第1話 一人ではない夜空
春の夜は、昼間に思っていたよりも冷たかった。
私はコートのポケットに片手を入れたまま、学校近くの観測場所で空を見上げていた。
遠くを走る車の音と、風に揺れる草の音だけが聞こえてくる。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面には、短いメッセージが届いていた。
『見つけた?』
教えてもらった方角へ目を向ける。
星はいくつも見えているのに、目当ての一つが見つからない。
それでも、同じ時間に同じ空を見ていると思うと、一人には感じなかった。
私は返事を打たずにスマートフォンを握り直し、もう一度、夜空を探す。
誰かと同じ星を探す日が来るなんて、あの頃の私は考えたこともなかった。
◇
九か月前。
六月の空は、星を見るには向いていなかった。
朝から広がっていた雲は、放課後になっても消えていない。白と灰色の境目が曖昧な空が、校舎の上に低く垂れ込めていた。
それでも私は、屋上へ続く階段の踊り場にいた。
屋上の扉には鍵がかかっているため、生徒が自由に出入りすることはできない。
けれど、最上階の踊り場にある細長い窓からは、校舎の周囲がよく見えた。晴れた日には、遠くに連なる山まで見渡せる。
今日は、雲しか見えない。
それでも教室に残っているよりはよかった。
窓際に立ち、首から下げていたカメラを構える。
空だけを撮っても、灰色の平らな写真になってしまう。少し角度を下げ、校舎の屋根を画面の端に入れてみた。
シャッターを押す。
撮れた写真を確認していると、階段の下から足音が聞こえてきた。
一段ずつ静かに上がってくる音ではない。
ためらいなく、一定の速さで近づいてくる。
顔を見る前に、誰なのか分かった。
「やっぱりいた」
朝倉ひかりは、最後の数段を一気に上がってきた。
肩につかない茶色の髪が、動きに合わせて揺れている。片手には購買の袋を持ち、もう片方の手には紙パックの飲み物を二つ抱えていた。
「何が、やっぱりなの」
「澪は放課後になるとここにいるから」
「毎日じゃない」
「昨日も一昨日もいたよね」
「見てたの?」
「下から見かけた」
ひかりは得意そうに笑い、私の隣へやってきた。
誰にも会わないつもりでここに来たのに、追い返す気にはならなかった。
ひかりは小学生の頃から、こうして私の都合をあまり気にせず隣へ来る。
普通なら疲れるはずなのに、ひかりに対してだけは、今さら距離を測る必要がなかった。
「はい」
差し出された紙パックを受け取る。
ミルクティーだった。
「頼んでないけど」
「知ってる。二本買ったから一本あげる」
続いて、購買の袋から取り出した焼きそばパンを半分に割る。
「これも」
「お腹は空いてない」
「どうせお昼、あんまり食べてないでしょ」
「食べたよ」
「クリームパン一個は、食べたうちに入らないから」
「どうして知ってるの」
「澪が持ってた袋、見えたもん」
断っても引っ込めないことは分かっていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ひかりは満足そうに、残りの半分を食べ始めた。
窓の外では、風に押された雲がゆっくりと流れている。
「それで、何か用事があったんじゃないの」
「用事がないと来ちゃ駄目?」
「駄目じゃないけど、購買からここまで遠いから」
「ああ、それね」
ひかりはパンを飲み込むと、私の方へ体を向けた。
「澪、部活に入らない?」
「入らない」
「まだ何部か言ってないよ」
「運動部なら無理」
「運動部じゃない」
「文化部でも、人が多いところは嫌」
「人は少ないよ」
ひかりは迷いなく言った。
「ものすごく少ない」
「それは大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないから、澪を誘いに来たんだよ」
嫌な予感がした。
「何部?」
「天文部」
ひかりの答えを聞き、窓の外を見た。
雲に覆われた空には、星の一つも見えない。
「今、一番説得力のない空だけど」
「今日は曇ってるだけだから」
「最近ずっと曇ってる」
「梅雨だもん」
「天文部は梅雨に何をするの」
「星が出るのを待つ」
「活動してないのと同じじゃない?」
「違うよ。待つのも立派な活動だから」
胸を張っているが、今考えた言葉にしか聞こえなかった。
「ひかり、星に詳しかった?」
「全然」
「何をしに入ってるの」
「場を明るくしてる」
それだけは否定できなかった。
「私は場を明るくできないよ」
「澪にそれは求めてない」
「じゃあ、何を求めてるの」
「とりあえず一人、澪が足りない」
「私を部品みたいに言わないで」
「そういう意味じゃないって」
ひかりは慌てて両手を振った。
「四人いないと、部じゃなくなるんだって」
「今は?」
「二人」
「全然足りない」
「だから澪」
「私が入っても三人だけど」
「三人になれば、四人目も入りやすくなるかもしれないでしょ」
「どういう計算?」
「希望のある計算」
かなり都合のよい計算だった。
「あと、活動実績も足りないらしいけど」
「人数だけじゃ駄目なの?」
「それだけじゃ難しいんだって」
「思ったより大変そう」
「細かいことは見学してからでいいよ」
「聞いたら行きたくなくなる話?」
「そんなことないよ。たぶん」
最後の一言が余計だった。
「見学だけでいいから」
「今、少し間があった」
「気のせいじゃない?」
ひかりは笑ってごまかした。
「話さなくてもいい?」
「うん」
「自己紹介とかも?」
「名前だけ言えば大丈夫」
ひかりは私の返事を待たず、購買の袋を丸め始めた。
「まだ行くとは言ってない」
「でも、帰るとも言ってないよね」
「それは今考えてたから」
「考えてる間に行こう」
「強引」
「知ってる」
ひかりは私の袖を軽くつまんだ。
手を引かれるほど強くはない。私が本当に嫌がれば、離してくれる程度の力だった。
「部室、遠い?」
「すぐそこ。特別棟の一番端」
「人は?」
「ほとんど来ない」
「静か?」
「私が黙れば静か」
「それは期待できない」
「ひどいなあ」
不満そうに言いながら、ひかりは笑っている。
私は窓の外を一度だけ振り返った。
灰色の空は、しばらく変わりそうになかった。
「本当に見学だけだから」
「分かってるって」
たぶん、分かっていない。
それでも私は、ひかりと一緒に階段を下りた。
◇
天文部の部室は、特別棟の三階にあった。
使われていない教室が並ぶ廊下を、一番奥まで進む。
人の声は聞こえない。
窓の外から、運動部の掛け声がかすかに届くだけだった。
「ここ」
ひかりが立ち止まった扉には、小さな札がかかっていた。
『天文部』
文字は少し色あせている。
その下には、以前貼られていた紙の跡が四角く残っていた。
ひかりは二度ノックしてから、返事を待たずに扉を開ける。
「先輩、連れてきました」
部屋の奥で、誰かが顔を上げた。
胸元まで伸びた黒髪を背に流した女子生徒だった。
窓際の机に古い星図や書類を広げ、整理していたらしい。制服は乱れなく着られていて、背筋もまっすぐに伸びている。
星図へ落としていた視線が、ゆっくりと私へ向けられた。
切れ長の目は、初めて見る相手には少し冷たく映る。
けれど、値踏みされているような居心地の悪さはなかった。
「朝倉さん。その人は?」
「新入部員候補です」
「見学です」
私はすぐに訂正した。
ひかりが隣で小さく笑う。
その人は少しだけ私を見たあと、静かに名乗った。
「黒瀬冬花。三年。部長をしている」
「白石澪です。二年です」
「そう」
それだけ言うと、黒瀬先輩は部屋の中へ視線を向けた。
「好きなところに座って」
入部を勧められることも、天文に興味があるのか尋ねられることもなかった。
その距離感に、少しだけ安心した。
部室は普通の教室より狭い。
壁際には本棚があり、天体や宇宙に関する本が並んでいる。背表紙の色が抜けたものも多かった。
窓の近くには小さな望遠鏡が立てかけられ、反対側の棚には箱型の機材が置かれている。
天井からは、星座の描かれた紙が何枚かつり下げられていた。
新しいものばかりではない。
けれど、長い間ここで誰かが空を見てきたことは伝わってくる。
「静かでしょ」
ひかりが小声で言った。
「ひかりが黙ってるから」
「案内してあげてたのに」
「一言しか言ってない」
黒瀬先輩が机の向こうからこちらを見る。
「朝倉さん」
「はい」
「見学の人を連れてくるなら、先に教えて」
「次から気をつけます」
「前にも聞いた」
「今日は忘れてました」
黒瀬先輩は小さく息を吐き、書類へ目を戻した。
冷たいというより、ひかりの扱いに慣れているように見えた。
「先輩は何をしてたんですか?」
「昨年度の活動記録を整理していた」
「何か活動してましたっけ」
「観測会を二回した」
「ああ、曇った日と雨の日」
「曇った日は途中で一度晴れた」
「五分くらいですよね」
「七分」
七分。
そこだけは譲れないらしい。
気づけば、口元が少し緩んでいた。
「澪、今笑った?」
「笑ってない」
「笑ったよね、先輩」
「見ていない」
「見てくださいよ」
「なぜ」
黒瀬先輩の返事は素っ気ない。
それでも、部室の空気は思っていたより息苦しくなかった。
ひかりが勝手に話し、黒瀬先輩が必要なところだけ返す。
私は二人の会話を聞きながら、窓際の椅子へ座った。
窓の外には、踊り場で見たものと同じ曇り空が広がっている。
けれど、窓が大きい分、空が近く感じられた。
「白石さん」
突然名前を呼ばれ、黒瀬先輩へ顔を向ける。
「はい」
「天文には興味がある?」
答えに迷った。
星を見るのは嫌いではない。
けれど、星座の名前もほとんど知らないし、望遠鏡の使い方も分からない。
「詳しくはありません」
「詳しいかどうかは聞いていない」
責めるような言い方ではなかった。
黒瀬先輩は、ただ返事を待っている。
「空を見るのは、好きです」
黒瀬先輩は一度だけうなずいた。
「それなら十分」
それ以上、何も聞かれなかった。
なぜ好きなのか。
どの星が好きなのか。
天文部に入りたいのか。
次の質問を待っていたのに、黒瀬先輩は書類へ視線を戻した。
肩の力が抜けた一方で、少しだけ置いていかれたような気もした。
「先輩、もっと勧誘してくださいよ」
「無理に入っても続かない」
「でも、今は入ってもらわないと続かないですよ。部が」
「朝倉さん」
「はい、黙ります」
ひかりは自分の口の前で指を交差させた。
五秒もせずに、また私へ近づいてくる。
「どう? 悪くないでしょ」
「ひかりが静かなら」
「そこは努力する」
「できるの?」
「明日から」
「今日は?」
「今日は見学記念日だから特別」
何が特別なのかは分からなかった。
私は窓の外へカメラを向ける。
雲の濃淡が、さっきより少しだけ変わっている。
窓枠を画面に入れ、シャッターを押した。
音に気づいたのか、黒瀬先輩が顔を上げる。
「空を撮るの?」
「たまに」
「星も?」
「星は、うまく撮れません」
夜空を撮ろうとしたことはある。
けれど、画面には暗闇しか残らなかった。目では見えていた星も、写真の中では消えていた。
黒瀬先輩は私のカメラを見たあと、窓の外へ視線を向ける。
「今日は無理ね」
「そうですね」
「明日も予報では曇り」
やはり、真面目に天気を確認しているらしい。
「晴れるまで待つんですか?」
「星を見るなら」
「ずっと晴れなかったら?」
「晴れるまで待つ」
ひかりと同じことを言っているのに、黒瀬先輩が言うと、本当に待ち続けそうだった。
先輩は窓の外を見たまま続ける。
「晴れた日に教える」
「何をですか?」
「星の撮り方」
思わず黒瀬先輩を見る。
先輩はこちらを向いていない。
ただ、灰色の空を見つめていた。
「でも、私、まだ入部するとは言ってません」
「見学でも構わない」
「いいんですか?」
「星を撮りたいなら」
今日は雲しか写らない。
明日も予報は曇りだった。
それでも私は、カメラのストラップを握り直した。
「分かりました」
黒瀬先輩の目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ、また」
私は小さく頭を下げた。
まだ、入部するつもりはなかった。
それでも帰り道で気にしていたのは、明日の天気だった。




