第3話 転入生は空を知っている
翌朝、教室へ入ると、いつもより少しだけ騒がしかった。
窓際では数人のクラスメイトが机を囲み、廊下へ何度も顔を向けている。普段なら席に着く時間を過ぎても、話し声がなかなか小さくならない。
私は自分の席へ鞄を置き、椅子を引いた。
「今日、転校生が来るんだって」
前の席に座る女子が、隣の友人へ声を潜める。
「この時期に?」
「親の仕事らしいよ」
「女子?」
「たぶん。先生が女子の制服を準備してたって」
聞くつもりはなくても、近くの会話は耳に入ってくる。
六月の途中で転校してくるのは珍しい。
新学期から二か月が過ぎ、教室の中ではすでに一緒に行動する相手が決まっている。今からその中へ入るのは大変そうだと思った。
けれど、知らない相手のことを想像しても仕方がない。
私は鞄から教科書を取り出し、机の中へ入れた。
その上に、カメラが入った小さなケースを置く。
昨日の帰り際に黒瀬先輩から、忘れずに持ってくるように言われていた。
朝の空はまだ曇っていたが、天気予報では午後から晴れ間が出るらしい。
本当に夕焼けが見えるかは分からない。
それでも、家を出る前にカメラの充電を確認し、予備のバッテリーまで鞄へ入れてきた。
教室の前方で扉が開く。
担任が入ってくると、散らばっていた生徒たちが急いで自分の席へ戻った。
「朝のホームルームを始める前に、転入生を紹介する」
教室の空気が一段階明るくなる。
担任が廊下へ顔を向けた。
「入って」
短い返事のあと、一人の女子生徒が教室へ入ってきた。
肩甲骨の近くまである髪は、黒に近い色だった。光が当たると、わずかに青みがかって見える。
肌は白く、目元は細い。
制服をきちんと着ているのに、どこかこの教室の風景から少しだけ離れて見えた。
教室中の視線を受けても、彼女は立ち止まらなかった。
見られることにも、教壇の前で短く名乗ることにも、慣れているように見える。
「月城静香です」
黒板に書かれた文字と同じ名前を、彼女は落ち着いた声で口にした。
「親の仕事の都合で、こちらへ引っ越してきました。よろしくお願いします」
担任がもう少し話すよう促すかと思ったが、そのまま空いている席を示した。
「席は白石の隣だ。分からないことがあれば聞いてくれ」
一瞬、自分の名前を聞き間違えたのかと思った。
けれど、担任が示しているのは、確かに私の右隣にある空席だった。
月城さんがこちらへ歩いてくる。
周囲の視線まで一緒についてきたような気がして、私は机の上へ目を落とした。
「よろしくお願いします」
隣に立った月城さんが言う。
顔を上げると、淡い色の瞳と目が合った。
青というほど鮮やかではない。灰色にも、薄い茶色にも見える色だった。
「白石澪です。よろしくお願いします」
それだけ答える。
月城さんは小さくうなずき、椅子へ座った。
担任が連絡事項を話し始めると、教室の視線も少しずつ前へ戻っていった。
私は教科書を開く。
隣では、月城さんが配られた時間割を確認している。
何か説明した方がよいのかもしれない。
教科書の置き場所や、移動教室の場所。この学校には細かな決まりがいくつもある。
けれど、何から話せばよいのか分からない。
考えている間に、月城さんが時間割を机へ置いた。
「白石さん」
「はい」
「次の授業は、この教室で合っていますか?」
「合ってます。移動するのは三時間目の理科です」
「理科室はどこでしょう」
「特別棟の二階です。休み時間になったら案内します」
「ありがとうございます」
会話はそれで終わった。
無理に続けようとする気配もない。
そのことに少しだけ安心した。
◇
最初の休み時間になると、何人かの女子がすぐに月城さんの席へ集まった。
「前はどこに住んでたの?」
「部活は入ってた?」
「好きなものとかある?」
質問が途切れずに続く。
月城さんは一つずつ丁寧に答えていた。
前に住んでいた町のこと。
部活動には所属していなかったこと。
好きなものを聞かれると、少し考えてから、
「静かな場所が好きです」
と答えた。
「図書館とか?」
「はい」
「本を読むんだ」
「ときどき」
短い返事が続く。
愛想が悪いわけではない。
ただ、自分から会話を広げようとはしていなかった。
質問する側も、やがて何を聞けばよいのか分からなくなったらしい。
「また分からないことがあったら聞いてね」
「ありがとうございます」
休み時間が終わる前に、月城さんの周囲から人が離れていった。
私は何を話せばいいか分からなくて黙る。
月城さんは、話す必要がないと判断して黙っているように見えた。
似ているようで、たぶん違う。
「理科室、案内してもらえますか?」
月城さんに声をかけられ、私は椅子から立った。
「今、行きますか?」
「遅れると困るので」
「まだ時間はあります」
「早く着く分には問題ありません」
真面目な人らしい。
廊下へ出ると、月城さんは私の半歩後ろを歩いた。
「ここが職員室で、その先の渡り廊下を通ると特別棟です」
「特別棟には何がありますか?」
「理科室と音楽室、美術室。それから、文化部の部室がいくつか」
「文化部」
月城さんが、わずかに視線を上げた。
「白石さんも、何かの部活に所属しているんですか?」
昨日までは、そう聞かれても「入っていない」と答えていた。
けれど、今は違う。
「天文部です」
「天文部」
月城さんは同じ言葉を繰り返した。
「入ったばかりですけど」
「どのような活動を?」
「まだ、ほとんど何もしてません」
「星を観測する部ではないんですか?」
「たぶん、そうです」
「たぶん?」
「私も詳しくなくて」
自分で答えていて、天文部員らしくないと思った。
けれど月城さんは笑わなかった。
「星に詳しくなくても、入れるんですね」
「部長には、空を見るのが好きなら十分だと言われました」
昨日の黒瀬先輩の言葉を思い出す。
月城さんは渡り廊下の窓から空を見上げた。
朝より雲が薄くなっている。
「よい部長さんですね」
「まだ、よく分かりません」
「入部したのでは?」
「昨日です」
「それなら、分からなくても当然ですね」
月城さんは淡々と答えた。
距離を詰めるわけでもなく、離れようとするわけでもない。
必要な言葉だけを選ぶ話し方は、少しだけ黒瀬先輩に似ている。
けれど、同じではなかった。
黒瀬先輩の沈黙には、相手の返事を待っている時間がある。
月城さんの沈黙は、最初からその先へ踏み込まないためのものに見えた。
「ここが理科室です」
「ありがとうございます」
月城さんは扉の札を確認し、教室へ入った。
◇
昼休みになると、月城さんの机の周りには、朝ほど人が集まらなかった。
数人から一緒に食べようと誘われていたが、
「少し校内を見て回りたいので」
と断っているのが聞こえた。
彼女は小さな弁当箱を持ち、教室を出ていった。
私はその背中を見送ったあと、購買で買ったパンの袋を開ける。
ひかりは別のクラスなので、昼休みに毎日一緒にいるわけではない。
誰とも話さずに食べることには慣れていた。
しばらくしてから、机の横に立つ人影があった。
「白石さん」
顔を上げると、クラスメイトの女子が二人並んでいた。
「月城さん、どこに行ったか知ってる?」
「校内を見て回ると言ってました」
「そっか。白石さんの隣だから、仲よくなったのかと思って」
「まだ今日会ったばかりだから」
「そうだよね」
二人はそれ以上聞かず、自分たちの席へ戻っていった。
仲よくなったわけではない。
案内しただけだ。
そう思いながら、パンを一口食べる。
転校したばかりの学校を一人で歩くのは、落ち着かないのではないだろうか。
けれど、本人がそうしたいと言っているのなら、追いかける理由はない。
パンを食べ終え、カメラのケースへ手を伸ばした。
昨日撮った写真を確認しようと電源を入れたところで、月城さんが教室へ戻ってきた。
弁当箱を持っていない。
代わりに、図書室の貸出袋を手にしている。
席へ座った月城さんは、中から一冊の本を取り出した。
濃紺の表紙。
題名には、夏の星座という文字が入っていた。
「星が好きなんですか?」
考えるより先に、声をかけていた。
月城さんがこちらを見る。
自分から話しかけたことに気づき、少しだけ後悔した。
「嫌いではありません」
「その本」
「図書室で見つけました」
「天文部にも、似た本がたくさんあります」
「そうですか」
会話が終わりそうになる。
無理に続ける必要はない。
そう思ったのに、私はもう一度口を開いた。
「かなり古いものもありますけど」
「古い本は嫌いではありません」
「星座の本を探していたんですか?」
「特に決めてはいませんでした。ただ、目に入ったので」
月城さんは表紙へ視線を落とす。
「前の学校にも、天文部はありましたか?」
「ありませんでした」
「じゃあ、星のことは本で?」
「本や、アプリで調べました」
「詳しいんですね」
「詳しいというほどではありません」
そう言いながら、月城さんは本を開いた。
夏の大三角が描かれたページだった。
「この季節なら、晴れれば見つけやすいと思います」
「どれがですか?」
私が画面をのぞき込むと、月城さんは三つの星を順に指した。
「ベガとアルタイルとデネブ。三つを結ぶと、夏の大三角になります」
「名前は聞いたことがあります」
「見つけやすいので、最初に探す星としてはよいと思います」
「月城さんは、実際に見たことがありますか?」
「あります」
「どこで?」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど月城さんは、特に表情を変えなかった。
「前に住んでいた町で。さらにその前の町でも見ました」
「いろいろな場所で?」
「何度か転校しているので」
親の仕事で引っ越してきたとは聞いていたが、今回が初めてではないらしい。
「学校や家は変わりますが、星は大きく変わりません」
月城さんは窓の外を見る。
午前中よりも雲が薄くなり、ところどころ青空が見えていた。
「見える方角や時期を知っていれば、別の場所でも同じ星を見つけられます」
「だから、星が好きなんですか?」
月城さんはすぐには答えなかった。
ページの端へ指を置いたまま、少しだけ考える。
「そうかもしれません」
曖昧な答えだった。
けれど、否定はしなかった。
「天文部の本も、借りられると思います」
「部員でなくても?」
「たぶん」
「また、たぶんなんですね」
月城さんの口元が、わずかに緩んだ。
初めて見る表情だった。
「部長に聞いてみます」
「お願いします」
そこで昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。
月城さんは本を閉じ、机の中へ入れる。
「白石さん」
「はい」
「天文部は、今日も活動していますか?」
「していると思います」
「見学しても構わないでしょうか」
「私も昨日まで見学だったので、大丈夫だと思います」
「では、放課後に場所を教えてください」
私はうなずいた。
あと一人。
昨日、ひかりが黒板に書いた文字が頭に浮かんだ。
けれど、その言葉を月城さんへ伝えるのは、少し違う気がした。
◇
午後の授業が終わる頃には、雲の隙間から青空が見えるようになっていた。
黒板の上にある時計を確認する。
放課後になれば、夕焼けを撮れるかもしれない。
教科書を鞄へ入れていると、月城さんが隣で立ち上がった。
「今からでよいですか?」
「はい」
教室を出ようとしたところで、廊下から聞き慣れた声がした。
「澪!」
ひかりが扉から顔を出す。
「迎えに来たよ。今日、晴れそうだから先輩が――」
途中で言葉を止め、私の隣にいる月城さんを見た。
「転校生?」
「月城静香さん。今日から同じクラス」
「月城さん、こっちは朝倉ひかり。天文部の部員」
「朝倉です。よろしく」
「月城です。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる月城さんの手元には、昼休みに借りた星座の本があった。
ひかりはすぐにそれへ気づいた。
「星、好きなの?」
「嫌いではありません」
「じゃあ、天文部に興味ある?」
「見学をお願いしようと思っています」
ひかりの目が明らかに輝いた。
「もちろん! 何回でも見学していいし、そのまま入部してもいいよ」
「ひかり」
「何?」
「まだ見学」
「分かってるって」
昨日、私へ言ったのと同じ返事だった。
たぶん分かっていない。
「部室はこっち」
ひかりは月城さんの隣へ並び、当然のように歩き始める。
「月城さんは何組?」
「白石さんと同じです」
「じゃあ、澪の隣の席?」
「はい」
「いいなあ。私、澪とクラスが違うんだよね」
「朝倉さんと白石さんは、親しいんですか?」
「幼なじみ。小学生の頃からずっと一緒」
「ずっと一緒ではない」
「学校はずっと同じでしょ」
「クラスは違うことが多かった」
「でも毎日話してる」
「ひかりが来るから」
「嫌なら行かないよ?」
「嫌とは言ってない」
月城さんが、私とひかりを交互に見る。
「お二人は仲がよいんですね」
「そうなの」
「ひかりが勝手に近いだけです」
「澪もひどいこと言うようになったよね」
「昔から言ってる」
「昔より遠慮がなくなった」
ひかりは不満そうにしながらも、どこかうれしそうだった。
月城さんは会話へ入るでもなく、置いていかれるでもなく、静かに私たちの隣を歩いていた。
◇
「先輩、四人目を連れてきました」
部室へ入った途端、ひかりが言った。
「見学者です」
私と月城さんの声が重なる。
黒瀬先輩は、机の上に置いていた資料から顔を上げた。
その隣には昨日見せてもらったカメラと、折り畳まれた三脚がある。
「朝倉さん」
「はい」
「見学と入部は違う」
「分かってます」
「昨日も聞いた」
「今日は本当に分かってます」
黒瀬先輩は信じていない顔で、月城さんへ視線を向けた。
「黒瀬冬花。三年。天文部の部長をしている」
「月城静香です。二年です」
「白石さんと同じクラス?」
「はい。本日、転入してきました」
「そう」
黒瀬先輩は机の向かい側にある椅子を示した。
「好きなところに座って」
昨日、私が言われたのと同じ言葉だった。
月城さんは小さく頭を下げ、窓際の椅子へ座る。
その姿を見ながら、私は少しだけ安心していた。
私だけ特別に放っておかれたわけではなかったらしい。
月城さんは部室をゆっくりと見回した。
本棚へ視線が移り、色あせた天文雑誌の背表紙で止まる。
それまでと違い、すぐには目をそらさなかった。
「天文部では、普段どのような活動を?」
月城さんが尋ねる。
黒瀬先輩は一度、ひかりを見る。
「朝倉さん、説明して」
「私ですか?」
「部員だから」
ひかりは胸を張った。
「星を見たり、星が出るのを待ったり、星の本を読んだりします」
「ほとんど同じ内容では?」
「天文部だからね」
「もう少し具体的に」
黒瀬先輩に言われ、ひかりは少し考える。
「観測会をしたり、写真を撮ったり、機材を使ったり。あとは、文化祭に向けて何かする予定です」
「まだ決まっていない」
「何かはします」
「それは活動内容とは言わない」
「じゃあ、先輩が説明してください」
黒瀬先輩は小さく息を吐いた。
「天体観測、記録、天文に関する調査。今は部員が少ないから、大規模な活動はしていない」
「機材は、あれですか?」
月城さんが棚の上に置かれた箱型の機械を示す。
「投影機?」
「分かるの?」
「古い型ですが、簡易プラネタリウム用のものに見えます」
黒瀬先輩がわずかに目を見開いた。
「触ったことがある?」
「ありません。写真で見ただけです」
月城さんは席を立ち、機材へ近づいた。
勝手に触れず、少し離れた場所から側面をのぞき込む。
「かなり古いですね」
「前の部員が使っていたものだから」
「現在も動きますか?」
「昨年は動いた」
「今年は?」
「まだ確認していない」
月城さんは電源コードへ視線を落とした。
「被膜が少し硬くなっています。使うなら、先に確認した方がよいと思います」
「分かるの?」
ひかりが横からのぞき込む。
「古いコードは劣化することがあります。今すぐ危険という意味ではありません」
「確認しておく」
黒瀬先輩は反論せず、短くうなずいた。
「先輩、月城さんに負けてますよ」
「勝負ではない」
「でも、すごいよね。見ただけで分かるんだ」
ひかりは月城さんの横へ並び、同じように機材をのぞき込んだ。
距離が近い。
月城さんがわずかに一歩横へずれた。
「朝倉さん」
「ひかりでいいよ」
「まだ会ったばかりなので」
「じゃあ、静香って呼んでもいい?」
「話が逆では?」
月城さんが初めて、少し困った顔をした。
ひかりは笑ったものの、押し切ろうとはしなかった。
月城さんが下がった分だけ、自分も半歩戻る。
「嫌なら月城さんにする」
「それでお願いします」
「分かった。月城さん」
月城さんの表情から、わずかに力が抜けた。
「月城さんは、機械に詳しいの?」
「特別詳しいわけではありません」
「でも、これが投影機だって分かった」
「以前、同じようなものを調べたことがあります」
「どうして?」
「星を映せる機械に興味があったので」
ひかりは大きくうなずいた。
「やっぱり天文部向きだよ」
「向いているかどうかは分かりません」
「星にも詳しいんでしょ?」
「詳しいというほどでは」
「さっき夏の大三角の説明をしてくれた」
私が言うと、黒瀬先輩が月城さんを見る。
「見つけられる?」
「晴れていれば」
「今日の空なら、日が沈んだあとに見える可能性はある」
「校内からでも?」
「街灯は多いけれど、屋上近くの踊り場なら」
黒瀬先輩の言葉に、私は顔を上げた。
いつも空を見ている場所だった。
「白石さんが写真を撮っている場所ね」
「はい」
「今日はそこから夕焼けを撮る予定だった」
「私たちも行っていいですか?」
ひかりが尋ねる。
「構わない」
「月城さんも行こう」
「見学中ですが」
「見学だから見に行くんだよ」
その理屈だけは合っていた。
ひかりは何度も月城さんの方を見ていた。
そのたびに何か言いたそうに口を開き、黒瀬先輩を見ると閉じている。
何を我慢しているのか、私には分かっていた。
◇
四人で屋上へ続く階段を上がった。
私がいつも使っている踊り場に、これほど人が集まるのは初めてだった。
窓の外では、雲の隙間から夕日が差している。
空の下側が薄い橙色に染まり、その上に灰色の雲が重なっていた。
「きれい」
ひかりが窓へ近づく。
「今日は晴れたって言っていいのかな」
「一部だけ」
黒瀬先輩は三脚を広げながら答えた。
「白石さん、カメラを出して」
「はい」
鞄からカメラを取り出す。
月城さんは少し離れた場所で、窓の外を見ていた。
「月城さんは撮らないの?」
ひかりが尋ねる。
「カメラを持っていません」
「スマートフォンは?」
「ありますが、今は見ていたいので」
「そっか」
ひかりは無理に勧めず、自分のスマートフォンを取り出した。
「私は撮る」
「窓へ近づけすぎると反射する」
黒瀬先輩が注意する。
「分かりました、先生」
「部長」
「はい、部長」
黒瀬先輩は私のカメラを確認し、昨日教えてくれた撮影モードへ切り替えるよう指示した。
「昨日の場所、覚えている?」
「ここです」
ボタンを押す。
画面にいくつかの数字が表示された。
「明るさは?」
「少し暗いです」
「なら、ここを上げる」
言われたとおりに設定を変える。
画面の空が、目で見た色に近づいた。
「撮ってみて」
私は窓枠と空を画面に入れ、シャッターを押した。
写真を確認する。
昨日までの灰色とは違う。
雲の向こうから差す光が、校舎の屋根を薄く照らしていた。
「どう?」
「昨日より、色が残っています」
「見せて」
黒瀬先輩が画面を確認する。
「窓枠を少し減らしてもいい」
「空を大きくするんですか?」
「どちらを見せたいかによる」
昨日と同じ言葉だった。
何を残したいか。
私はもう一度カメラを構え、少しだけ角度を変えた。
「白石さん」
月城さんに呼ばれる。
「雲の切れ間が、右へ動いています」
言われた方を見る。
夕日の光が差す場所が、ゆっくりと移動していた。
私はカメラを右へ向け、もう一度シャッターを押す。
今度は、細い光の筋が写真に残った。
「本当だ」
「雲の流れが速いので、すぐ変わると思います」
月城さんは空を見たまま言った。
「詳しいね」
ひかりが横から口を挟む。
「見れば分かります」
「私は言われるまで気づかなかった」
「朝倉さんは、スマートフォンの画面を見ていたので」
「確かに」
ひかりは素直にうなずき、今度は画面ではなく空を見上げた。
「月城さんは、空を見るのが好きなんだね」
「嫌いではありません」
「好きって言えばいいのに」
「嫌いではない、では駄目ですか?」
「駄目じゃないけど」
ひかりは少し考えてから笑った。
「いつか、好きって言ってくれたらうれしいかも」
「なぜ朝倉さんが?」
「一緒に見られる人が増えるから」
月城さんは返事をしなかった。
ただ、先ほどよりも少し長く、ひかりの顔を見ていた。
やがて夕日は雲の向こうへ隠れた。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
「星が見えるまで待つ?」
ひかりが尋ねる。
「今日は下校時刻までに難しい」
黒瀬先輩が三脚を畳む。
「残念」
「また晴れた日に見ればいい」
「次はいつ?」
「天気次第」
「先輩、毎回答えが待つだけですね」
「天気は急かせないから」
黒瀬先輩の答えに、月城さんがわずかに目を細めた。
「そのとおりだと思います」
「月城さんまで先輩側なの?」
「正しい方に同意しただけです」
「じゃあ、私が正しいときは私の味方?」
「そのときは」
「約束ね」
「約束するほどのことではありません」
月城さんの返事は淡々としている。
それでも、教室にいたときより言葉が少し増えていた。
◇
部室へ戻ると、下校時刻まであまり時間が残っていなかった。
黒瀬先輩が三脚を片づけ、私は撮った写真を確認する。
ひかりは黒板の前に立ち、昨日消したはずの文字をもう一度書こうとしていた。
「ひかり」
「まだ何も書いてないよ」
「書こうとしてた」
「目標を忘れないようにしようかなって」
月城さんが黒板へ目を向ける。
「何の目標ですか?」
「天文部を四人にする目標」
ひかりが答えた。
我慢していた言葉が、とうとう出てしまったらしい。
私はカメラから顔を上げる。
黒瀬先輩も手を止めた。
「現在は三人ですか?」
月城さんが尋ねる。
「先輩と私と澪」
「正式な部活動には四人必要で、月城さんが入ればちょうど四人」
ひかりは明るい声で続けた。
「どう? 入らない?」
「朝倉さん」
黒瀬先輩が低い声で呼ぶ。
「はい」
「急がせない」
「でも、興味はありそうですよ」
「本人に決めてもらう」
月城さんは、黒板に書かれかけた『四』の文字を見ていた。
「私が入れば、部として残れるんですか?」
「人数の条件は満たせる」
黒瀬先輩が答える。
「では、私でなくても、誰か一人入ればよいのでは?」
部室が静かになった。
ひかりが何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
月城さんは誰かを責める口調ではなかった。
ただ、事実を確かめるように尋ねている。
昨日、入部届を前にして手が止まったときの感覚を思い出した。
必要なのは自分ではなく、名前を書いてくれる誰か一人なのではないかと思った感覚。
「人数を埋めるためだけに勧誘しているわけではない」
黒瀬先輩が言った。
「ですが、私のことを知る前から、四人目として数えていました」
ひかりが視線を落とす。
「ごめんなさい」
先に頭を下げた。
「私、うれしくなって。星に詳しい人が来てくれたから」
「星に詳しいことと、入部することは別です」
「うん」
ひかりはいつものように言い返さなかった。
黒瀬先輩も月城さんを見る。
「人数を先に考えたのは事実。悪かった」
短い謝罪だった。
月城さんが、わずかに目を見開く。
「それに」
彼女は一度言葉を切った。
「私は、また転校する可能性があります」
「また?」
「親の仕事の都合です。今回も、いつまでここにいられるか分かりません」
教室で聞いた言葉より、はっきりしていた。
「入部しても、途中でいなくなるかもしれません」
「それでも――」
ひかりが顔を上げる。
けれど黒瀬先輩が、わずかに首を横へ振った。
「今日は見学に来てくれてありがとう」
黒瀬先輩は月城さんへ言った。
「入部するかどうかは、今決めなくていい」
「ですが、人数が必要なのでは?」
「必要だからといって、急がせる理由にはならない」
月城さんは黒瀬先輩を見る。
「見学には、また来てもよいでしょうか」
「もちろん」
「本を借りるだけでも?」
「構わない」
黒瀬先輩の返事に、月城さんは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
入部するとは言わなかった。
それでも、もう来ないとも言わなかった。
◇
下校時刻になり、四人で部室を出た。
ひかりは普段より少しだけ静かだった。
渡り廊下へ入ったところで、月城さんが立ち止まる。
「朝倉さん」
「何?」
「先ほどは、言い方が強かったかもしれません」
「月城さんは悪くないよ。私が勝手に決めただけだから」
「ですが、見学は楽しかったです」
ひかりが顔を上げる。
「本当?」
「はい」
「じゃあ、また来てくれる?」
「本を借りたいので」
「それだけ?」
「空も見たいです」
ひかりの表情が明るくなる。
「次は晴れるといいね」
「そうですね」
「晴れなくても、待てばいいんだって」
「それは黒瀬先輩の言葉では?」
「天文部で教わったことだから、私の知識にもなったの」
「そういうものですか」
「そういうもの」
月城さんは少しだけ首を傾けた。
完全に納得したようには見えない。
それでも、ひかりの隣から離れようとはしなかった。
昇降口で、黒瀬先輩とは方向が分かれた。
「白石さん」
呼び止められ、振り返る。
「今日の写真、明日見せて」
「はい」
「月城さんが教えた場所を撮ったものも」
「分かりました」
黒瀬先輩はうなずき、校門の方へ歩いていった。
その背中を見送っていると、ひかりが隣から顔をのぞき込んでくる。
「先輩との約束、増えたね」
「写真を見せるだけ」
「昨日は教えてもらう約束で、今日は見せる約束」
「だから何?」
「別に」
ひかりは意味ありげに笑った。
「月城さん、帰ろう」
「白石さんは?」
「澪も一緒」
勝手に決められた。
けれど、断る理由もなかった。
三人で校門を出る。
空にはまだ雲が残っていたが、西の端だけが淡い桃色に染まっている。
月城さんは何度か、その空を見上げていた。
天文部の空いた一席に、名前はまだない。
それでも私は、そこへ月城さんを当てはめて考えるのをやめようと思った。




