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一人で空を眺めていた私が、廃部寸前の天文部で先輩に恋をするまで  作者: situ725


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第1話 一人ではない夜空

 春の夜は、昼間に思っていたよりも冷たかった。


 私はコートのポケットに片手を入れたまま、学校近くの観測場所で空を見上げていた。


 遠くを走る車の音と、風に揺れる草の音だけが聞こえてくる。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


 画面には、短いメッセージが届いていた。


『見つけた?』


 教えてもらった方角へ目を向ける。


 星はいくつも見えているのに、目当ての一つが見つからない。


 それでも、同じ時間に同じ空を見ていると思うと、一人には感じなかった。


 私は返事を打たずにスマートフォンを握り直し、もう一度、夜空を探す。


 誰かと同じ星を探す日が来るなんて、あの頃の私は考えたこともなかった。


     ◇


 九か月前。


 六月の空は、星を見るには向いていなかった。


 朝から広がっていた雲は、放課後になっても消えていない。白と灰色の境目が曖昧な空が、校舎の上に低く垂れ込めていた。


 それでも私は、屋上へ続く階段の踊り場にいた。


 屋上の扉には鍵がかかっているため、生徒が自由に出入りすることはできない。


 けれど、最上階の踊り場にある細長い窓からは、校舎の周囲がよく見えた。晴れた日には、遠くに連なる山まで見渡せる。


 今日は、雲しか見えない。


 それでも教室に残っているよりはよかった。


 窓際に立ち、首から下げていたカメラを構える。


 空だけを撮っても、灰色の平らな写真になってしまう。少し角度を下げ、校舎の屋根を画面の端に入れてみた。


 シャッターを押す。


 撮れた写真を確認していると、階段の下から足音が聞こえてきた。


 一段ずつ静かに上がってくる音ではない。


 ためらいなく、一定の速さで近づいてくる。


 顔を見る前に、誰なのか分かった。


「やっぱりいた」


 朝倉ひかりは、最後の数段を一気に上がってきた。


 肩につかない茶色の髪が、動きに合わせて揺れている。片手には購買の袋を持ち、もう片方の手には紙パックの飲み物を二つ抱えていた。


「何が、やっぱりなの」


「澪は放課後になるとここにいるから」


「毎日じゃない」


「昨日も一昨日もいたよね」


「見てたの?」


「下から見かけた」


 ひかりは得意そうに笑い、私の隣へやってきた。


 誰にも会わないつもりでここに来たのに、追い返す気にはならなかった。


 ひかりは小学生の頃から、こうして私の都合をあまり気にせず隣へ来る。


 普通なら疲れるはずなのに、ひかりに対してだけは、今さら距離を測る必要がなかった。


「はい」


 差し出された紙パックを受け取る。


 ミルクティーだった。


「頼んでないけど」


「知ってる。二本買ったから一本あげる」


 続いて、購買の袋から取り出した焼きそばパンを半分に割る。


「これも」


「お腹は空いてない」


「どうせお昼、あんまり食べてないでしょ」


「食べたよ」


「クリームパン一個は、食べたうちに入らないから」


「どうして知ってるの」


「澪が持ってた袋、見えたもん」


 断っても引っ込めないことは分かっていた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 ひかりは満足そうに、残りの半分を食べ始めた。


 窓の外では、風に押された雲がゆっくりと流れている。


「それで、何か用事があったんじゃないの」


「用事がないと来ちゃ駄目?」


「駄目じゃないけど、購買からここまで遠いから」


「ああ、それね」


 ひかりはパンを飲み込むと、私の方へ体を向けた。


「澪、部活に入らない?」


「入らない」


「まだ何部か言ってないよ」


「運動部なら無理」


「運動部じゃない」


「文化部でも、人が多いところは嫌」


「人は少ないよ」


 ひかりは迷いなく言った。


「ものすごく少ない」


「それは大丈夫なの?」


「大丈夫じゃないから、澪を誘いに来たんだよ」


 嫌な予感がした。


「何部?」


「天文部」


 ひかりの答えを聞き、窓の外を見た。


 雲に覆われた空には、星の一つも見えない。


「今、一番説得力のない空だけど」


「今日は曇ってるだけだから」


「最近ずっと曇ってる」


「梅雨だもん」


「天文部は梅雨に何をするの」


「星が出るのを待つ」


「活動してないのと同じじゃない?」


「違うよ。待つのも立派な活動だから」


 胸を張っているが、今考えた言葉にしか聞こえなかった。


「ひかり、星に詳しかった?」


「全然」


「何をしに入ってるの」


「場を明るくしてる」


 それだけは否定できなかった。


「私は場を明るくできないよ」


「澪にそれは求めてない」


「じゃあ、何を求めてるの」


「とりあえず一人、澪が足りない」


「私を部品みたいに言わないで」


「そういう意味じゃないって」


 ひかりは慌てて両手を振った。


「四人いないと、部じゃなくなるんだって」


「今は?」


「二人」


「全然足りない」


「だから澪」


「私が入っても三人だけど」


「三人になれば、四人目も入りやすくなるかもしれないでしょ」


「どういう計算?」


「希望のある計算」


 かなり都合のよい計算だった。


「あと、活動実績も足りないらしいけど」


「人数だけじゃ駄目なの?」


「それだけじゃ難しいんだって」


「思ったより大変そう」


「細かいことは見学してからでいいよ」


「聞いたら行きたくなくなる話?」


「そんなことないよ。たぶん」


 最後の一言が余計だった。


「見学だけでいいから」


「今、少し間があった」


「気のせいじゃない?」


 ひかりは笑ってごまかした。


「話さなくてもいい?」


「うん」


「自己紹介とかも?」


「名前だけ言えば大丈夫」


 ひかりは私の返事を待たず、購買の袋を丸め始めた。


「まだ行くとは言ってない」


「でも、帰るとも言ってないよね」


「それは今考えてたから」


「考えてる間に行こう」


「強引」


「知ってる」


 ひかりは私の袖を軽くつまんだ。


 手を引かれるほど強くはない。私が本当に嫌がれば、離してくれる程度の力だった。


「部室、遠い?」


「すぐそこ。特別棟の一番端」


「人は?」


「ほとんど来ない」


「静か?」


「私が黙れば静か」


「それは期待できない」


「ひどいなあ」


 不満そうに言いながら、ひかりは笑っている。


 私は窓の外を一度だけ振り返った。


 灰色の空は、しばらく変わりそうになかった。


「本当に見学だけだから」


「分かってるって」


 たぶん、分かっていない。


 それでも私は、ひかりと一緒に階段を下りた。


     ◇


 天文部の部室は、特別棟の三階にあった。


 使われていない教室が並ぶ廊下を、一番奥まで進む。


 人の声は聞こえない。


 窓の外から、運動部の掛け声がかすかに届くだけだった。


「ここ」


 ひかりが立ち止まった扉には、小さな札がかかっていた。


『天文部』


 文字は少し色あせている。


 その下には、以前貼られていた紙の跡が四角く残っていた。


 ひかりは二度ノックしてから、返事を待たずに扉を開ける。


「先輩、連れてきました」


 部屋の奥で、誰かが顔を上げた。


 胸元まで伸びた黒髪を背に流した女子生徒だった。


 窓際の机に古い星図や書類を広げ、整理していたらしい。制服は乱れなく着られていて、背筋もまっすぐに伸びている。


 星図へ落としていた視線が、ゆっくりと私へ向けられた。


 切れ長の目は、初めて見る相手には少し冷たく映る。


 けれど、値踏みされているような居心地の悪さはなかった。


「朝倉さん。その人は?」


「新入部員候補です」


「見学です」


 私はすぐに訂正した。


 ひかりが隣で小さく笑う。


 その人は少しだけ私を見たあと、静かに名乗った。


「黒瀬冬花。三年。部長をしている」


「白石澪です。二年です」


「そう」


 それだけ言うと、黒瀬先輩は部屋の中へ視線を向けた。


「好きなところに座って」


 入部を勧められることも、天文に興味があるのか尋ねられることもなかった。


 その距離感に、少しだけ安心した。


 部室は普通の教室より狭い。


 壁際には本棚があり、天体や宇宙に関する本が並んでいる。背表紙の色が抜けたものも多かった。


 窓の近くには小さな望遠鏡が立てかけられ、反対側の棚には箱型の機材が置かれている。


 天井からは、星座の描かれた紙が何枚かつり下げられていた。


 新しいものばかりではない。


 けれど、長い間ここで誰かが空を見てきたことは伝わってくる。


「静かでしょ」


 ひかりが小声で言った。


「ひかりが黙ってるから」


「案内してあげてたのに」


「一言しか言ってない」


 黒瀬先輩が机の向こうからこちらを見る。


「朝倉さん」


「はい」


「見学の人を連れてくるなら、先に教えて」


「次から気をつけます」


「前にも聞いた」


「今日は忘れてました」


 黒瀬先輩は小さく息を吐き、書類へ目を戻した。


 冷たいというより、ひかりの扱いに慣れているように見えた。


「先輩は何をしてたんですか?」


「昨年度の活動記録を整理していた」


「何か活動してましたっけ」


「観測会を二回した」


「ああ、曇った日と雨の日」


「曇った日は途中で一度晴れた」


「五分くらいですよね」


「七分」


 七分。


 そこだけは譲れないらしい。


 気づけば、口元が少し緩んでいた。


「澪、今笑った?」


「笑ってない」


「笑ったよね、先輩」


「見ていない」


「見てくださいよ」


「なぜ」


 黒瀬先輩の返事は素っ気ない。


 それでも、部室の空気は思っていたより息苦しくなかった。


 ひかりが勝手に話し、黒瀬先輩が必要なところだけ返す。


 私は二人の会話を聞きながら、窓際の椅子へ座った。


 窓の外には、踊り場で見たものと同じ曇り空が広がっている。


 けれど、窓が大きい分、空が近く感じられた。


「白石さん」


 突然名前を呼ばれ、黒瀬先輩へ顔を向ける。


「はい」


「天文には興味がある?」


 答えに迷った。


 星を見るのは嫌いではない。


 けれど、星座の名前もほとんど知らないし、望遠鏡の使い方も分からない。


「詳しくはありません」


「詳しいかどうかは聞いていない」


 責めるような言い方ではなかった。


 黒瀬先輩は、ただ返事を待っている。


「空を見るのは、好きです」


 黒瀬先輩は一度だけうなずいた。


「それなら十分」


 それ以上、何も聞かれなかった。


 なぜ好きなのか。


 どの星が好きなのか。


 天文部に入りたいのか。


 次の質問を待っていたのに、黒瀬先輩は書類へ視線を戻した。


 肩の力が抜けた一方で、少しだけ置いていかれたような気もした。


「先輩、もっと勧誘してくださいよ」


「無理に入っても続かない」


「でも、今は入ってもらわないと続かないですよ。部が」


「朝倉さん」


「はい、黙ります」


 ひかりは自分の口の前で指を交差させた。


 五秒もせずに、また私へ近づいてくる。


「どう? 悪くないでしょ」


「ひかりが静かなら」


「そこは努力する」


「できるの?」


「明日から」


「今日は?」


「今日は見学記念日だから特別」


 何が特別なのかは分からなかった。


 私は窓の外へカメラを向ける。


 雲の濃淡が、さっきより少しだけ変わっている。


 窓枠を画面に入れ、シャッターを押した。


 音に気づいたのか、黒瀬先輩が顔を上げる。


「空を撮るの?」


「たまに」


「星も?」


「星は、うまく撮れません」


 夜空を撮ろうとしたことはある。


 けれど、画面には暗闇しか残らなかった。目では見えていた星も、写真の中では消えていた。


 黒瀬先輩は私のカメラを見たあと、窓の外へ視線を向ける。


「今日は無理ね」


「そうですね」


「明日も予報では曇り」


 やはり、真面目に天気を確認しているらしい。


「晴れるまで待つんですか?」


「星を見るなら」


「ずっと晴れなかったら?」


「晴れるまで待つ」


 ひかりと同じことを言っているのに、黒瀬先輩が言うと、本当に待ち続けそうだった。


 先輩は窓の外を見たまま続ける。


「晴れた日に教える」


「何をですか?」


「星の撮り方」


 思わず黒瀬先輩を見る。


 先輩はこちらを向いていない。


 ただ、灰色の空を見つめていた。


「でも、私、まだ入部するとは言ってません」


「見学でも構わない」


「いいんですか?」


「星を撮りたいなら」


 今日は雲しか写らない。


 明日も予報は曇りだった。


 それでも私は、カメラのストラップを握り直した。


「分かりました」


 黒瀬先輩の目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「じゃあ、また」


 私は小さく頭を下げた。


 まだ、入部するつもりはなかった。


 それでも帰り道で気にしていたのは、明日の天気だった。


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