第2話 廃部まで、あと二人
翌日の空も、予報どおり曇っていた。
昼休みに教室の窓から見上げても、雲の切れ間は見つからない。昨日とほとんど同じ、白と灰色の空だった。
星の撮り方を教えてもらえる天気ではない。
それでも私は、帰る支度を終えたあとも席を立てずにいた。
昨日の部室は静かだった。
ひかりが話している間、黒瀬先輩は必要なことだけを返していた。無理に自己紹介を求めることも、入部を迫ることもなかった。
あそこなら、教室より落ち着けるかもしれない。
そう考えてから、私は鞄の横に置いたカメラへ目を向けた。
ただ写真のことを教えてもらいたいだけだ。
そう決めて、カメラを鞄の一番上へ入れた。
◇
特別棟へ続く渡り廊下に入ると、窓を細かな雨粒がたたいていた。
教室を出たときには降っていなかったはずなのに、いつの間にか雨が始まっている。
昨日よりも、星が見える可能性は低そうだった。
引き返す理由は増えたはずなのに、私はそのまま特別棟へ向かった。
天文部の札がかかった扉の前へ着き、ノックしようと手を上げる。
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「わっ」
反射的に後ろへ下がる。
出てきたひかりも驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「澪、来たんだ」
「危ない」
「ごめん。ちょうど職員室に行くところだったの」
「何をしに?」
「入部届を取りに」
「誰の?」
「澪の」
「いらない」
「まだ渡してないのに」
「取りに行く時点で分かるよ」
ひかりは何も持っていない両手を背中へ隠すようにして、部室の中へ戻った。
「とりあえず入って。雨、降ってるんでしょ」
「少しだけ」
「じゃあ、なおさら」
私は断る理由を探したが、見つけられないまま部室へ入った。
黒瀬先輩は、窓際の机に座っていた。
昨日と同じように書類が広がっている。今日はその隣に、小さなカメラと撮影記録らしいノートが置かれていた。
黒瀬先輩がこちらを見る。
「こんにちは」
「こんにちは」
「来たのね」
驚いているようには見えなかった。
「晴れてはいませんけど」
「見れば分かる」
「昨日、晴れた日に教えるって言っていたので」
「今日は教えられないとは言っていない」
黒瀬先輩は机の上のカメラを手に取った。
「星は撮れなくても、設定は見られる」
「今、教えてもらえるんですか?」
「そのつもりなら」
私がうなずくと、ひかりが満足そうに笑った。
「じゃあ、私は職員室に行ってきます」
「入部届はいらない」
「念のため」
「念のためでもいらない」
「すぐ戻るから待ってて」
返事をする前に、ひかりは廊下へ出ていった。
足音が遠ざかる。
部室には、雨が窓をたたく音だけが残った。
「ごめんなさい」
黒瀬先輩が言った。
「先輩が謝ることじゃありません」
「朝倉さんは、思いつくと止まらないから」
「知ってます」
「昔から?」
「小学生の頃からです」
「大変そうね」
「慣れました」
黒瀬先輩の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑ったように見えたが、確かめる前には元へ戻っていた。
「座って」
昨日と同じ窓際の椅子を示される。
私は鞄を置き、そこへ腰を下ろした。
黒瀬先輩は向かい側へ座ると、私のカメラへ視線を向けた。
「見てもいい?」
「はい」
首から外して渡す。
黒瀬先輩は両手で受け取り、レンズやストラップを確認した。
「大切に使っているのね」
「分かるんですか?」
「レンズに傷がない。ストラップもねじれていない」
「まだ買ってから一年くらいなので」
「自分で選んだ?」
「はい。最初はスマートフォンで撮っていたんですけど、もっときれいに撮りたくなって」
「何を撮ることが多いの?」
「空とか、校舎とか。あとは水たまりとか」
「水たまり?」
「空が映るので」
黒瀬先輩は私のカメラから顔を上げた。
「見せてもらってもいい?」
「今ですか?」
「嫌なら見ない」
「嫌ではないですけど」
カメラを受け取り、昨日撮った写真を表示する。
灰色の空と校舎の屋根。
窓枠を入れたもの。
雨が降る前の、暗くなり始めた雲。
黒瀬先輩は何も言わず、一枚ずつ画面を見ていた。
黙って見られていると、急に写真がつまらないものに思えてくる。
「やっぱり、あまりうまくないので」
画面を消そうとすると、黒瀬先輩が手を伸ばした。
「待って」
指先がカメラの端に触れる。
私は手を止めた。
黒瀬先輩は、放課後の踊り場から撮った写真へ戻した。
「これは、どこから?」
「屋上へ続く階段の踊り場です」
「窓枠を入れたのは?」
「空だけだと、どこから見ても同じ写真になりそうだったので」
「同じにはならないと思う」
「そうですか?」
「空は毎日違うから」
黒瀬先輩は窓の外へ目を向けた。
「雲の形も、明るさも違う。同じ場所から撮れば、その差が分かる」
私はカメラの画面と、窓の外を交互に見た。
似た写真を増やしても仕方がないと思っていた。
「黒瀬先輩は、同じ場所から撮ったことがありますか?」
「中学の頃に、一年間」
「毎日ですか?」
「学校がある日だけ」
「それでも、すごいです」
黒瀬先輩は少しだけ視線をそらした。
「最初は記録のつもりだった。でも、あとから並べると季節が分かった」
「空だけで?」
「木や建物も入れていたから」
黒瀬先輩はカメラを返してくれる。
「白石さんの写真も、空だけを撮っていない」
「それは、褒められてますか?」
「褒めている」
即答だった。
返事を忘れ、手元のカメラを見る。
自分の好きなものを、誰かに見せることはほとんどなかった。
良いと言ってほしい自分に気づくのが嫌だった。
相手が困った顔をしたとき、見なかったふりをするのも疲れる。
だから、誰にも見せない方が楽だった。
けれど黒瀬先輩は、無理に良いところを探しているようには見えなかった。
「ありがとうございます」
ようやく言うと、先輩は一度だけうなずいた。
「星を撮るときにも、地上の景色を入れる方法がある」
「星だけを撮るんじゃないんですか?」
「何を残したいかによる。景色と一緒なら、どこで見た空なのか分かる」
黒瀬先輩は自分のカメラを操作した。
画面に映ったのは、ほとんど真っ黒な写真だった。中央に白い点が一つだけ見える。
「星ですか?」
「街灯」
「星じゃないんですね」
「向きがずれていた」
黒瀬先輩が次の写真を表示する。
今度は、暗い空にいくつかの星が写っていた。
鮮明ではない。
それでも、白い点ではなく、本当に空に浮かんでいるように見える。
「同じ日に撮ったんですか?」
「一時間後」
「そんなに変わるんですね」
「設定を変えて、何度も試したから」
「黒瀬先輩でも、最初から撮れたわけじゃないんですね」
「最初からできる人は少ないと思う」
その言葉を聞くと、見慣れないカメラの設定も、少しだけ試してみようと思えた。
「今の設定を見せて」
「はい」
カメラを操作し、普段使っている画面を表示する。
黒瀬先輩は椅子を寄せ、私の手元をのぞき込んだ。
長い黒髪が肩から流れ、画面の端にかかる。
「このモードは?」
「いつもこれです」
「自動設定ね」
「駄目ですか?」
「駄目ではない。でも、星を撮るときは暗くなりやすい」
黒瀬先輩がボタンを指す。
「ここで撮影モードを変える」
言われたとおりに操作すると、見慣れない記号がいくつも表示された。
「難しそうです」
「今日は場所だけ覚えればいい」
「それだけでいいんですか?」
「晴れた日に実際に試す方が分かりやすい」
説明を続けようとしたところで、廊下から足音が近づいてきた。
「持ってきました!」
扉が開き、ひかりが紙を掲げて入ってくる。
「入部届!」
「走らないで」
「最後の三歩だけです」
ひかりは私の隣へ来ると、机へ入部届を置いた。
部活動名の欄には、すでに「天文部」と書かれている。
「はい、澪」
「書くとは言ってない」
「でも、今日も来たよね」
「写真のことを教えてもらうため」
「入部すれば、いつでも教えてもらえるよ」
「そういう決め方でいいの?」
「いいんじゃない?」
ひかりは黒瀬先輩へ顔を向けた。
「先輩もそう思いますよね」
「本人が決めること」
「先輩は慎重すぎます」
「朝倉さんが急ぎすぎる」
「でも、部がなくなるかもしれないんですよ」
ひかりは笑ったまま言った。
けれど、入部届の端を押さえる指には、少し力が入っていた。
私は机の上の紙へ目を向ける。
「本当に、四人いないと駄目なんですか?」
「正式な部として認められる最低人数が四人だから」
答えたのは黒瀬先輩だった。
「四人集まらなかったら?」
「来年度は部ではなくなる」
「部室も使えなくなるんですか?」
「たぶん」
黒瀬先輩は淡々と答えた。
部室を見回す。
色あせた本。
小さな望遠鏡。
棚に置かれた古い機材。
昨日初めて入った場所なのに、なくなると聞くと少しだけ落ち着かなかった。
「でも、私が入っても三人ですよね」
「ええ」
「もう一人は?」
「探す」
「まだ決まってないんですか?」
「決まっていたら、ここまで困っていない」
正しい答えだった。
名前を書けば、部を残すための一人として数えられる。
そう考えると、ペンを取る気にはならなかった。
「無理に書かなくていい」
黒瀬先輩が言った。
「でも、先輩」
「人数を埋めるためだけに入っても、続かない」
黒瀬先輩は私を見る。
「白石さんは、どうしたい?」
答えを求められ、視線を入部届へ落とす。
どうしたいのか。
天文部を救いたいと思っているわけではない。
星に詳しくなりたいと、はっきり決めたわけでもない。
ただ、昨日と今日、ここにいる時間は嫌ではなかった。
ひかりは相変わらずよく話す。
黒瀬先輩は静かで、必要以上に何かを聞いてこない。
私は写真を撮り、窓から空を見られる。
ここでは、誰かが話している間に、必ず返事を考えなくてもよかった。
「毎日来たり、必ず何か話したりしないと駄目ですか?」
黒瀬先輩はすぐには答えなかった。
ひかりも黙っている。
雨の音が、窓を細かくたたいていた。
「言えない日があってもいい」
黒瀬先輩は静かに言った。
「でも、白石さんが何か言いたいときは、聞く」
その言葉を、すぐには理解できなかった。
何も言わなくてもよい、ではない。
言いたいときには聞く。
無理に求められないことと、最初から必要とされないことは、少し違うのかもしれない。
私は机の上のペンを取った。
「澪?」
ひかりが驚いたように私を見る。
「静かにして」
「はい」
入部届の名前の欄へ、ゆっくりと文字を書く。
白石澪。
書き終えてから、日付を記入した。
「本当にいいの?」
さっきまで急かしていたひかりが、今度は慎重に尋ねてくる。
「ここなら、無理に話さなくてもよさそうだから」
正直に答える。
黒瀬先輩は入部届を受け取り、書かれた名前を確認した。
「分かった」
それだけだった。
歓迎の言葉も、握手もない。
それでも、その短い返事の方が私には落ち着いた。
「これで三人!」
ひかりが黒板へ大きく『あと一人』と書く。
「圧が強い」
「目標は分かりやすい方がいいでしょ」
「消して」
ひかりは笑いながら黒板消しを手に取った。
黒瀬先輩は止めなかった。
「白石さん」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「活動日は決める。でも、無理をして来る必要はない」
「はい」
「来られる日に来ればいい」
実務的な言い方なのに、その言葉を聞くと少しだけ肩の力が抜けた。
「分かりました」
「それから、明日はカメラを持ってきて」
「晴れるんですか?」
「夕方から雲が減る予報」
黒瀬先輩は窓の外を見た。
「星までは難しくても、夕焼けは撮れるかもしれない」
「持ってきます」
返事をしたあと、机の上の入部届へ目を向けた。
自分で書いたはずなのに、その名前が天文部の一員として置かれていることに、まだ実感がなかった。
◇
帰る頃には、雨はほとんど止んでいた。
雲の向こうに夕日があるのか、西の空だけがわずかに明るい。
私は特別棟を出る前に立ち止まり、カメラを取り出した。
まだ夕焼けと呼べるほどの色ではない。
それでも、校舎の端と空を一緒に画面へ収め、シャッターを切った。
撮れた写真を確認する。
昨日と似た灰色の空だった。
けれど、見比べればきっと違う。
カメラを鞄へ戻しながら、明日も忘れずに持ってこようと思った。




