第9話 期待なんてしてない、なんてことはない
「えーっと、では施術の前にお風呂で身体を温めていただきます」
そう言う戌丸の手元には、でかでかと「施術マニュアル」と書かれた資料があり、不慣れなのをもう全面に押し出していく感じなんだなぁと思いつつ、促されるままわたしは脱衣所へと足を踏み入れた。
「お湯はちょっと熱めにしてあるので、長湯せずにほどほどで上がってきてくださいね。身体は洗わなくても大丈夫ですから」
「わかりました」
「あっでも置いてあるものはどれでも自由に使っていただいて構いません。あとこれ、お風呂上がりにはこちらを身につけてくださいね」
そう言う彼女の手にはバスローブとタオル、そして小さな袋に入ったなにかがあって、お礼を言いながら受け取る。
そうすると戌丸はゆっくりと扉を閉じて再び部屋の方へ戻っていった。
服を脱ぎながら浴室へ続く扉を開くと、ふわりと湯気が立ち込める。
中を覗くとそこは白を基調とした小綺麗なお風呂場だった。
流し台には何種類かのボディーソープやシャンプーなどが備え付けられており、その奥の湯舟は入浴剤が入っているのか白っぽい湯で満たされている。
なんだかここもいい香りがするなぁと思いながらぱたりと一旦扉を閉めた。
脱いだ服を畳み、脱衣所に備え付けられている棚へ置いてから下着へ手をかける。
そうしながら興味本位で辺りをきょろきょろ見回していると、ふと壁に張り紙がしてあることに気がついた。
「えーと、なになに……『マッサージコースのお客様は湯船に浸かっていただき、お身体を十分に温めてからお上がりください』」
あぁさっき言われたことね、なるほどなるほどと頷く。
戌丸ちゃんとお仕事できててえらい。
やっぱりわたしの好きな人シゴデキじゃんとなんだか少し嬉しく思う。
読み進めながら下着を脱ぎ、服の上に片付けた。
そうしながら張り紙を眺めていると、中ほどの辺りに『大人のマッサージ』という言葉を見つけてわたしはカッと目を見開いた。
「おっ……!?」
大人のマッサージってなに!? と、驚いて大声をあげそうになるのを慌ててぐっと堪える。
そのまま読み進んでいくとそこには衝撃の内容が書かれていた。
まず、このお店には普通のマッサージとは別に『大人のマッサージコース』というものが存在しているらしい。
『ご希望のお客さまはお身体を隅々まで綺麗にお洗いくださいませ』という文言から始まり、その下には実際に行えるメニューの一覧があった。
指で張り紙をなぞってもう一度読んでみる。
知識としては知っていても、実際にはどれも経験のないことばかりの文言の羅列に目を通しながら、わたしはぶわっと顔に熱が集まるのを感じた。
──なに、なにこれ。
そんな、だって、後輩が一緒に行こって誘ってきて、あの、だから、普通のマッサージのお店、なんじゃ。
心臓がどきどきと高鳴る。
いや、でも確かにそういうお店だとも聞いてないけれど、そういうお店じゃないとも聞いていない。
そして先ほどの戌丸の言葉を思い出す。
さっきあいつなんて言ったんだっけ。
確か「今日は触ってない箇所がないくらいまでがんばらせてください! 無料なので!」って、言って……。
わたしは全裸のまま両手で顔を覆った。
ちょっと待って、理解が追いつかない。
じゃあわたしこれからどうなっちゃうの。
指の隙間からちらりと張り紙を見るが、書いてある内容は先ほどと変わるわけもなく。
えっ、わたし好きな人と付き合ってもいないのに突然こんなことするの。
そんな馬鹿な。
だってそんなの大人の階段どころか、なんちゃらツリーとかなんちゃらタワーみたいなのの展望台直通エレベーターくらいのスピード感なんだけど。
「いやいやいやいや、そんなまさか」
そこでハッと気がつく。
そういえば戌丸はさっき「身体は洗わなくてもいい」と言っていた。
だから……だから?
いや、わからない。
洗わなくてもってなに、てもって。
だって手ぶらでいいよって言われて手ぶらで人の家にお邪魔するのはリスキーだし、いつでもいいよは実際にはいつでもよくはない。
世の人間の大半は本音と建前を使い分けて生きている。
いや、だからこそ判断がつかない。
もしかしたら戌丸は風呂キャン人間にも平気でそういうことができるタイプなのかもしれないだなんて、そこまで考えて戌丸と全然知らない人間がいちゃいちゃしているところが頭の中に浮かびそうになって慌ててそのイメージ映像を脳内から追い出した。
いやそういうの想像したくない!
──だからわからない。
まったくわからないけれど。
わたしは浴室の扉を開けて中へ足を踏み入れる。
そしてシャワーからお湯を流し、ボディソープをタオルにつけた。
これは決して、決してわたしがそういうことを期待しているからではなくて、戌丸がそういうつもりだった場合の万が一に備えて身体を綺麗にするだけだから。
綺麗にしておけばどうとでもできるから。
わたしはそう自分に言い聞かせながら隅々まで丁寧に身体を洗い、湯舟でじっくりと温まって半ばのぼせそうになりながら、お風呂から上がった。
タオルで身体を拭き、先ほど渡された小さな袋を開くとそこには紙製の下着が入っていたので少し抵抗はあるものの上下とも身につける。
そしてその上からバスローブを羽織り、震える指先を叱咤しながら紐を固く結んだのだった。




