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一人で空を眺めていた私が、廃部寸前の天文部で先輩に恋をするまで  作者: situ725


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3/8

第3話 転入生は空を知っている

 翌朝、教室へ入ると、いつもより少しだけ騒がしかった。


 窓際では数人のクラスメイトが机を囲み、廊下へ何度も顔を向けている。普段なら席に着く時間を過ぎても、話し声がなかなか小さくならない。


 私は自分の席へ鞄を置き、椅子を引いた。


「今日、転校生が来るんだって」


 前の席に座る女子が、隣の友人へ声を潜める。


「この時期に?」


「親の仕事らしいよ」


「女子?」


「たぶん。先生が女子の制服を準備してたって」


 聞くつもりはなくても、近くの会話は耳に入ってくる。


 六月の途中で転校してくるのは珍しい。


 新学期から二か月が過ぎ、教室の中ではすでに一緒に行動する相手が決まっている。今からその中へ入るのは大変そうだと思った。


 けれど、知らない相手のことを想像しても仕方がない。


 私は鞄から教科書を取り出し、机の中へ入れた。


 その上に、カメラが入った小さなケースを置く。


 昨日の帰り際に黒瀬先輩から、忘れずに持ってくるように言われていた。


 朝の空はまだ曇っていたが、天気予報では午後から晴れ間が出るらしい。


 本当に夕焼けが見えるかは分からない。


 それでも、家を出る前にカメラの充電を確認し、予備のバッテリーまで鞄へ入れてきた。


 教室の前方で扉が開く。


 担任が入ってくると、散らばっていた生徒たちが急いで自分の席へ戻った。


「朝のホームルームを始める前に、転入生を紹介する」


 教室の空気が一段階明るくなる。


 担任が廊下へ顔を向けた。


「入って」


 短い返事のあと、一人の女子生徒が教室へ入ってきた。


 肩甲骨の近くまである髪は、黒に近い色だった。光が当たると、わずかに青みがかって見える。


 肌は白く、目元は細い。


 制服をきちんと着ているのに、どこかこの教室の風景から少しだけ離れて見えた。


 教室中の視線を受けても、彼女は立ち止まらなかった。


 見られることにも、教壇の前で短く名乗ることにも、慣れているように見える。


「月城静香です」


 黒板に書かれた文字と同じ名前を、彼女は落ち着いた声で口にした。


「親の仕事の都合で、こちらへ引っ越してきました。よろしくお願いします」


 担任がもう少し話すよう促すかと思ったが、そのまま空いている席を示した。


「席は白石の隣だ。分からないことがあれば聞いてくれ」


 一瞬、自分の名前を聞き間違えたのかと思った。


 けれど、担任が示しているのは、確かに私の右隣にある空席だった。


 月城さんがこちらへ歩いてくる。


 周囲の視線まで一緒についてきたような気がして、私は机の上へ目を落とした。


「よろしくお願いします」


 隣に立った月城さんが言う。


 顔を上げると、淡い色の瞳と目が合った。


 青というほど鮮やかではない。灰色にも、薄い茶色にも見える色だった。


「白石澪です。よろしくお願いします」


 それだけ答える。


 月城さんは小さくうなずき、椅子へ座った。


 担任が連絡事項を話し始めると、教室の視線も少しずつ前へ戻っていった。


 私は教科書を開く。


 隣では、月城さんが配られた時間割を確認している。


 何か説明した方がよいのかもしれない。


 教科書の置き場所や、移動教室の場所。この学校には細かな決まりがいくつもある。


 けれど、何から話せばよいのか分からない。


 考えている間に、月城さんが時間割を机へ置いた。


「白石さん」


「はい」


「次の授業は、この教室で合っていますか?」


「合ってます。移動するのは三時間目の理科です」


「理科室はどこでしょう」


「特別棟の二階です。休み時間になったら案内します」


「ありがとうございます」


 会話はそれで終わった。


 無理に続けようとする気配もない。


 そのことに少しだけ安心した。


     ◇


 最初の休み時間になると、何人かの女子がすぐに月城さんの席へ集まった。


「前はどこに住んでたの?」


「部活は入ってた?」


「好きなものとかある?」


 質問が途切れずに続く。


 月城さんは一つずつ丁寧に答えていた。


 前に住んでいた町のこと。


 部活動には所属していなかったこと。


 好きなものを聞かれると、少し考えてから、


「静かな場所が好きです」


 と答えた。


「図書館とか?」


「はい」


「本を読むんだ」


「ときどき」


 短い返事が続く。


 愛想が悪いわけではない。


 ただ、自分から会話を広げようとはしていなかった。


 質問する側も、やがて何を聞けばよいのか分からなくなったらしい。


「また分からないことがあったら聞いてね」


「ありがとうございます」


 休み時間が終わる前に、月城さんの周囲から人が離れていった。


 私は何を話せばいいか分からなくて黙る。


 月城さんは、話す必要がないと判断して黙っているように見えた。


 似ているようで、たぶん違う。


「理科室、案内してもらえますか?」


 月城さんに声をかけられ、私は椅子から立った。


「今、行きますか?」


「遅れると困るので」


「まだ時間はあります」


「早く着く分には問題ありません」


 真面目な人らしい。


 廊下へ出ると、月城さんは私の半歩後ろを歩いた。


「ここが職員室で、その先の渡り廊下を通ると特別棟です」


「特別棟には何がありますか?」


「理科室と音楽室、美術室。それから、文化部の部室がいくつか」


「文化部」


 月城さんが、わずかに視線を上げた。


「白石さんも、何かの部活に所属しているんですか?」


 昨日までは、そう聞かれても「入っていない」と答えていた。


 けれど、今は違う。


「天文部です」


「天文部」


 月城さんは同じ言葉を繰り返した。


「入ったばかりですけど」


「どのような活動を?」


「まだ、ほとんど何もしてません」


「星を観測する部ではないんですか?」


「たぶん、そうです」


「たぶん?」


「私も詳しくなくて」


 自分で答えていて、天文部員らしくないと思った。


 けれど月城さんは笑わなかった。


「星に詳しくなくても、入れるんですね」


「部長には、空を見るのが好きなら十分だと言われました」


 昨日の黒瀬先輩の言葉を思い出す。


 月城さんは渡り廊下の窓から空を見上げた。


 朝より雲が薄くなっている。


「よい部長さんですね」


「まだ、よく分かりません」


「入部したのでは?」


「昨日です」


「それなら、分からなくても当然ですね」


 月城さんは淡々と答えた。


 距離を詰めるわけでもなく、離れようとするわけでもない。


 必要な言葉だけを選ぶ話し方は、少しだけ黒瀬先輩に似ている。


 けれど、同じではなかった。


 黒瀬先輩の沈黙には、相手の返事を待っている時間がある。


 月城さんの沈黙は、最初からその先へ踏み込まないためのものに見えた。


「ここが理科室です」


「ありがとうございます」


 月城さんは扉の札を確認し、教室へ入った。


     ◇


 昼休みになると、月城さんの机の周りには、朝ほど人が集まらなかった。


 数人から一緒に食べようと誘われていたが、


「少し校内を見て回りたいので」


 と断っているのが聞こえた。


 彼女は小さな弁当箱を持ち、教室を出ていった。


 私はその背中を見送ったあと、購買で買ったパンの袋を開ける。


 ひかりは別のクラスなので、昼休みに毎日一緒にいるわけではない。


 誰とも話さずに食べることには慣れていた。


 しばらくしてから、机の横に立つ人影があった。


「白石さん」


 顔を上げると、クラスメイトの女子が二人並んでいた。


「月城さん、どこに行ったか知ってる?」


「校内を見て回ると言ってました」


「そっか。白石さんの隣だから、仲よくなったのかと思って」


「まだ今日会ったばかりだから」


「そうだよね」


 二人はそれ以上聞かず、自分たちの席へ戻っていった。


 仲よくなったわけではない。


 案内しただけだ。


 そう思いながら、パンを一口食べる。


 転校したばかりの学校を一人で歩くのは、落ち着かないのではないだろうか。


 けれど、本人がそうしたいと言っているのなら、追いかける理由はない。


 パンを食べ終え、カメラのケースへ手を伸ばした。


 昨日撮った写真を確認しようと電源を入れたところで、月城さんが教室へ戻ってきた。


 弁当箱を持っていない。


 代わりに、図書室の貸出袋を手にしている。


 席へ座った月城さんは、中から一冊の本を取り出した。


 濃紺の表紙。


 題名には、夏の星座という文字が入っていた。


「星が好きなんですか?」


 考えるより先に、声をかけていた。


 月城さんがこちらを見る。


 自分から話しかけたことに気づき、少しだけ後悔した。


「嫌いではありません」


「その本」


「図書室で見つけました」


「天文部にも、似た本がたくさんあります」


「そうですか」


 会話が終わりそうになる。


 無理に続ける必要はない。


 そう思ったのに、私はもう一度口を開いた。


「かなり古いものもありますけど」


「古い本は嫌いではありません」


「星座の本を探していたんですか?」


「特に決めてはいませんでした。ただ、目に入ったので」


 月城さんは表紙へ視線を落とす。


「前の学校にも、天文部はありましたか?」


「ありませんでした」


「じゃあ、星のことは本で?」


「本や、アプリで調べました」


「詳しいんですね」


「詳しいというほどではありません」


 そう言いながら、月城さんは本を開いた。


 夏の大三角が描かれたページだった。


「この季節なら、晴れれば見つけやすいと思います」


「どれがですか?」


 私が画面をのぞき込むと、月城さんは三つの星を順に指した。


「ベガとアルタイルとデネブ。三つを結ぶと、夏の大三角になります」


「名前は聞いたことがあります」


「見つけやすいので、最初に探す星としてはよいと思います」


「月城さんは、実際に見たことがありますか?」


「あります」


「どこで?」


 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。


 けれど月城さんは、特に表情を変えなかった。


「前に住んでいた町で。さらにその前の町でも見ました」


「いろいろな場所で?」


「何度か転校しているので」


 親の仕事で引っ越してきたとは聞いていたが、今回が初めてではないらしい。


「学校や家は変わりますが、星は大きく変わりません」


 月城さんは窓の外を見る。


 午前中よりも雲が薄くなり、ところどころ青空が見えていた。


「見える方角や時期を知っていれば、別の場所でも同じ星を見つけられます」


「だから、星が好きなんですか?」


 月城さんはすぐには答えなかった。


 ページの端へ指を置いたまま、少しだけ考える。


「そうかもしれません」


 曖昧な答えだった。


 けれど、否定はしなかった。


「天文部の本も、借りられると思います」


「部員でなくても?」


「たぶん」


「また、たぶんなんですね」


 月城さんの口元が、わずかに緩んだ。


 初めて見る表情だった。


「部長に聞いてみます」


「お願いします」


 そこで昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。


 月城さんは本を閉じ、机の中へ入れる。


「白石さん」


「はい」


「天文部は、今日も活動していますか?」


「していると思います」


「見学しても構わないでしょうか」


「私も昨日まで見学だったので、大丈夫だと思います」


「では、放課後に場所を教えてください」


 私はうなずいた。


 あと一人。


 昨日、ひかりが黒板に書いた文字が頭に浮かんだ。


 けれど、その言葉を月城さんへ伝えるのは、少し違う気がした。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、雲の隙間から青空が見えるようになっていた。


 黒板の上にある時計を確認する。


 放課後になれば、夕焼けを撮れるかもしれない。


 教科書を鞄へ入れていると、月城さんが隣で立ち上がった。


「今からでよいですか?」


「はい」


 教室を出ようとしたところで、廊下から聞き慣れた声がした。


「澪!」


 ひかりが扉から顔を出す。


「迎えに来たよ。今日、晴れそうだから先輩が――」


 途中で言葉を止め、私の隣にいる月城さんを見た。


「転校生?」


「月城静香さん。今日から同じクラス」


「月城さん、こっちは朝倉ひかり。天文部の部員」


「朝倉です。よろしく」


「月城です。よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げる月城さんの手元には、昼休みに借りた星座の本があった。


 ひかりはすぐにそれへ気づいた。


「星、好きなの?」


「嫌いではありません」


「じゃあ、天文部に興味ある?」


「見学をお願いしようと思っています」


 ひかりの目が明らかに輝いた。


「もちろん! 何回でも見学していいし、そのまま入部してもいいよ」


「ひかり」


「何?」


「まだ見学」


「分かってるって」


 昨日、私へ言ったのと同じ返事だった。


 たぶん分かっていない。


「部室はこっち」


 ひかりは月城さんの隣へ並び、当然のように歩き始める。


「月城さんは何組?」


「白石さんと同じです」


「じゃあ、澪の隣の席?」


「はい」


「いいなあ。私、澪とクラスが違うんだよね」


「朝倉さんと白石さんは、親しいんですか?」


「幼なじみ。小学生の頃からずっと一緒」


「ずっと一緒ではない」


「学校はずっと同じでしょ」


「クラスは違うことが多かった」


「でも毎日話してる」


「ひかりが来るから」


「嫌なら行かないよ?」


「嫌とは言ってない」


 月城さんが、私とひかりを交互に見る。


「お二人は仲がよいんですね」


「そうなの」


「ひかりが勝手に近いだけです」


「澪もひどいこと言うようになったよね」


「昔から言ってる」


「昔より遠慮がなくなった」


 ひかりは不満そうにしながらも、どこかうれしそうだった。


 月城さんは会話へ入るでもなく、置いていかれるでもなく、静かに私たちの隣を歩いていた。


     ◇


「先輩、四人目を連れてきました」


 部室へ入った途端、ひかりが言った。


「見学者です」


 私と月城さんの声が重なる。


 黒瀬先輩は、机の上に置いていた資料から顔を上げた。


 その隣には昨日見せてもらったカメラと、折り畳まれた三脚がある。


「朝倉さん」


「はい」


「見学と入部は違う」


「分かってます」


「昨日も聞いた」


「今日は本当に分かってます」


 黒瀬先輩は信じていない顔で、月城さんへ視線を向けた。


「黒瀬冬花。三年。天文部の部長をしている」


「月城静香です。二年です」


「白石さんと同じクラス?」


「はい。本日、転入してきました」


「そう」


 黒瀬先輩は机の向かい側にある椅子を示した。


「好きなところに座って」


 昨日、私が言われたのと同じ言葉だった。


 月城さんは小さく頭を下げ、窓際の椅子へ座る。


 その姿を見ながら、私は少しだけ安心していた。


 私だけ特別に放っておかれたわけではなかったらしい。


 月城さんは部室をゆっくりと見回した。


 本棚へ視線が移り、色あせた天文雑誌の背表紙で止まる。


 それまでと違い、すぐには目をそらさなかった。


「天文部では、普段どのような活動を?」


 月城さんが尋ねる。


 黒瀬先輩は一度、ひかりを見る。


「朝倉さん、説明して」


「私ですか?」


「部員だから」


 ひかりは胸を張った。


「星を見たり、星が出るのを待ったり、星の本を読んだりします」


「ほとんど同じ内容では?」


「天文部だからね」


「もう少し具体的に」


 黒瀬先輩に言われ、ひかりは少し考える。


「観測会をしたり、写真を撮ったり、機材を使ったり。あとは、文化祭に向けて何かする予定です」


「まだ決まっていない」


「何かはします」


「それは活動内容とは言わない」


「じゃあ、先輩が説明してください」


 黒瀬先輩は小さく息を吐いた。


「天体観測、記録、天文に関する調査。今は部員が少ないから、大規模な活動はしていない」


「機材は、あれですか?」


 月城さんが棚の上に置かれた箱型の機械を示す。


「投影機?」


「分かるの?」


「古い型ですが、簡易プラネタリウム用のものに見えます」


 黒瀬先輩がわずかに目を見開いた。


「触ったことがある?」


「ありません。写真で見ただけです」


 月城さんは席を立ち、機材へ近づいた。


 勝手に触れず、少し離れた場所から側面をのぞき込む。


「かなり古いですね」


「前の部員が使っていたものだから」


「現在も動きますか?」


「昨年は動いた」


「今年は?」


「まだ確認していない」


 月城さんは電源コードへ視線を落とした。


「被膜が少し硬くなっています。使うなら、先に確認した方がよいと思います」


「分かるの?」


 ひかりが横からのぞき込む。


「古いコードは劣化することがあります。今すぐ危険という意味ではありません」


「確認しておく」


 黒瀬先輩は反論せず、短くうなずいた。


「先輩、月城さんに負けてますよ」


「勝負ではない」


「でも、すごいよね。見ただけで分かるんだ」


 ひかりは月城さんの横へ並び、同じように機材をのぞき込んだ。


 距離が近い。


 月城さんがわずかに一歩横へずれた。


「朝倉さん」


「ひかりでいいよ」


「まだ会ったばかりなので」


「じゃあ、静香って呼んでもいい?」


「話が逆では?」


 月城さんが初めて、少し困った顔をした。


 ひかりは笑ったものの、押し切ろうとはしなかった。


 月城さんが下がった分だけ、自分も半歩戻る。


「嫌なら月城さんにする」


「それでお願いします」


「分かった。月城さん」


 月城さんの表情から、わずかに力が抜けた。


「月城さんは、機械に詳しいの?」


「特別詳しいわけではありません」


「でも、これが投影機だって分かった」


「以前、同じようなものを調べたことがあります」


「どうして?」


「星を映せる機械に興味があったので」


 ひかりは大きくうなずいた。


「やっぱり天文部向きだよ」


「向いているかどうかは分かりません」


「星にも詳しいんでしょ?」


「詳しいというほどでは」


「さっき夏の大三角の説明をしてくれた」


 私が言うと、黒瀬先輩が月城さんを見る。


「見つけられる?」


「晴れていれば」


「今日の空なら、日が沈んだあとに見える可能性はある」


「校内からでも?」


「街灯は多いけれど、屋上近くの踊り場なら」


 黒瀬先輩の言葉に、私は顔を上げた。


 いつも空を見ている場所だった。


「白石さんが写真を撮っている場所ね」


「はい」


「今日はそこから夕焼けを撮る予定だった」


「私たちも行っていいですか?」


 ひかりが尋ねる。


「構わない」


「月城さんも行こう」


「見学中ですが」


「見学だから見に行くんだよ」


 その理屈だけは合っていた。


 ひかりは何度も月城さんの方を見ていた。


 そのたびに何か言いたそうに口を開き、黒瀬先輩を見ると閉じている。


 何を我慢しているのか、私には分かっていた。


     ◇


 四人で屋上へ続く階段を上がった。


 私がいつも使っている踊り場に、これほど人が集まるのは初めてだった。


 窓の外では、雲の隙間から夕日が差している。


 空の下側が薄い橙色に染まり、その上に灰色の雲が重なっていた。


「きれい」


 ひかりが窓へ近づく。


「今日は晴れたって言っていいのかな」


「一部だけ」


 黒瀬先輩は三脚を広げながら答えた。


「白石さん、カメラを出して」


「はい」


 鞄からカメラを取り出す。


 月城さんは少し離れた場所で、窓の外を見ていた。


「月城さんは撮らないの?」


 ひかりが尋ねる。


「カメラを持っていません」


「スマートフォンは?」


「ありますが、今は見ていたいので」


「そっか」


 ひかりは無理に勧めず、自分のスマートフォンを取り出した。


「私は撮る」


「窓へ近づけすぎると反射する」


 黒瀬先輩が注意する。


「分かりました、先生」


「部長」


「はい、部長」


 黒瀬先輩は私のカメラを確認し、昨日教えてくれた撮影モードへ切り替えるよう指示した。


「昨日の場所、覚えている?」


「ここです」


 ボタンを押す。


 画面にいくつかの数字が表示された。


「明るさは?」


「少し暗いです」


「なら、ここを上げる」


 言われたとおりに設定を変える。


 画面の空が、目で見た色に近づいた。


「撮ってみて」


 私は窓枠と空を画面に入れ、シャッターを押した。


 写真を確認する。


 昨日までの灰色とは違う。


 雲の向こうから差す光が、校舎の屋根を薄く照らしていた。


「どう?」


「昨日より、色が残っています」


「見せて」


 黒瀬先輩が画面を確認する。


「窓枠を少し減らしてもいい」


「空を大きくするんですか?」


「どちらを見せたいかによる」


 昨日と同じ言葉だった。


 何を残したいか。


 私はもう一度カメラを構え、少しだけ角度を変えた。


「白石さん」


 月城さんに呼ばれる。


「雲の切れ間が、右へ動いています」


 言われた方を見る。


 夕日の光が差す場所が、ゆっくりと移動していた。


 私はカメラを右へ向け、もう一度シャッターを押す。


 今度は、細い光の筋が写真に残った。


「本当だ」


「雲の流れが速いので、すぐ変わると思います」


 月城さんは空を見たまま言った。


「詳しいね」


 ひかりが横から口を挟む。


「見れば分かります」


「私は言われるまで気づかなかった」


「朝倉さんは、スマートフォンの画面を見ていたので」


「確かに」


 ひかりは素直にうなずき、今度は画面ではなく空を見上げた。


「月城さんは、空を見るのが好きなんだね」


「嫌いではありません」


「好きって言えばいいのに」


「嫌いではない、では駄目ですか?」


「駄目じゃないけど」


 ひかりは少し考えてから笑った。


「いつか、好きって言ってくれたらうれしいかも」


「なぜ朝倉さんが?」


「一緒に見られる人が増えるから」


 月城さんは返事をしなかった。


 ただ、先ほどよりも少し長く、ひかりの顔を見ていた。


 やがて夕日は雲の向こうへ隠れた。


 窓の外が少しずつ暗くなっていく。


「星が見えるまで待つ?」


 ひかりが尋ねる。


「今日は下校時刻までに難しい」


 黒瀬先輩が三脚を畳む。


「残念」


「また晴れた日に見ればいい」


「次はいつ?」


「天気次第」


「先輩、毎回答えが待つだけですね」


「天気は急かせないから」


 黒瀬先輩の答えに、月城さんがわずかに目を細めた。


「そのとおりだと思います」


「月城さんまで先輩側なの?」


「正しい方に同意しただけです」


「じゃあ、私が正しいときは私の味方?」


「そのときは」


「約束ね」


「約束するほどのことではありません」


 月城さんの返事は淡々としている。


 それでも、教室にいたときより言葉が少し増えていた。


     ◇


 部室へ戻ると、下校時刻まであまり時間が残っていなかった。


 黒瀬先輩が三脚を片づけ、私は撮った写真を確認する。


 ひかりは黒板の前に立ち、昨日消したはずの文字をもう一度書こうとしていた。


「ひかり」


「まだ何も書いてないよ」


「書こうとしてた」


「目標を忘れないようにしようかなって」


 月城さんが黒板へ目を向ける。


「何の目標ですか?」


「天文部を四人にする目標」


 ひかりが答えた。


 我慢していた言葉が、とうとう出てしまったらしい。


 私はカメラから顔を上げる。


 黒瀬先輩も手を止めた。


「現在は三人ですか?」


 月城さんが尋ねる。


「先輩と私と澪」


「正式な部活動には四人必要で、月城さんが入ればちょうど四人」


 ひかりは明るい声で続けた。


「どう? 入らない?」


「朝倉さん」


 黒瀬先輩が低い声で呼ぶ。


「はい」


「急がせない」


「でも、興味はありそうですよ」


「本人に決めてもらう」


 月城さんは、黒板に書かれかけた『四』の文字を見ていた。


「私が入れば、部として残れるんですか?」


「人数の条件は満たせる」


 黒瀬先輩が答える。


「では、私でなくても、誰か一人入ればよいのでは?」


 部室が静かになった。


 ひかりが何か言おうとしたが、言葉が出てこない。


 月城さんは誰かを責める口調ではなかった。


 ただ、事実を確かめるように尋ねている。


 昨日、入部届を前にして手が止まったときの感覚を思い出した。


 必要なのは自分ではなく、名前を書いてくれる誰か一人なのではないかと思った感覚。


「人数を埋めるためだけに勧誘しているわけではない」


 黒瀬先輩が言った。


「ですが、私のことを知る前から、四人目として数えていました」


 ひかりが視線を落とす。


「ごめんなさい」


 先に頭を下げた。


「私、うれしくなって。星に詳しい人が来てくれたから」


「星に詳しいことと、入部することは別です」


「うん」


 ひかりはいつものように言い返さなかった。


 黒瀬先輩も月城さんを見る。


「人数を先に考えたのは事実。悪かった」


 短い謝罪だった。


 月城さんが、わずかに目を見開く。


「それに」


 彼女は一度言葉を切った。


「私は、また転校する可能性があります」


「また?」


「親の仕事の都合です。今回も、いつまでここにいられるか分かりません」


 教室で聞いた言葉より、はっきりしていた。


「入部しても、途中でいなくなるかもしれません」


「それでも――」


 ひかりが顔を上げる。


 けれど黒瀬先輩が、わずかに首を横へ振った。


「今日は見学に来てくれてありがとう」


 黒瀬先輩は月城さんへ言った。


「入部するかどうかは、今決めなくていい」


「ですが、人数が必要なのでは?」


「必要だからといって、急がせる理由にはならない」


 月城さんは黒瀬先輩を見る。


「見学には、また来てもよいでしょうか」


「もちろん」


「本を借りるだけでも?」


「構わない」


 黒瀬先輩の返事に、月城さんは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 入部するとは言わなかった。


 それでも、もう来ないとも言わなかった。


     ◇


 下校時刻になり、四人で部室を出た。


 ひかりは普段より少しだけ静かだった。


 渡り廊下へ入ったところで、月城さんが立ち止まる。


「朝倉さん」


「何?」


「先ほどは、言い方が強かったかもしれません」


「月城さんは悪くないよ。私が勝手に決めただけだから」


「ですが、見学は楽しかったです」


 ひかりが顔を上げる。


「本当?」


「はい」


「じゃあ、また来てくれる?」


「本を借りたいので」


「それだけ?」


「空も見たいです」


 ひかりの表情が明るくなる。


「次は晴れるといいね」


「そうですね」


「晴れなくても、待てばいいんだって」


「それは黒瀬先輩の言葉では?」


「天文部で教わったことだから、私の知識にもなったの」


「そういうものですか」


「そういうもの」


 月城さんは少しだけ首を傾けた。


 完全に納得したようには見えない。


 それでも、ひかりの隣から離れようとはしなかった。


 昇降口で、黒瀬先輩とは方向が分かれた。


「白石さん」


 呼び止められ、振り返る。


「今日の写真、明日見せて」


「はい」


「月城さんが教えた場所を撮ったものも」


「分かりました」


 黒瀬先輩はうなずき、校門の方へ歩いていった。


 その背中を見送っていると、ひかりが隣から顔をのぞき込んでくる。


「先輩との約束、増えたね」


「写真を見せるだけ」


「昨日は教えてもらう約束で、今日は見せる約束」


「だから何?」


「別に」


 ひかりは意味ありげに笑った。


「月城さん、帰ろう」


「白石さんは?」


「澪も一緒」


 勝手に決められた。


 けれど、断る理由もなかった。


 三人で校門を出る。


 空にはまだ雲が残っていたが、西の端だけが淡い桃色に染まっている。


 月城さんは何度か、その空を見上げていた。


 天文部の空いた一席に、名前はまだない。


 それでも私は、そこへ月城さんを当てはめて考えるのをやめようと思った。


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