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ライク・ア・ハリケーン  作者: ままま


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9/9

エピローグ

冬の朝だった。

港町の防波堤に立つと、鉛を溶かして薄めたような海面が、沖まで広がっている。風は強くない。ただ冷たく、頬や耳たぶの輪郭を確かめるように撫でていった。


空は高かったが、夏のような厚みはもうなかった。

いつの間にか季節は変わり、気がつけば半年が過ぎていた。


長いとも短いとも思わなかった。

日付を数えながら来たわけではない。ひとつ峠を越え、町に泊まり、何日か留まり、また走る。その繰り返しのなかで、気温だけが少しずつ下がり、朝のエンジン始動が重くなり、煙草を持つ指先がかじかむようになった。それでようやく、時間が流れていたことを知る。


黒いGS1200SSは、防波堤の脇に停まっていた。

フロントカウルの傷はそのままだ。サイドカウルの割れも消えていない。応急的に留めた箇所には、別の町で買った部品や金具が継ぎはぎみたいに噛んでいる。まっすぐ走るにはまだ少し気を遣う。冷え込む朝は、脇腹の奥が、鈍い錆のように痛んだ。


だが、走れないわけではなかった。

走れないわけではない、ということが、いつからか大事になっていた。

港の向こうで、漁船のエンジンが低く唸った。

少し遅れて、かもめが一羽、白く切り立った風景の上を斜めに横切る。缶コーヒーを片手に、その動きを目で追った。


結局、家にも会社にも連絡を入れなかった。

最初のうちは何度も着信があったが、そのうち減った。世界は案外、ひとり欠けたくらいでは壊れない。そう知って、少し楽になり、少しだけ傷ついた。


靴底の下で、白く乾いた塩が砕ける。

海面は鈍く、空は薄い。境目が曖昧で、遠くを見ていると、自分がどこに立っているのか分からなくなる。


半年経っても、何かがはっきりしたわけではなかった。

自分が何を捨て、何を取り戻したかったのか。

なぜあの日、屋上で名刺を捨てたのか。

なぜ古いバイクを引っぱり出して、行き先も決めずに走り出したのか。

問いの輪郭は前より静かになったが、答えは依然として無かった。


それでも、あの雹の記憶だけは鮮やかだった。

空から降ってきた硬い氷の粒。

いろいろなものが叩き落とされていく感覚。

頭の中のざわめきだけがごっそり持っていかれた、あの妙に澄んだ空洞。


あれ以来、自分の中には、前より少し広い場所ができた気がしていた。

何かで埋めるための空間ではない。

むしろ、無理に埋めなくていい空間だった。



旅先で会う人間たちは、たいてい深入りしてこなかった。

古いバイクに乗った、年のいった男。傷の多い車体。長くは続かない会話。安宿。湯のぬるい風呂。窓の隙間から入る冷気。朝の食堂の焼き魚。そういう断片のなかを歩いてきた。


一度、山あいの町で、バイク屋の親父に言われたことがある。

「直しきらないほうがいい傷ってのも、あるからな」

そのときは曖昧に笑っただけだった。

だが今は、その言葉の意味が少し分かる気がする。


ポケットから煙草を出した。キャメル。

指先で箱を叩くと、一本だけゆるく飛び出す。火をつけて吸い込むと、冬の乾いた煙が肺の奥までまっすぐ落ちていった。肋骨の古傷が、小さく存在を主張する。


遠くで船の汽笛が鳴る。

煙を吐き、海の向こうを見た。

何かが待っていると思っている訳ではない。だからといって何もないとも思わなかった。

道というのは、たぶんそういうものなのだろう。意味があるから進むのではなく、進んだあとでしか見えないものがあるだけだ。


戻ることについては、ときどき考えた。

春になったら、と思うこともあった。

もう少し南へ下ってから、と思う日もあった。

あるいは、突然今日帰ってしまってもおかしくない、そう感じるときもあった。

どれも本心で、どれも決定ではなかった。


凍えた指で缶コーヒーを飲み干し、踵を返した。

バイクへ戻ると、タンクに手を置く。金属は冷たかったが、その奥にはまだ熱の余韻がある。

キーを差し込み、ひねる。


セルスターターのボタンを押すとモーターが短く唸り、次の瞬間、エンジンが低い音で目を覚ます。傷だらけの車体が細かく震える。その震えは、半年経った今もどこか頼りなく、それでいて妙に正直だった。


ヘルメットを被った。

シールドを下ろすと、海も空も、少しだけ遠くなる。


風が吹いていた。

もう、背中を押す風ではない。

何かを急かす風でも、試す風でもない。

ただ、こちらが走るなら横を走り、止まるなら先へ行ってしまうだけの、冬の風だった。

それをありがたいとも、寂しいとも思わなかった。

そういうものか、と思った。


クラッチをつなぐとゆっくりと走り出した。

港町の細い道を抜け、その先の国道へ向かう。標識の文字は薄く、朝の光に冷えている。

右へ行けば別の県へ抜ける。左へ行けば海沿いに南へ下る。


どちらへ向かうのか、自分でもまだ決めていない。

決めていないまま、走り出せる朝があることを、半年かけて知った。

そのことを、以前より少しだけ信じていた。


道は冬の光の中へ、まっすぐ伸びていた。

まだ旅の途中の人間の速さで走っていく。




お読みいただきありがとうございました。

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