け取る。
「理由を聞いてもいい?」
「部を残すためではありません」
月城さんは、はっきりと言った。
「ここに来たいと思ったから入ります」
ひかりが笑う。
黒瀬先輩は小さくうなずいた。
「分かった。これからよろしく」
「よろしくお願いします」
「これで四人!」
ひかりが両手を上げる。
月城さんが、すぐに彼女を見る。
「四人目とは呼ばないでください」
「分かってる」
ひかりは両手を下ろした。
「月城さんは、月城さんだから」
月城さんが、わずかに目を見開く。
それから、小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、改めて。月城さん、天文部へようこそ」
「よろしくお願いします」
「いつか静香って呼んでもいい?」
「なぜ今それを聞くんですか?」
「大事だから」
「まだ月城さんでお願いします」
「分かった」
ひかりは素直に引き下がった。
その代わり、黒板へ大きく文字を書く。
『四人』
月城さんがそれを見つめる。
「消した方がいい?」
ひかりが慎重に尋ねる。
「いいえ」
月城さんは首を横へ振った。
「今日は、そのままで構いません」
「今日は?」
「明日以降は、活動内容を書いた方がよいと思います」
「厳しい」
「正しい」
黒瀬先輩が言う。
ひかりは黒板の『四人』を見上げたあと、その下へ小さく書き足した。
『活動内容を決める』
「これなら?」
「よいと思います」
「やった」
ひかりは黒板消しを置き、月城さんの隣へ戻った。
今度も、近づきすぎない距離で止まる。
窓の外には、夕方の薄い雲が広がっていた。
星はまだ見えない。
それでも部室には、昨日までなかった一人分の声が増えていた。
天文部に加わったのは、人数を満たすための四人目ではない。
星を知り、機材に興味を持ち、ときどき言葉がまっすぐすぎる月城静香だった。
黒板の「四人」を見て、今度こそ天文部が四人になったのだと思った。
そして、四人になった天文部で最初に何をするのか。
その答えはまだ、黒板の下に残された空白の中にあった。




