第8話 隠せていると思っているのはたぶん本人だけ(後編)
背の高い彼女の背中を見つめながら、ゆっくりと後をついて歩く。
そうしながらわたしはいったん落ち着いていまの状況を整理してみることにした。
わたしのこと──は絶対に気付いてるよね。
だってこちらは顔も隠していないし、本名だって丸出しだ。
けれども彼女は一向に「同期の……」みたいな声を掛けてくる様子もなく。
彼女の方も普段との違いは髪型とメガネとマスクを着けてるくらいで、どこをどう見たって戌丸本人にしか見えない。
まぁなぜか耳は真っ赤のままだけれど。
部屋に入り、施術用のベッドへ腰かけるよう促されその通りにする。
「それでは改めまして。初めまして、あさひです。精一杯頑張りますので今日はどうぞよろしくお願いしますね、夜宵さん」
しゃがみ込んだ戌丸はマスクで隠れていてもわかるくらいにっこりと微笑んでいて、優しく垂れた目元に不覚にもきゅんとしてしまう。
けれどその反面冷静な自分が「え、なに、これで気付かれないとでも思ってんの?」と突っ込んでいた。
どうやら彼女の言動から察するに、初対面という体を貫くらしい。
そうしてまで他人のふりするってことは──するってことは?
そういえば結局なんでそんなことしてるんだろう。
変装(できてない)をしてまで、ここで働いていることを知られたくない、とか?
ということは、導き出される答えはただひとつ。
──そうか、副業かと。
「はい、よろしくお願いしますね」
うんうん、うちの会社いまどき副業禁止なんて言われてるから、バレたら困るもんね。
うん、よしわかった。
それならわたしもちゃんと他人のふりでいくから任せとけよと心のなかでそう意気込んだ。
「ではまず問診票に記入を……えっとボールペン……あれ、ないな。ちょっと待ってくださいね……あぁ、あったあった」
けれどポケットをごそごそとあさってから彼女が出してきたボールペンが、普通に我々の勤め先の会社名がデカデカと印字してあるものだから、思わずベッドからずり落ちそうになってしまった。
その後もなにやら彼女は物の場所を把握してなかったり段取りが悪かったりと、どう考えても慣れていないであろうことに気がついた。
「あの、失礼ですがこのお仕事はまだあまり……?」
「あはは、すみませんやっぱりわかっちゃいますか。今日が初めてなんですよね。だから無料モニターのご案内させてもらったんです」
「へぇ、そうなんですねー」
「なので今日は触ってない箇所がないくらいまでがんばらせてください! 無料なので!」
「ははは、よろしくお願いします」
副業の初出勤ってことか。
なんだかはじめておつかいに行くちいさな子どもに出会したような気分になってしまう。
そうして話しているうちにもうひとつわかったことがある。
たぶん戌丸は、わたしが戌丸だと気付いたことに気が付いてない。
だって普段とはまるで違う。
戌丸はわたしのことを「夜宵さん」なんて呼ばないし、本当に初対面の人を相手にするようにすらすらと世間話を続けている。
いまだってわたしが問診票に記入しているところに、今日はお仕事帰りですか? だとか、お友だちのご紹介なんですよね? などとにこにこと話しかけてきている。
けれどここで不意に吉備の言葉を思い出した。
『今日はものすごく大事な予定が入りそうだから来れないって。なんか珍しくちょっと、浮かれた感じで言われた。あと、今後もたぶん来る予定ないって』
大事な用事、浮かれた感じ、同期会には今後も行かない、初めての出勤。
これらの情報を総合して考えると、わたしの灰色の脳細胞がビビッときた。
そうかこれは副業じゃない、これはきっと。
──転職!
うちの会社、結構時代錯誤だなと思うようなこともあるし、ほかの同期ももう既に何人も辞めてるから、戌丸が会社に嫌気が差して転職に向けて動いていたってなんの不思議もない。
うん、ほんとにそう。
実際はどうだかわからないが、わたしはひとまずそう思うことにした。
だってその方が元々想定していた状況よりもたぶんずっとマシだから。
そんなことを考えながら、いつの間にやら隣に腰掛けていた戌丸へ書き終えた問診票を差し出す。
「はい、お願いします」
手渡そうとしたそのとき、手と手がわずかに触れ心拍数が上がる。
どきどきと高鳴るこの心音を聞かれてませんように。
顔や態度には出さないよう笑顔をキープしながらわたしはそう願った。
「ありがとうございます!」
問診票を受け取ってから目を通す戌丸の姿をこっそりと横目で見つめながら、じゃあもうここに来ないと会えないのかなと思うと少し寂しくなった。
結局素直にはなれなかったけど、あぁやって毎日話すの、わたしは好きだったんだけどな。
「えっと、えーっと……足がお疲れみたいですね」
「えぇ。まぁ外回りがメインなので」
でも戌丸には戌丸の人生があるし、少し、いやかなり、いやものすごく悲しいけれど、それでもわたしは逆にポジティブに考えることにした。
「じゃあ今日は足を重点的に、全身ほぐしていきますね」
「よろしくお願いします」
向こうはこちらが気づいてないと思ってるみたいだし、もういなくなっちゃう。
それなら最後にちょっとだけ思い出を作ったってバチは当たるまい。
今日は失恋記念日改め戌丸卒業記念日じゃーい! とわたしは心の中で半ばやけくそ気味に叫びつつ、せっかくなのでマッサージとこの状況を堪能させていただくことにしたのだった。




