第6話 どこからどう見ても
雉村に連れられ会社を出ると、彼女はすぐに入り組んだ路地の方へ向かって歩き始めた。
かろうじて人がすれ違えるかどうか、そのくらい狭い雑居ビルの隙間で、斜め前を歩く彼女はなんだか普段よりも足取りが軽いような気がした。
わたしの方も、今日はもうとことん癒されて帰ってやろうと思っている。
だって今日は、きっとそのくらいしてもバチは当たらないはず。
そんなことを考えながら右、右、左と角を何度か曲がると、やがて少し開けたところに辿り着いた。
広場と呼ぶにはいささかこぢんまりとしているそこには、いくつか店が並んでいる。
そしてそのなかのひとつを指差して、雉村はにっこりと微笑んだ。
「お待たせしました〜、目的地はここでーす」
彼女の指差す先を目で追うとそこには、まるで落ち着いたカフェのような雰囲気のお店があった。
外からガラス越しに店内の様子を窺うと、カフェのように配置されたソファとテーブルの奥に受付のようなスペースがある。
そしてその奥には廊下が続いているようだった。
「もう着いたの?」
会社から目と鼻の先じゃないかと少し驚いていると、近いって言ったじゃないですかと突っ込まれる。
そういえばそんなこと言ってたような気が──ん? 本当にそんなこと言ってたっけ?
僅かに疑問に思ったものの、まぁそんなことはどうでもいいかとわたしはすぐに口をつぐんだ。
いや近いのはいいことだよね。
だってそれなら仕事帰りにパッと寄りやすいし。
今日の様子見でもしよさそうなら、ちょこちょこ通っちゃおうかなぁ、だなんてわたしは少し浮き足立っていた。
「さっ、早く入りましょう」
「うん」
ドアを開くとベルが小さくカランカランと音を立て、受付に居た女性はすぐにこちらに気付き穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ雉村様、本日もご予約ありがとうございます」
「えぇ、今日もよろしくお願いします」
どこか上品さが漂うその女性との話しぶりから、どうやら雉村は本当にここの常連らしい。
別に疑っていた訳ではないけれど。
そしてその人はわたしの方を向きながらゆったりと目を細める。
「雉村様のご紹介のモニターのお客様ですね。本日はご協力頂き誠にありがとうございます。さ、まずはお茶をお持ちしますのでお掛けになって少々お待ちくださいませ」
わたし達は促されるままソファ席に腰掛ける。
店内ではスローテンポのジャズのような音楽が流れ、スッと爽やかな香りがほんのりと香っていた。
いい匂い、と少し目を閉じる。
嗅いでいるだけでなんだが気分が落ち着くようなこれは、いったいなんの香りなんだろう。
そう不思議に思っているとすぐに店の奥から飲み物が運ばれてきて、目の前のテーブルにことんと置かれた。
「こちらは当店で特別に配合したハーブティーでございます」
湯気の立つガラスのカップからは、あっという間に先程から感じていた爽やかな香りが立ち込める。
それはミントや柑橘のようにスッと爽やかで、けれどもほのかにりんごのように甘酸っぱい香りだ。
「女性の方は年中冷え性の方が結構おられますよね。冬はもちろんですが、春秋の朝晩は冷え込みますし、夏は冷房で。内臓から冷えている場合が多いので、当店ではまずお飲み物で身体を温めていただくことから始めさせていただいております」
「へぇ、そうなんですね」
説明を聞きながらゆっくりと口元へ運ぶ。
口に含むと途端に香りが強くなり、お腹の奥からじわりと温まっていくのを感じた。
「……わ、おいしい」
香りからして、もう少しクセの強い味を想像していたけれど、予想に反してそれはとても飲みやすい。
こくり、こくりとゆっくりの飲み込んでからほっと息を吐く。
初めて飲んだはずなのに、なんだか落ち着くような懐かしいような、不思議な感じがする。
どこかで嗅いだことのあるようなこの香りは、いったいどこで嗅いだことがあるんだろう。
「それではお部屋のご用意ができましたらお声がけしますので、こちらお飲みになってお待ちください」
「はい、ありがとうございます」
そして軽く会釈をしてから、店員さんは廊下の奥の方へと歩いていった。
「気に入りました?」
「うん。これ味も美味しいけど、なんだか香りがすごくいいね」
「でしょ〜?」
わたしの言葉に、雉村は少し嬉しげにえっへんと胸を張る。
やっぱり紹介した手前気に入ってもらえると嬉しいのかなと、なんだか少し微笑ましいように思う。
「これ普通に販売もしてるんで、もしよければ受付で声かけてみてください」
「そうなんだ、じゃあ帰りに買って帰ろうかな。正直今日はやけ酒でもしたいような気分だったけど、おかげさまでちょっと落ち着いたみたい」
「やけ酒? 今日なんかありましたっけ」
「ん? あ、まだ言ってなかったね。うん、なんかわたし失恋しちゃったみたいでさ。だから今日は失恋記念日だーって、ぱぁーっと盛大にやけ酒でもしようかと」
「し、失恋!? いったいなんでまたそんな……」
驚く彼女にことの顛末をかくかくしかじかとかい摘んで話しながらお茶を啜る。
大丈夫、涙はすでに引っ込んでしまったから落ち着いて話せていると思う。
「……という訳でね、まぁ振られる前に試合終了みたいな」
「ははーん、なるほどそういう……」
雉村はそう呟いていると、先程の店員さんから「雉村様、お待たせいたしました」と声をかけられ、彼女はハーブティーをぐいっと飲み干す。
「猿渡様のお部屋もご用意ができ次第担当のものが迎えに参りますので、こちらでもう少々お待ちください」
「はい、わかりました」
「ごちそうさまでした。じゃ、わたしは先に行きますが帰りは予定通りこのまま各々でということで」
「あ、うん。じゃあまた来週ね」
雉村はバッグを手に立ち上がり、店員さんの後を着いて廊下の方へ向かって歩き始める。
けれど途中でなにかハッと思い出したようにこちらを振り返り「あぁ、あとそれから」と口を開く。
「先輩。きっと、いい日になりますよ」
そう言い残すと彼女は廊下の奥の方へ消えていった。
どういう意味だろうかと不思議に思っていると、廊下の奥の通路からの小さな足音に気がつく。
今日担当してくれる人かなと思い何気なく音の方へ視線を向ける。
その先にはすらりと背の高い人が、手にしたバインダーを眺めながらこちらへ向かっていているのが見えた。
見えたのだけれど。
「……?」
──けれどどうにも違和感がある。
その人は左手にバインダーを待ち、顔はそれで隠れていてまだ見えない。
しかし右手と右足が同時に出ていて、なんともぎこちない歩き方をしている。
そしてバインダーの端から見えている耳は、何故だか真っ赤に染まっていた。
緊張してるのかな、先程の雉村のようなえっへんと胸を張るような反応も微笑ましいが、なんだか不慣れな様子も同じように可愛らしく感じる。
モニターって、口コミ目当てのものかと勝手に思っていたけれど、今日のはもしかして新人さんの研修なのかもしれない。
しっかりとわたしがチュートリアルとして頑張らなければと心の中でひっそりと決意していたが、やがてカルテで隠れていた顔が半分ほどあらわになり、徐々に近づいて来るその人にわたしは思わず驚いて固まってしまった。
──いや、そんなまさか、うそでしょ?
「い、いらっしゃいませ! ご来店ありがとうございます」
やがて目の前までやって来たその人は、にっこりと目を細めて出迎えてくれた。──くれたのだけれど。
いやだって、髪を下ろしていても、眼鏡を外していようと、マスクで顔半分隠れていても、わたしが間違える訳がない。
この人はどこからどう見ても。
「あさひっていいます。精一杯頑張りますのでよろしくお願いしますね」
──雉村に連れられマッサージ店へやって来たわたしを出迎えてくれたのは、想い人である戌丸朝日その人だった。




