雹の平原
その日のうちに麓の町へ降りるつもりだったが、傷んだ車体と折れた肋骨はそう簡単には許してくれなかった。
ハンドルのセンターが微妙にずれ、右へ左へ切り返すたびに車体の芯が遅れてついてくる。フロントブレーキを強く握ると、歪みを隠しきれない振動がレバーを通して指先に上がってきた。
病院に行くという考えがなかったわけではない。だが、痛みを抱えたまま進んでみたい気持ちのほうが強かった。
山をいくつか越え、町を抜け、また別の高原道路へ入る。
標高が上がるにつれて風は乾き、樹々の背丈が低くなっていく。やがて道の両側から木が消え、灰色の地面がむき出しになった。火山礫なのか、風化した土なのか、細かな石がどこまでも続いている。草はまばらで、ところどころに低い灌木があるだけだった。
まるで日本ではないような、異国の景色のようだ。
空は高く、地面は乾き、色が抜け落ちている。砂漠と呼ぶには湿り気があるはずなのに、目の前へ広がるのは確かに砂漠のような平原だった。
胸の痛みは、もう痛みというより呼吸の一部になりつつあった。
信号も対向車もほとんどない一本道で、ひたすらに前だけを見ていた。会社も家族も、忘れたわけではない。だが、それらはもう追いかけてくるものではなく、遠く地平線の向こうの出来事のように感じられた。
代わりに、胸の奥では別のものが膨らんでいる。
年を経るごとに身につけてきた防御を脱ぎ捨て、むき出しのまま風に晒されている感覚。愚かで、危うくて、それなのにどこまでも自由だった。
昼を過ぎたころ、空の色が変わり始めた。
遠くの山の向こうに墨を流したような雲が盛り上がり、その下だけが異様に暗い。
乾いた平原を渡ってくる風が、急に冷たさを帯びて、空気の粒が変わったことを感じる。
最初のひと粒は、シールドへ小石のように当たった。
次の瞬間、ばら、ばら、ばら、と硬い音が一気に増える。
雨ではない。氷だ。
雹だった。
慌てて路肩へバイクを寄せた。だが、そこに逃げ場はない。木も建物もない灰色の平原の真ん中に、道と、傷ついたバイクと、自分だけが取り残されていた。
雲は恐ろしい速さで頭上を覆い、光は消えた。空全体が鉛色の蓋になったかと思うと、雹は一気に勢いを増した。
ばちばちと、無数の氷がヘルメットを叩く。
肩も腕も背中も容赦なく打たれる。シールドの向こうが白く曇り、路面へ跳ね返った雹がさらに視界を乱す。
風が横から吹きつけ、氷の粒を斜めに走らせた。
世界中から氷の粒が降ってきて、自分という輪郭を叩き潰そうとしているようだった。
灰色の平原は、みるみる白くなっていく。
乾いた石の大地へ、無数の氷が跳ねて積もる。地面は白く煙り、空との境目が消え、上下の感覚さえ曖昧になる。
金属を打つ音。地面を打つ音。ヘルメットを打つ音。何万という小さな衝撃が重なり合って、やがてひとつの巨大な轟きになる。
笑いが込み上げた。
これを見るために、ここまで来たのかもしれないとさえ思った。
中年も若者も、夫も父も、会社員も逃亡者も、雹の下では等しく打たれ、縮み、呼吸し、立ち尽くすだけの存在だ。その中に立っていると、会社のことも、家を出たことも、若者に意地を張ったことも、骨の痛みも、バイクの傷も、すべてが等しく小さく、どうでもよくなっていく。
雹はただ、容赦なく打ちつけてくる。
やがて、少しずつ勢いが弱まり、空の端に薄い光が滲み始める。白くなった平原のあちこちから、白い蒸気が立ちのぼっていた。
その光景を、ただ呆然と見ている。
まるで世界が一度まっさらに削られ、その上へ新しい膜が一枚張られたようだった。
頭の中にあったざわめきが、ごっそり持っていかれている。
何かを決心したわけではない。何かが分かったわけでもない。ただ、雹が全部を叩き落としていったあとに、静かな空洞だけが残っていた。




